ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

愛という論理の復権について思うこと

2008-07-23 01:30:48 | 観想
○愛という論理の復権について思うこと

自分という人間はなぜかくも脆く、脆いがゆえに己れの日常生活が常に破綻する危険性に身を晒し、それでも自己の狭隘な内奥の事実に目を背け、日常性というかなり困難な壁の前で立ちすくみ、反対に、非日常という世界観に価値あるものを見出そうとして見出せず、ただ、非日常的なる生の抗いに身を投じてきたのか?その理由が、人生の半ばをとっくに通りすぎたいま、ようやく視えてきたような気がする。何のことはないのである。僕には、生の只中において、受けるべき愛の欠如が歴然として在り、その欠落感ゆえに長らく苦しんできただけのことなのである。とは言え、それをいまの僕が手中に収めきれるのか否かについては、愛の対象者に対して、人生最後のカケをしなければならないだろう、と思う。勝利か、あるいは敗北か? いずれでもよい。闘うことが生の可能性を押し広げることだろうから。

僕が文学作品を読んでいて、どうしても捉えきれなかった難問とは、母性という、愛についての考察に関わる描写であった。確かに母性に関して書かれてあることの意味は分かる。分かるが、決してその本質が胸に落ちては来なかったのである。その意味で、僕の読書の結果、得られた果実はかなりやせ細ったものであったに違いない。一体、膨大な量の書物の中から、どれだけ貴重な価値意識を獲りこぼしてきたのか? と思うと、人知れず背筋に冷たいものが流れ落ちる。もし、僕に教養らしきものがあるとしても、それは多分中抜けの、無価値な代物である。そんなものが他者に通用するはずもないのは分かりきっている。僕が意図せずして、喪失してきた多くの他者との関わりの結果としての、破綻の理由が分からず、一人悶々としていた時が如何に長かったことか。他者に対する優しさを示したつもりでいても、それが殆どの場合において、ふと気づいたら、信用されないままに他者から、どれほどの割合で切り捨てられてきたことだろうか。僕は哀しみの底でもがき苦しんでいたような気がする。

何が僕を苦悩の果てにまで連れ去っていくのだろうか? という深い疑問は、僕の心の襞に粘りついて離れなかった。それに粘りなどなく、すんなりと剥がれ去ってくれる方がどれほどよかったことか、とも思う。そうであれば、僕は孤独な生を送って、何憚ることもなく、むしろ孤独そのものを享楽の道具にし得たのかも知れない。しかし、現実の僕の心はいつも見果てぬ夢を見たがる夢想者のように、生の只中を彷徨った。そして苦しんだ。その事実をいまはもう否定はすまい、と思う。彷徨いながら僕は愛という茫漠とした観念を追い求めた。愛の最も簡便な表現法とは、恋愛におけるそれであろう。決して異性に興味を抱かれる男ではない。そんな男が恋愛という愛の言葉を紡ぐのである。失敗だらけの結末ばかりである。さらに言うならば、愛の意味も分からずに、愛を語るなどという愚行は、破廉恥な終焉を迎えるだけである。とは言え、多くの人々は、愛の意味などにそれほどの意味を感じてはいないのかも知れない。己れが求めて止まない愛の本質に在るものとは一体、なにものであるのか? という疑問を抱く時間もなく、せわしなく愛の言葉を紡ぎ、愛の行為に走っているだけではなかろうか? そのようなところには、愛が瓦解せんがための道筋がすでに用意されているのだろう、と思う。世の中の、愛の破綻という酷薄な現実を見聞きするにつけ、人は愛という本質について殆ど深く考えることなく、愛の影を追いつづけているのではなかろうか? と想うばかりなのである。

とは言え、愛のかたちを一つに絞り込め、と言われても不可能なことである。何故なら、愛のかたちには、人それぞれが抱え持った生の不全感を埋めんがための、切ない望みが託されているからに他ならないからである。したがって、愛を普遍化するなどということは不毛な論理である。愛こそは本質的に多様な存在であるからだ。それはつまり人の抱え持つ生の不全感とは、その人の生きた歴史の中で育まれる、あるいは欠落した末に保持してしまう存在そのものだから。

さて、僕個人の生の欠落感について、恥を忍んで書き記す。僕には母がいなかった。いや実際には僕をこの世界に産み落とした女性は存在したが、彼女は、女そのものでは決してなかった、と思う。男よりも強靱な精神を持った女、聞こえはいいが、言葉を換えれば、母性のカケラもない女性? だった。母性という深き愛の論理に支えられた人間は、母なる大地に足をしっかりと据えて生きることの出来る人々だろう、と僕は思う。(いや、これ自体が過大な幻想を孕んでいるのだ!)しかし、それに比して、僕の裡なる愛の原像の中には、見事に母性という、人間にとって、たぶん最も大切な生命力の根っこを支えてくれるはずの原質が、事の始まりから存在しなかったのである。

母性の欠落した愛になど、他者を受容するだけの器など備わるはずがないではないか。かくして、僕は求めても得られる可能性の極めて少ない母性愛を異性の裡に求めては失望するばかりだったのである。はじめから身につけていなければならなかったはずの愛の決定的な欠落は、僕に、生きていることの虚しさばかりを突きつけた。勿論恋愛には失敗しつづけた。他者との間で切り結ぶべき人間の絆も、か細いがゆえに千切れんとするような歪なものであった。僕がまともな人間関係を切り結べなかった要因はまさにここに在る、と思う。環境が変化すれば、他者との絆は見事に切れた。切れて、剥がれて、飛び散った。孤独という鉄格子の中に閉じ込められた自分が居た。果たして、人生の折り返し点をとっくに通り過ぎた僕に、母性愛を異性との愛の中に見出すことなどできるのだろうか? 不可能性の中に可能性を見出すごとき転倒した愛のありようを僕はいまだに探し求めているのかも知れない。勿論僕の裡なる愛の復権の最後の抗いだ。恥を忍んで、今日の観想として敢えて書き遺す。

〇推薦図書「男の涙 女の涙」 日本ペンクラブ編。石田衣良選。生きることの重み、どうしようもない切なさを描く名作9編です。珠玉の短編集です。ぜひ、どうぞ。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃