○切なさという気分について想いを馳せる
思い起こせば、僕は<切なさ>という感情から解放されたことなどかつて一度たりともない、と思う。現象的にみれば、切なさが最も鮮明に表出されるのは、他者との別れの場面である。それが死別であれ、離別であれ、愛という概念に近ければ近いほど、切ない気分は増幅していく。切なさはある意味、唐突に眼前に現れ出た不幸の様相を呈しているように錯誤している人々が多いが、切なさは、人が己れの意思によって招いた結果において、最も色濃く身に降りかかってくるような性質を持った存在である。創作芸術としては最も大衆的な映画という世界の中に、人は飽きることなく、人生の切なさを、あるいは男女の愛の切なさを、またあるときには、生命の脆さゆえの切なさを、映画の物語性に託して疑似体験しようと試みるのは、<切なさ> とは、生の向こうからやって来るものでは決してなく、主体としての人間が、こちら側から起こして感得する重要な感情ではないか、と僕は思う。切なさに涙はつきものである。だからこそ、「涙なしには語れない切なさ」に人はしばしば憤り、かつ感動もするのである。
<切なさ>から解放されたことのない自分という存在がいる、と書いたが、恐らくは、これを読んでくださっている人たちの多くは、それぞれに異なった状況のもとで、切なさを体感せざるを得ない状況に追い込まれ、否応なく受容する。いや、僕の表現は正確ではない。追い込まれたのではなく、むしろ<切なさ>とは、自らを追い込んだ結果、裡に生じる抜き難い感情の発露ではないか、と思う。たぶん、間違ってはいない、と思う。
もっと視点を広げて語ろう。人は切ないから生きるのである。生きているから切ないのでは決してない。言い方を換えれば、生に内包されている最も重要な感性の一つが<切なさ>である。この意味で言うと、人が人生における哀愁の念を喪失した瞬間から、その人は言葉の虚飾を剥いで言えば、生きながら死んでいると言っても的は外してはいまい、と思う。どのような愛の形態においても、切なさを伴わないそれはエセものである。切なさを喪失してしまった結果の現代の悲喜劇は、愛のないセックスの氾濫である。あるいは愛のないセックスレスの氾濫でもある。
愛が幸福感と同時に育まれるとき、人は生の歓喜の頂点にいるのだ、と思う。しかし、たとえ愛と幸福感の存在の間にズレが生じたとしても、その隙間に人は<切なさ>というエッセンスを投入して、悲しいが、それでも愛の本質を感得する。この意味において、<切なさ>とは、歓びとは対極に在るかのように見えて、実はこの二つの要素は表裏一体の存在でもある。確かに<切なさ>は、人の胸を抉りはするが、同時に、人の心の中に、他者に対する限りない優しさをも芽生えさせてもくれるのである。誤解を恐れずに言えば、<切なさ>を与える側も、<切なさ>を受ける側も、同時に切ないのである。これが人生のある種の抜き難いエッセンスであるのかも知れない。後悔も懺悔も憎しみも嫌悪も、それ以外のあらゆる感情が入り交じりながらの生のあり方ではないか? かくも、生きるとはこんなにも苦しく、切なく、また同時に歓びに満ちあふれた存在ではなかろうか? 乱れた観想である。しかし、それでも敢えて、恥を忍んで、その乱れを書き記す。
〇推薦図書「昨日」 アゴタ・クリストフ著。早川書房。主人公のトビアスは、亡命し、異邦にて工場労働者として、灰色の作業着を身にまとい、来る日も来る日も単調な惨めな作業に明け暮れながらも、トビアスは最後に残された希望-彼の夢想の中だけに存在する女性リーヌと出会うことだけを寄りところにして生きています。不条理ですが、生が有意味性と無意味性とが混在したものという認識を深いところで知らせてくれる作品です。よろしければ、どうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
思い起こせば、僕は<切なさ>という感情から解放されたことなどかつて一度たりともない、と思う。現象的にみれば、切なさが最も鮮明に表出されるのは、他者との別れの場面である。それが死別であれ、離別であれ、愛という概念に近ければ近いほど、切ない気分は増幅していく。切なさはある意味、唐突に眼前に現れ出た不幸の様相を呈しているように錯誤している人々が多いが、切なさは、人が己れの意思によって招いた結果において、最も色濃く身に降りかかってくるような性質を持った存在である。創作芸術としては最も大衆的な映画という世界の中に、人は飽きることなく、人生の切なさを、あるいは男女の愛の切なさを、またあるときには、生命の脆さゆえの切なさを、映画の物語性に託して疑似体験しようと試みるのは、<切なさ> とは、生の向こうからやって来るものでは決してなく、主体としての人間が、こちら側から起こして感得する重要な感情ではないか、と僕は思う。切なさに涙はつきものである。だからこそ、「涙なしには語れない切なさ」に人はしばしば憤り、かつ感動もするのである。
<切なさ>から解放されたことのない自分という存在がいる、と書いたが、恐らくは、これを読んでくださっている人たちの多くは、それぞれに異なった状況のもとで、切なさを体感せざるを得ない状況に追い込まれ、否応なく受容する。いや、僕の表現は正確ではない。追い込まれたのではなく、むしろ<切なさ>とは、自らを追い込んだ結果、裡に生じる抜き難い感情の発露ではないか、と思う。たぶん、間違ってはいない、と思う。
もっと視点を広げて語ろう。人は切ないから生きるのである。生きているから切ないのでは決してない。言い方を換えれば、生に内包されている最も重要な感性の一つが<切なさ>である。この意味で言うと、人が人生における哀愁の念を喪失した瞬間から、その人は言葉の虚飾を剥いで言えば、生きながら死んでいると言っても的は外してはいまい、と思う。どのような愛の形態においても、切なさを伴わないそれはエセものである。切なさを喪失してしまった結果の現代の悲喜劇は、愛のないセックスの氾濫である。あるいは愛のないセックスレスの氾濫でもある。
愛が幸福感と同時に育まれるとき、人は生の歓喜の頂点にいるのだ、と思う。しかし、たとえ愛と幸福感の存在の間にズレが生じたとしても、その隙間に人は<切なさ>というエッセンスを投入して、悲しいが、それでも愛の本質を感得する。この意味において、<切なさ>とは、歓びとは対極に在るかのように見えて、実はこの二つの要素は表裏一体の存在でもある。確かに<切なさ>は、人の胸を抉りはするが、同時に、人の心の中に、他者に対する限りない優しさをも芽生えさせてもくれるのである。誤解を恐れずに言えば、<切なさ>を与える側も、<切なさ>を受ける側も、同時に切ないのである。これが人生のある種の抜き難いエッセンスであるのかも知れない。後悔も懺悔も憎しみも嫌悪も、それ以外のあらゆる感情が入り交じりながらの生のあり方ではないか? かくも、生きるとはこんなにも苦しく、切なく、また同時に歓びに満ちあふれた存在ではなかろうか? 乱れた観想である。しかし、それでも敢えて、恥を忍んで、その乱れを書き記す。
〇推薦図書「昨日」 アゴタ・クリストフ著。早川書房。主人公のトビアスは、亡命し、異邦にて工場労働者として、灰色の作業着を身にまとい、来る日も来る日も単調な惨めな作業に明け暮れながらも、トビアスは最後に残された希望-彼の夢想の中だけに存在する女性リーヌと出会うことだけを寄りところにして生きています。不条理ですが、生が有意味性と無意味性とが混在したものという認識を深いところで知らせてくれる作品です。よろしければ、どうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃