○寄る辺なき人生からは、寄る辺ない思想しか紡ぎ出せないのであろうか?
人の実人生のありようは、その人の考え方一つでどのようにも変化するものだ、という思いには確信がある。要は、心の持ちようで、実生活はいかようにも変化し得るということである。ただ、ここには大きな陥穽があって、それは、人は自己の生に対して常に意識的であるとは限らないという現実が僕たちの思索の前提に横たわっているということである。つまりは、日常生活の側から逆にその人の思想が創られるということも否定し難くある、ということだ。このような現実を変容しようとするとき、日常生活者からは、意外に手強い抵抗に遭う。何故なら、生活者としての生活実感によって、その人は実際に、この生き難い世界を生き抜いた、という確信が底にあるからである。だからこそ、実生活の中から抽出された思想は、無論世間知の範疇に過ぎないものであれ、その事実によって物を食らい、排泄し、日常的なあれこれをこなしてきたという自負が、世間知並の思想をあたかも生きる価値基準にまで引き上げてしまいかねないのである。それは大いなる誤謬だが、たとえ誤謬だと認識し、そこから思考の次元を上げようとしても、世間知の次元を凌駕するには、思想的な地平をより高みへと引き上げなければならないわけで、その意味において、覚醒した当事者にとっては未知の分野に足を踏み入れることに等しい。勇気が挫けることがあって当然だろう。自分が直面している壁から目を背けたくもなるのも、かつては確固としていたはずの日常性を保守するためには当然のごとくに現出してくる思考回路だろうから。しかし確信を持って言えることは、世間知から抜け出して覚醒し得た人間がこの世界を生き抜こうとすれば、控えめに見積もっても、彼らにとって今後の人生は現状維持か、もしくは時代はますます生き難くなるわけであり、その意味においては、将来に暗い影がさすのも当然の結末だろう。換言すれば、日常性から脱却しようとして、しきれないのが現代という時代性なのであるから。
そうであるなら、将来の人生をより豊かなものにするために、自分のこれまで構築してきた生きる思想を、より高い次元におしあげる必要があるだろう。多分、多くの人々にはこのような発想が抜け落ちているはずである。だからこそ、いつまでも同じ循環の中で悶え苦しんでも、出口が見つからないのではないか? 「出口なし」の状況下からは、如何なる生産的な思想のカケラさえも生まれ出て来ることなどあり得ない。人生における不幸の連鎖がしばしば起こり得るのは、まさにここに主因が在る。換言すれば、意図せずに怠慢な思想性に甘んじてしまう思想の回路が出来上がってしまうということでもある。その結果が悲惨であるのは当然の帰結ではないだろうか?
日常性に縛られた思想の型が、どのようにして出来上がるのかを理論化すれば、上記のようになると確信する。しかし残念ながらいまの僕には、「出口なし」の心理的状況に、ある種の光をあてるくらいの力しかないことにも同時に自覚的である。僕など、日常生活者としても失格者の側に組み込まれざるを得ないのである。僕のこれまでの生はドタバタの連続そのものであり、実生活からみても、その次元はそれほど高くはないとは言え、多くの日常生活者のように、堅実なる世間知すら確実に身につけた覚えはない。正直な告白である。僕は、寄る辺なき人生を無駄に生き、その果てに、掴み取った思想は、文字通り寄る辺なき思想そのものである。たぶん僕の思索の限界点は、このあたりに潜んでいるのではなかろうか? 寄る辺なき日常が生み出すものは、世界に浮遊するかのごとき、寄る辺なき思想そのものなのであろう。言い訳はしない。自分の生のリアリティを素直に見極めるだけである。そして望むらくは、寄る辺なき思想の隙間から、もし未来への小さな展望でも見えるとするなら、その可能性に僕自身の生を全て懸けてもよい、と心底思う。今日の観想である。
〇推薦図書「精神と情熱に関する81章」 アラン著。東京創元社刊。アランというフランス哲学者の、柔らかくも厳しい視点を有した哲学的エッセイを今回はお勧めします。ぼんやりと読み通してしまうと、難解な哲学と格闘して何かを掴みとったという実感は湧いてきませんが、この書はその意味においても、表現自体の妙味を楽しみながら、じっくりと読んでいただくとなかなかに深い思索の跡が読みとれます。ぜひ、どうぞ。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
人の実人生のありようは、その人の考え方一つでどのようにも変化するものだ、という思いには確信がある。要は、心の持ちようで、実生活はいかようにも変化し得るということである。ただ、ここには大きな陥穽があって、それは、人は自己の生に対して常に意識的であるとは限らないという現実が僕たちの思索の前提に横たわっているということである。つまりは、日常生活の側から逆にその人の思想が創られるということも否定し難くある、ということだ。このような現実を変容しようとするとき、日常生活者からは、意外に手強い抵抗に遭う。何故なら、生活者としての生活実感によって、その人は実際に、この生き難い世界を生き抜いた、という確信が底にあるからである。だからこそ、実生活の中から抽出された思想は、無論世間知の範疇に過ぎないものであれ、その事実によって物を食らい、排泄し、日常的なあれこれをこなしてきたという自負が、世間知並の思想をあたかも生きる価値基準にまで引き上げてしまいかねないのである。それは大いなる誤謬だが、たとえ誤謬だと認識し、そこから思考の次元を上げようとしても、世間知の次元を凌駕するには、思想的な地平をより高みへと引き上げなければならないわけで、その意味において、覚醒した当事者にとっては未知の分野に足を踏み入れることに等しい。勇気が挫けることがあって当然だろう。自分が直面している壁から目を背けたくもなるのも、かつては確固としていたはずの日常性を保守するためには当然のごとくに現出してくる思考回路だろうから。しかし確信を持って言えることは、世間知から抜け出して覚醒し得た人間がこの世界を生き抜こうとすれば、控えめに見積もっても、彼らにとって今後の人生は現状維持か、もしくは時代はますます生き難くなるわけであり、その意味においては、将来に暗い影がさすのも当然の結末だろう。換言すれば、日常性から脱却しようとして、しきれないのが現代という時代性なのであるから。
そうであるなら、将来の人生をより豊かなものにするために、自分のこれまで構築してきた生きる思想を、より高い次元におしあげる必要があるだろう。多分、多くの人々にはこのような発想が抜け落ちているはずである。だからこそ、いつまでも同じ循環の中で悶え苦しんでも、出口が見つからないのではないか? 「出口なし」の状況下からは、如何なる生産的な思想のカケラさえも生まれ出て来ることなどあり得ない。人生における不幸の連鎖がしばしば起こり得るのは、まさにここに主因が在る。換言すれば、意図せずに怠慢な思想性に甘んじてしまう思想の回路が出来上がってしまうということでもある。その結果が悲惨であるのは当然の帰結ではないだろうか?
日常性に縛られた思想の型が、どのようにして出来上がるのかを理論化すれば、上記のようになると確信する。しかし残念ながらいまの僕には、「出口なし」の心理的状況に、ある種の光をあてるくらいの力しかないことにも同時に自覚的である。僕など、日常生活者としても失格者の側に組み込まれざるを得ないのである。僕のこれまでの生はドタバタの連続そのものであり、実生活からみても、その次元はそれほど高くはないとは言え、多くの日常生活者のように、堅実なる世間知すら確実に身につけた覚えはない。正直な告白である。僕は、寄る辺なき人生を無駄に生き、その果てに、掴み取った思想は、文字通り寄る辺なき思想そのものである。たぶん僕の思索の限界点は、このあたりに潜んでいるのではなかろうか? 寄る辺なき日常が生み出すものは、世界に浮遊するかのごとき、寄る辺なき思想そのものなのであろう。言い訳はしない。自分の生のリアリティを素直に見極めるだけである。そして望むらくは、寄る辺なき思想の隙間から、もし未来への小さな展望でも見えるとするなら、その可能性に僕自身の生を全て懸けてもよい、と心底思う。今日の観想である。
〇推薦図書「精神と情熱に関する81章」 アラン著。東京創元社刊。アランというフランス哲学者の、柔らかくも厳しい視点を有した哲学的エッセイを今回はお勧めします。ぼんやりと読み通してしまうと、難解な哲学と格闘して何かを掴みとったという実感は湧いてきませんが、この書はその意味においても、表現自体の妙味を楽しみながら、じっくりと読んでいただくとなかなかに深い思索の跡が読みとれます。ぜひ、どうぞ。
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文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃