○Vagabond? よし、それならVagabondらしく生き抜いてみせる!
僕の過去における巨悪に対する反抗や、あらゆる権威に対する抗いの歴史(勿論それらは、いまにして思えば、単に自らが造り上げた虚像に過ぎないものなのだが)の根幹に在るものが、歴史という大きな物語が介在して、僕の前に立ちはだかっているようなものではなかった。それは、僕の裡なる荒廃した精神が造り出した、仮想としての、小さな抗いとしての、小さな物語としての対象物に対する、まことに手前勝手な想像の産物に過ぎないものであった。この現実に思い至るまでに、永い、永い年月が過ぎ去った。僕の仮想した権威に対する抗いなどにいかほどの意味があっただろうか? 端的に言えば、それは単なる自己満足のなせる業である。嫌悪すべき宗教的権威の中でぬくぬくと生活しながら、その只中でまるで悪童のごとくぐれていただけの存在が、僕という人間の偽らざる姿である。大きな権力の前にあっては、悪童のごとき抗いなど、いずれは権力そのものに放り出される宿命を背負っているに過ぎない。要するに僕は自分が仮想した権力という、大きな手のひらの上で、反抗という思想のための抗いに興じていたに過ぎないのではなかったか?
さらに言うならば、その抗いの根底に在るのは、思想化された抗いなどではなく、肉親に対する卑俗で凡庸な反発だった、と思われる。その代表的なる肉親とは、僕の幼い頃から大人びた教養を身につけさせた父に対する反発であった。
父は僕の教養(もし、そういう価値があると仮定して)の与え手であるという意味において、大好きな人物である。しかし同時に、生活人としてはまさに生活力のない、Vagabondのような生き方を貫いて短い生涯を閉じた、人生における負け組に属する男でもあった。そして、この僕は、彼の言い知れぬほどに大きな影響下で育った人間である。否定すべき素材は一切ない。
生を放浪して止まない個性が、自分の中に確実に根づいていることに気づいたとき、僕はすでに世の中の価値観からはみ出す方向へ、自滅の道へとひた走っていたような気がする。学生運動への没入は、自分の未来を自らぶち壊すような完璧な自滅への疾走そのものであった、と思う。
どうにか世の中と折り合いがつくまでに、生の崖の下から這い上がったと思ったら、日常生活の単調さにまた耐えられなくなった。宗教的権威に抗ったとは言え、その本質など、所詮幼稚な子どものごとき抗いの姿が見え隠れしている。
人生の大半を生き抜いて、多少は洗練された感はあるにせよ、それにしても、その本質的なる世界観に何らの変化はない。突き詰めて言えば、その根っこには、父のVagabondと同じ種の、世の中とは、どうにも折り合いのつかない精神の放浪癖がついてまわっている。この性向は否定し難いものであり、それだけでなく、僕の裡から離れてくれるような代物ではない。僕が幾つかの人生における節目で、取り返しのつかない失策を冒してしまうのは、たぶん、自分と世界とが切り結ばれる機会を敏感に察知して、自らその機会を壊してきたのではないか? と思われる。僕は父の影響を強く受け、父には感得し得なかった生のあり方を言葉によって思想化し、強化してしまった人間なのではなかろうか?換言すれば、僕の裡で父から受け継いだVagabondの生きざまが増幅し、深く心の底深くに根づいてしまったのではなかろうか?
それならば、僕に残された生の選択肢はいまや、もう一つしかない。生を拒否することなど、幾度も試み、ことごとく失敗したのである。もう自死の可能性など僕の裡から完全に消え去った。もはや、自分の、Vagabondたる生き方を貫く以外の方途などどこにもないではないか。敢えて、自分が精神の放浪者であることの自覚と自負とを持とう、と思う。もし、残された人生に某かの可能性があるとするならば、もはや、自己のコアーであるところの本質を誤魔化して生きることなど、何ほどの意味もないであろう。
Vagabondとして生き抜くこと。Vagabondにしか感じとれないことをことごとく感得してみせること。居直りなのかも知れないが、居直らずには生きられないのであれば、居直りそのものを思想化するしかない。精神の彷徨者として行き着く果てまで行こうではないか、と思う。そのように思い定めた。今日の観想である。
〇推薦図書「負け犬の遠吠え」 酒井順子著。講談社文庫。今日の僕の観想はどう控えめにみても、負け犬の遠吠えに聞こえますね。でも、たとえそうであっても、人の人生の選択肢の中には、負け犬の道を突き進むしかない人間もいるということで、お許しあれ。この書はエッセイ集で、軽妙な語り口で人生の本質に迫ってくるような力があります。人生に行き詰まった折りにでもどうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
僕の過去における巨悪に対する反抗や、あらゆる権威に対する抗いの歴史(勿論それらは、いまにして思えば、単に自らが造り上げた虚像に過ぎないものなのだが)の根幹に在るものが、歴史という大きな物語が介在して、僕の前に立ちはだかっているようなものではなかった。それは、僕の裡なる荒廃した精神が造り出した、仮想としての、小さな抗いとしての、小さな物語としての対象物に対する、まことに手前勝手な想像の産物に過ぎないものであった。この現実に思い至るまでに、永い、永い年月が過ぎ去った。僕の仮想した権威に対する抗いなどにいかほどの意味があっただろうか? 端的に言えば、それは単なる自己満足のなせる業である。嫌悪すべき宗教的権威の中でぬくぬくと生活しながら、その只中でまるで悪童のごとくぐれていただけの存在が、僕という人間の偽らざる姿である。大きな権力の前にあっては、悪童のごとき抗いなど、いずれは権力そのものに放り出される宿命を背負っているに過ぎない。要するに僕は自分が仮想した権力という、大きな手のひらの上で、反抗という思想のための抗いに興じていたに過ぎないのではなかったか?
さらに言うならば、その抗いの根底に在るのは、思想化された抗いなどではなく、肉親に対する卑俗で凡庸な反発だった、と思われる。その代表的なる肉親とは、僕の幼い頃から大人びた教養を身につけさせた父に対する反発であった。
父は僕の教養(もし、そういう価値があると仮定して)の与え手であるという意味において、大好きな人物である。しかし同時に、生活人としてはまさに生活力のない、Vagabondのような生き方を貫いて短い生涯を閉じた、人生における負け組に属する男でもあった。そして、この僕は、彼の言い知れぬほどに大きな影響下で育った人間である。否定すべき素材は一切ない。
生を放浪して止まない個性が、自分の中に確実に根づいていることに気づいたとき、僕はすでに世の中の価値観からはみ出す方向へ、自滅の道へとひた走っていたような気がする。学生運動への没入は、自分の未来を自らぶち壊すような完璧な自滅への疾走そのものであった、と思う。
どうにか世の中と折り合いがつくまでに、生の崖の下から這い上がったと思ったら、日常生活の単調さにまた耐えられなくなった。宗教的権威に抗ったとは言え、その本質など、所詮幼稚な子どものごとき抗いの姿が見え隠れしている。
人生の大半を生き抜いて、多少は洗練された感はあるにせよ、それにしても、その本質的なる世界観に何らの変化はない。突き詰めて言えば、その根っこには、父のVagabondと同じ種の、世の中とは、どうにも折り合いのつかない精神の放浪癖がついてまわっている。この性向は否定し難いものであり、それだけでなく、僕の裡から離れてくれるような代物ではない。僕が幾つかの人生における節目で、取り返しのつかない失策を冒してしまうのは、たぶん、自分と世界とが切り結ばれる機会を敏感に察知して、自らその機会を壊してきたのではないか? と思われる。僕は父の影響を強く受け、父には感得し得なかった生のあり方を言葉によって思想化し、強化してしまった人間なのではなかろうか?換言すれば、僕の裡で父から受け継いだVagabondの生きざまが増幅し、深く心の底深くに根づいてしまったのではなかろうか?
それならば、僕に残された生の選択肢はいまや、もう一つしかない。生を拒否することなど、幾度も試み、ことごとく失敗したのである。もう自死の可能性など僕の裡から完全に消え去った。もはや、自分の、Vagabondたる生き方を貫く以外の方途などどこにもないではないか。敢えて、自分が精神の放浪者であることの自覚と自負とを持とう、と思う。もし、残された人生に某かの可能性があるとするならば、もはや、自己のコアーであるところの本質を誤魔化して生きることなど、何ほどの意味もないであろう。
Vagabondとして生き抜くこと。Vagabondにしか感じとれないことをことごとく感得してみせること。居直りなのかも知れないが、居直らずには生きられないのであれば、居直りそのものを思想化するしかない。精神の彷徨者として行き着く果てまで行こうではないか、と思う。そのように思い定めた。今日の観想である。
〇推薦図書「負け犬の遠吠え」 酒井順子著。講談社文庫。今日の僕の観想はどう控えめにみても、負け犬の遠吠えに聞こえますね。でも、たとえそうであっても、人の人生の選択肢の中には、負け犬の道を突き進むしかない人間もいるということで、お許しあれ。この書はエッセイ集で、軽妙な語り口で人生の本質に迫ってくるような力があります。人生に行き詰まった折りにでもどうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃