○母なる幻像について考える
僕の裡なる母親像について語ろう、と思う。物事を正確に言うために敢えて言うが、僕には一般に人々が感じているという意味合いにおける母という存在は、事の始まりから存在しなかった、と断言して差し支えないと思っている。思春期の頃には、母は生きた人間の存在として、確かに家の中にはいたが、僕は母を明らかに嫌悪していた。その嫌悪感がどこから来るものなのかは明瞭ではなかったが、当時の僕は、何故父がこんな女と結婚をし、僕をこの世に送り出したのか? という深い疑問の中に身を潜めていた、と記憶する。
何故、僕が母を嫌ったのかと言えば、本能的な領域で、彼女の中に母性という、息子にとっては掛け値なしで自分を投げ出せるような心の中の、安寧など微塵も感じ取ることが出来なかったからである。母のある種神経症的な苛立ちの空気を感じると、僕は彼女の苛立ちに感応するかのように彼女の存在を疎ましく思うだけだったし、同時に父は何故こんな女と人生をともにしているのかがどうしても自分の胸には落ちては来なかったのである。おかしな話かも知れないが、父にはもっと優しく美しい女性と出会って欲しかったのである。剥いて言えば、母は、少なくとも、母の本質は、女性ではなかったのではないか、と思う。母こそ、男性性そのものの人格であった。そんな母からこの世界に産み落とされた不幸を、当時の僕は天に向かって呪詛した。僕はむしろ母親のいない環境を憧憬した。
父が事業に失敗し、母方の祖母を騙し、母の実家を抵当に入れて一挙に大きな借財を返済し、そのまま若い奇麗な女性と逃避したとき、僕は父の裡なる無責任で頼りなげであっても、確かな男の性をむしろ清々しいものに感じた。男の僕が父の男性性を好ましい、と判断したのだ、と思う。しかし,母は確実に牙を剥いた。
父が恋する女性とタクシーから降り立ったとき、付けねらっていた母は、父の左胸を標的にして、抱えた包丁を自分の全体重をかけてドスンと父にぶつかっていった。心臓は逸れたものの、父の左肺に包丁は深く突き刺さった。父は重体だった。あれは、単に若い女と出奔したことに対する腹いせなどではない。明らかな殺人の意思表示だったと思う。
傷が治り切らぬうちに父は入院先から抜け出した。病気一つしなかった父はその後、空咳から解放されることなく、数年後には結核を患って入院した。投薬治療で治癒したが、劇薬の影響か、その後父は肝臓を患った。肝臓ガンで58歳にして父は鬼籍に入った。母のあの蛮行が遠因になっていることは明らかだったと、いまも僕は確信している。両親の離婚後数年して、父の死を母に告げたとき、母は父があたかも天罰を受けたかのごとく電話の向こうでせせら笑った。その瞬時、僕は自分の人生の中から母の幻像をかなぐり捨てた。それ以来、僕には母という存在が消えてなくなった。たぶん、僕には母など、生まれてこのかた存在したことさえなかったのだ、と思う。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
僕の裡なる母親像について語ろう、と思う。物事を正確に言うために敢えて言うが、僕には一般に人々が感じているという意味合いにおける母という存在は、事の始まりから存在しなかった、と断言して差し支えないと思っている。思春期の頃には、母は生きた人間の存在として、確かに家の中にはいたが、僕は母を明らかに嫌悪していた。その嫌悪感がどこから来るものなのかは明瞭ではなかったが、当時の僕は、何故父がこんな女と結婚をし、僕をこの世に送り出したのか? という深い疑問の中に身を潜めていた、と記憶する。
何故、僕が母を嫌ったのかと言えば、本能的な領域で、彼女の中に母性という、息子にとっては掛け値なしで自分を投げ出せるような心の中の、安寧など微塵も感じ取ることが出来なかったからである。母のある種神経症的な苛立ちの空気を感じると、僕は彼女の苛立ちに感応するかのように彼女の存在を疎ましく思うだけだったし、同時に父は何故こんな女と人生をともにしているのかがどうしても自分の胸には落ちては来なかったのである。おかしな話かも知れないが、父にはもっと優しく美しい女性と出会って欲しかったのである。剥いて言えば、母は、少なくとも、母の本質は、女性ではなかったのではないか、と思う。母こそ、男性性そのものの人格であった。そんな母からこの世界に産み落とされた不幸を、当時の僕は天に向かって呪詛した。僕はむしろ母親のいない環境を憧憬した。
父が事業に失敗し、母方の祖母を騙し、母の実家を抵当に入れて一挙に大きな借財を返済し、そのまま若い奇麗な女性と逃避したとき、僕は父の裡なる無責任で頼りなげであっても、確かな男の性をむしろ清々しいものに感じた。男の僕が父の男性性を好ましい、と判断したのだ、と思う。しかし,母は確実に牙を剥いた。
父が恋する女性とタクシーから降り立ったとき、付けねらっていた母は、父の左胸を標的にして、抱えた包丁を自分の全体重をかけてドスンと父にぶつかっていった。心臓は逸れたものの、父の左肺に包丁は深く突き刺さった。父は重体だった。あれは、単に若い女と出奔したことに対する腹いせなどではない。明らかな殺人の意思表示だったと思う。
傷が治り切らぬうちに父は入院先から抜け出した。病気一つしなかった父はその後、空咳から解放されることなく、数年後には結核を患って入院した。投薬治療で治癒したが、劇薬の影響か、その後父は肝臓を患った。肝臓ガンで58歳にして父は鬼籍に入った。母のあの蛮行が遠因になっていることは明らかだったと、いまも僕は確信している。両親の離婚後数年して、父の死を母に告げたとき、母は父があたかも天罰を受けたかのごとく電話の向こうでせせら笑った。その瞬時、僕は自分の人生の中から母の幻像をかなぐり捨てた。それ以来、僕には母という存在が消えてなくなった。たぶん、僕には母など、生まれてこのかた存在したことさえなかったのだ、と思う。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃