ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

いったい人はどれだけ傷つき、傷つけながら生きていかねばならないのだろう?

2008-07-26 02:27:03 | 観想
○いったい人はどれだけ傷つき、傷つけながら生きていかねばならないのだろう?

この歳になると、道を歩いているとき、なにやら手持ちぶたさの折り、物事がうまく運ばないとき、決断が鈍り逡巡しているとき、ふっと、呟いてしまうひと言がある。「人生なんてなあ?・・・」という至極簡便な表現なのだが、文字にすれば「・・・」の内実は、この言葉を呟く刹那、さまざまに入り乱れ、統率のない想念で埋もれている始末なのである。何の真実もつかめぬままにここまで来てしまった。

心の傷の深さと傷口の数は増えるばかりである。心が傷つくことの、疼痛の感覚は日常のものと化している。傷つくことの実質は、他者との関係性の壊れとして、心の底に澱のように沈殿しているのである。もう傷つきたくはない、という叫びにも似た感覚が、翻って考えると、傷ついた自分の心が、他者を傷つけているという、とんでもない悪循環の中でもがいている自分の姿に気づく。たぶん、自分の死の姿とは、それが実質的にどのようなものなのかは想像し難いが、敢えて言うなら、悶死だろう、と思う。それ以外の死ざまは考えられない。病名などはこの際、関係ない。悶死という名の、自分自身への命のケリのつけかた以外に、自分の死をイメージすることなど出来はしない。

気がついてみると、いま、自分のまわりには、血を分けた縁戚が誰一人たりとも残ってはいない。特に僕が避けてきたわけではない。母と絶縁したのも、母以上に母性を感じていた叔母と絶縁したのも、自分が捨てられたからである。捨て犬のような感覚には到底耐えられなかった。ならばこちらから捨ててやろう、と思っただけである。望んでやったことではない。結論的に言えることは、もうこれ以上傷つきたくはない、という切ない願いだけだった。もう自分が壊れる、という予測だけははっきりと想定できたからである。もし、文字通り自分の内面が瓦解して、それでも生き残っていたとしたら、自分の生のあり方は、他者を傷つけることによって、自己の存在意義を確かめる以外に方途はない、と想像出来る。人生の結末に向かう過程で、もうこれ以上の醜悪さに僕は耐えられはしない。人を傷つけ、人から傷つけられる顛末は、自分の醜い姿を見たくないがための、孤独な自死でしかないであろう。

幼かった頃、何故あれだけ自分のまわりには、深い関係性を切り結べる人間関係が存在し得たのだろうか? 貧しかったが、恐らくは青年の頃までは、孤独という概念はあくまで自己の内面のドラマとして受容し得るものだった。またその孤独感が、自己の内面を深めてくれた、とも言える。死は身近に在ったが、自死の想像でさえ、己れの心の栄養素だったのではなかろうか? 青年の頃から自分が人生に於ける敗北者であることの意味を自覚していたように思う。別に特段哀しくはなかった。何故なら、自分の周りには、心の深いところで関係性を保持した人間との連帯感が確実に存在していたからである。縁戚関係もいまだ確固として在ったし、当時の僕はそのことがかえって煩わしい、とさえ思っていたくらいである。心を通わせた友人たちも確かに存在していた。彼らは一応に元気だったし、心の萎えきった僕には、彼らがどうしても必要だった、と思う。当時の僕の状況を規定する言葉があるとすれば、それは「騒がしい孤独」とでも言えるものではなかっただろうか? 僕はその喧騒の只中で、絶望しても、命運断ち切れんばかりの崖の淵から這い上がって来れたのだ、と思う。

しかし、いまはどうだ? この間いつも触ることのない机の引き出しの中をゴソゴソと弄っていたら、古びた名刺が見つかった。幼い頃からずっと懇意にしていた従兄弟のものだった。彼はある大阪の会社の、ある部門の部長という肩書もった男になっていた。恐々会社に電話した。彼は確かにそこに居た。僕は彼への疎遠を詫び、出来ればまた50代の従兄弟どうしとして愚痴でもこぼし合わないか? と問うた。彼は僕のメルアドにメールを入れると応えて電話を切った。しかし、彼からいまに至るもメールが届くことはない。たぶん、彼の人生の中に、僕という存在が割り込む隙間などないに違いない。それだけ溌剌とした人生を送ってくれていることか、と納得しつつ、喜びとともに襲ってくる深い哀しみの中にうち沈む。傷ついた自分を意識せざるを得ない。あるいは、僕が彼を傷つけていたのかも知れない。いずれにせよ、もうこのようなやりとりをする心の余裕は僕には残されてはいない。もし、いま僕に存在意義が在ると仮定するなら、僕と言葉を交わす人々の深い哀しみと、僕自身の取り戻しようもない哀しみとが、どこかで共鳴しているからに他ならない。いま、僕が生き長らえている理由はこのような微かな細い糸で、生と繋がっているだけだろう、と思う。この歳にして、何とも情けない結末だが、敢えて書き記す。

〇推薦図書「銀行告発」 江上 剛著。光文社文庫。プロットの流れの速さと、おもしろさを大いに楽しんでください。人生に虚しさを感じたとき、ひょっとすると一条の光が見えるかも知れません。ぜひ、どうぞ。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃