○憂愁という気分
このところ憂愁なる気分から抜け出すことがかなり困難になってきている、と思う。何がその要因なのかは、たぶん僕自身が人生最後の節目に立ち尽くしているからではないか? と思う。人はよく人生のターニングポイントなどと称するが、それは外的な要因によってもたらされる結果論であることが多いのではなかろうか? しかし、僕の場合は、敢えて自己の人生を自分の手で変節させ続けたのだ。自己の生が、自己の意思によってぐにゃりと曲がっていく渦中において、僕は自己の意思力の強さを評価しつつも、自己の意思を貫くために、いったいどれほどの他者を傷つけたのか、という思索の底に、いま、打ち沈んでいるように思う。心が引きちぎられるという表現がこれほど実体のあるものとして、僕の胸の中に落ちたことなど、過去において一度たりともなかった。
僕は不条理なことや、理不尽なことが大嫌いだった。そのような空気を察すると、本能的に身構えた。そして闘い、僕を取り巻く不条理性にも理不尽なことにも、それなりのケリをつけて来た人間である。この意味においては自分を誇れる、と思う。だがしかし、僕には決定的な感情の欠落感があることに気づくことはなかったのである。それが他者に対する思いやりであったり、他者の感情を気づかうことの出来る感性でもあった。僕はこれまでたった一人の反抗を続けてきた、と錯誤していたに違いない。たった一人の反抗とは、単に、僕の身近な人間存在の、僕自身に与えてくれる優しさでもあり、いたわりでもあった、他者から付与された感情や事物に対して、あまりに無反応だったということの上に築かれた虚構の抗いだった。要するに、僕の、たった一人の反抗の跡など、煎じ詰めれば一人よがりの、弱き人間が発する負け犬の遠吠えのごときものだったのだろう、と思う。それだけなら自分だけに恥をかけばよかったけれども、そのプロセスで、決定的に他者を知らず知らずのうちに傷つけていたのである。いま、そのことに、大いなる罪を感じている。自己総括というならば、この点を抜きにしては、総括と自己満足とが同義語になってしまうという、取り返しのつかない誤謬を犯してしまう。また、この意味において、これまでの僕の生き方とは、誤謬以外のなにものでもなかったように思う。
若い頃から友人に優しくなかった。恋人にもやさしくなかった。家族を愛せなかった。同僚を信じきることが出来なかった。上司を憎んだ。不十分だっただろうが、教師としての良心はあったかも知れない。これほどに自分のプラスポイントを探すのに苦労する人間なのである。若い頃は、すでに分析した自己の姿になど、なにほども気づかずにいても、生の勢いというものがあった。たぶん自分の中の孤独の虫をなだめすかせたのは、若さゆえの有り余る生のエネルギーだった、と思う。またそれ以外の理由は思い浮かびもしない。自分の生がいつも抜き差しならぬ局面と対峙し、その壁を乗り越えることが生きるという意味である、と錯誤していた。このような心境の中に、他者と折り合いをつける余地など生まれ出てこようはずがないではないか。とは言え、僕はその一方で、孤独の重さに喘いでもいたのである。苦しかった、のひと言である。アルベール・カミュが描いた「異邦人」の主人公であるムルソーのような、覚醒したアパシー(無感動)を生の中軸に据えることなど出来はしなかった。所詮僕は、中途半端なのだ。
僕はいま、気づいている範囲においては、傷つけた人々、可能性の蕾さえ奪い取った人々、懺悔すべき人々、そして反対にいま誠意を持って接している人々に対して、人間としてなせることは全てなし尽くそうではないか! という感慨の只中にいる。僕の人生における憂愁が少しは和らいだものになり得るのだろうか? 自信はないが、もういい加減歳老いたのである。総括というなら、優しさの総括であってもよいのではなかろうか? あるいは今後の目標設定として、生の総括の中に他者への思いやりという要素が加わって当然ではなかろうか? 幼い想念の塊のような観想である。しかし、敢えて、ここに書き遺す。
〇推薦図書「まともな男になりたい」 里中哲彦著。ちくま新書。本文から引用します。<・・・なぜ「まとも」なのか。理由は簡単である。「まとも」にならなければ、人生はもっとしんどいものになるとの予感があるからである・・・「まとも」になること以外に、この不全感、欠落感から免れる方途がないとしたら、たとえ周囲から何といわれようと、それを目指すほかはないではないか。・・・>という問題提議を是とされる方はどうぞ。お勧めの書です。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
このところ憂愁なる気分から抜け出すことがかなり困難になってきている、と思う。何がその要因なのかは、たぶん僕自身が人生最後の節目に立ち尽くしているからではないか? と思う。人はよく人生のターニングポイントなどと称するが、それは外的な要因によってもたらされる結果論であることが多いのではなかろうか? しかし、僕の場合は、敢えて自己の人生を自分の手で変節させ続けたのだ。自己の生が、自己の意思によってぐにゃりと曲がっていく渦中において、僕は自己の意思力の強さを評価しつつも、自己の意思を貫くために、いったいどれほどの他者を傷つけたのか、という思索の底に、いま、打ち沈んでいるように思う。心が引きちぎられるという表現がこれほど実体のあるものとして、僕の胸の中に落ちたことなど、過去において一度たりともなかった。
僕は不条理なことや、理不尽なことが大嫌いだった。そのような空気を察すると、本能的に身構えた。そして闘い、僕を取り巻く不条理性にも理不尽なことにも、それなりのケリをつけて来た人間である。この意味においては自分を誇れる、と思う。だがしかし、僕には決定的な感情の欠落感があることに気づくことはなかったのである。それが他者に対する思いやりであったり、他者の感情を気づかうことの出来る感性でもあった。僕はこれまでたった一人の反抗を続けてきた、と錯誤していたに違いない。たった一人の反抗とは、単に、僕の身近な人間存在の、僕自身に与えてくれる優しさでもあり、いたわりでもあった、他者から付与された感情や事物に対して、あまりに無反応だったということの上に築かれた虚構の抗いだった。要するに、僕の、たった一人の反抗の跡など、煎じ詰めれば一人よがりの、弱き人間が発する負け犬の遠吠えのごときものだったのだろう、と思う。それだけなら自分だけに恥をかけばよかったけれども、そのプロセスで、決定的に他者を知らず知らずのうちに傷つけていたのである。いま、そのことに、大いなる罪を感じている。自己総括というならば、この点を抜きにしては、総括と自己満足とが同義語になってしまうという、取り返しのつかない誤謬を犯してしまう。また、この意味において、これまでの僕の生き方とは、誤謬以外のなにものでもなかったように思う。
若い頃から友人に優しくなかった。恋人にもやさしくなかった。家族を愛せなかった。同僚を信じきることが出来なかった。上司を憎んだ。不十分だっただろうが、教師としての良心はあったかも知れない。これほどに自分のプラスポイントを探すのに苦労する人間なのである。若い頃は、すでに分析した自己の姿になど、なにほども気づかずにいても、生の勢いというものがあった。たぶん自分の中の孤独の虫をなだめすかせたのは、若さゆえの有り余る生のエネルギーだった、と思う。またそれ以外の理由は思い浮かびもしない。自分の生がいつも抜き差しならぬ局面と対峙し、その壁を乗り越えることが生きるという意味である、と錯誤していた。このような心境の中に、他者と折り合いをつける余地など生まれ出てこようはずがないではないか。とは言え、僕はその一方で、孤独の重さに喘いでもいたのである。苦しかった、のひと言である。アルベール・カミュが描いた「異邦人」の主人公であるムルソーのような、覚醒したアパシー(無感動)を生の中軸に据えることなど出来はしなかった。所詮僕は、中途半端なのだ。
僕はいま、気づいている範囲においては、傷つけた人々、可能性の蕾さえ奪い取った人々、懺悔すべき人々、そして反対にいま誠意を持って接している人々に対して、人間としてなせることは全てなし尽くそうではないか! という感慨の只中にいる。僕の人生における憂愁が少しは和らいだものになり得るのだろうか? 自信はないが、もういい加減歳老いたのである。総括というなら、優しさの総括であってもよいのではなかろうか? あるいは今後の目標設定として、生の総括の中に他者への思いやりという要素が加わって当然ではなかろうか? 幼い想念の塊のような観想である。しかし、敢えて、ここに書き遺す。
〇推薦図書「まともな男になりたい」 里中哲彦著。ちくま新書。本文から引用します。<・・・なぜ「まとも」なのか。理由は簡単である。「まとも」にならなければ、人生はもっとしんどいものになるとの予感があるからである・・・「まとも」になること以外に、この不全感、欠落感から免れる方途がないとしたら、たとえ周囲から何といわれようと、それを目指すほかはないではないか。・・・>という問題提議を是とされる方はどうぞ。お勧めの書です。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃