○僕の裡なる「自由」という概念についての雑多な観想。
日本人にとって、自由とはそもそも愛などと同様に、明治以降に西欧から入ってきた概念ではないのでしょうか。いま、この時代に自由とは何ぞや?と自問すれば分かりますが、自由と口にした途端に、あるいは想念としての自由を想い描いた、その瞬時に自由の概念がぼやけてきます。もっと言うならば、自由を想起した途端に自由と反対概念の社会通念上の規制のあれこれが頭の中を掠めます。自由の概念を突きつめていけば、当然のことながらその行き着く果ての概念とはアナーキズムです。政治的には、無政府主義と訳されています。無政府主義とは、人間集団が生きていく上で必要な、すべての規制がない状態であると錯誤している方々が殆どではないでしょうか。しかし、無政府主義とは、決して人間集団に所属している個々の人間が好き勝手に物を言い、気儘、我儘放題に行動するというような俗説に貶められるような思想ではありません。
アナーキズムとは、人間にとっての自由の概念に対して、どのような思想にも勝る鋭敏な精神性を有している考え方です。既述しましたが、そもそも自由とは、自由である瞬時に自己拘束の概念が現れ出てくるような、やっかいな思想です。世界中の誰もがきちんと自由の概念を整理出来てはいないのです。英語だって、自由をfreedomとlibertyとに使い分けます。無論、理念的な整理が出来た上での使い分けでは決してありません。現代社会における政治経済社会において自由を語るならば、それはfreedomでしかありません。freedomには必ず義務(duty)というファクターが絡みついています。現代社会においては、特にアメリカ社会においては、libertyという言葉は死語に近い扱いになっているのではないでしょうか。たとえば、このlibertyは1960年代のアメリカで、flower peopleたちが、ウッドストックに集合し、あるいは、公民権運動の過程で、かつての差別主義的な権威などすべてごめんだ!という自己解放の雄叫びそのものでした。この状況を言葉にすれば、それがlibertyだったのです。つまりlibertyとアナーキズムとは思想的には底で深く繋がった考え方です。オバマ大統領が、自由という言葉をスローガン的に使うとしても、決してlibertyとは言わず、freedomと言うでしょう。その意味においても、現代は、libertyとは最もかけ離れてしまった時代、と規定することが出来るのではないかと僕は思います。
さて、僕の考える自由とは、当然にlibertyに関わることです。換言すれば、libertyの復権です。それを僕は仮にいま、自由と称することにします。何度も公表していますが、僕は政治思想上はアナーキストです。しかし、アナーキズムは机上の空論ではなく、かつ、また、政治的な無責任主義とはまったく違います。敢えて言うならば、アナーキストは、政治には深い関心を持つ人間です。民主主義という名のもとに隠微に遂行される富の独占とか、社会的身分の実質的世襲などに対して、鋭敏な批判力を持っています。机上の空論を振りかざさないのですから、アナーキストは、いかなる意味でも思想的に柔軟です。だから、当然のことですが、考え方の異なる人々とも協調出来ることは大いに積極的に実行します。その意味において、民主的な選挙制度を否定しません。
僕の裡なる自由の希求の欲動は、常に停滞することのない、妥協のないものです。なぜなら、自由とは、すでに述べましたが、自由を固定的に考えた途端に、自由とは真逆の、拘束の理念でがんじがらめにされてしまう宿命を背負っているからです。その意味で、アナーキストは、常に思想的には躍動的です。止まるところを知らないのです。泳ぐことを止めたら死んでしまう魚のごときものです。思念的な安住は、アナーキストにとっては、死を意味します。思想の死、すなわち自由の死です。東洋的思想における悟りとか、諦念という概念は、従って僕には無縁のものです。そんなものは必要ない。僕にとって絶対不可欠なこと。それは、自由への希求です。他者を受容する心の容量を持った、自由への憧憬です。こんなことを考えながら、僕はこれからも生き続けていくつもりでいます。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
日本人にとって、自由とはそもそも愛などと同様に、明治以降に西欧から入ってきた概念ではないのでしょうか。いま、この時代に自由とは何ぞや?と自問すれば分かりますが、自由と口にした途端に、あるいは想念としての自由を想い描いた、その瞬時に自由の概念がぼやけてきます。もっと言うならば、自由を想起した途端に自由と反対概念の社会通念上の規制のあれこれが頭の中を掠めます。自由の概念を突きつめていけば、当然のことながらその行き着く果ての概念とはアナーキズムです。政治的には、無政府主義と訳されています。無政府主義とは、人間集団が生きていく上で必要な、すべての規制がない状態であると錯誤している方々が殆どではないでしょうか。しかし、無政府主義とは、決して人間集団に所属している個々の人間が好き勝手に物を言い、気儘、我儘放題に行動するというような俗説に貶められるような思想ではありません。
アナーキズムとは、人間にとっての自由の概念に対して、どのような思想にも勝る鋭敏な精神性を有している考え方です。既述しましたが、そもそも自由とは、自由である瞬時に自己拘束の概念が現れ出てくるような、やっかいな思想です。世界中の誰もがきちんと自由の概念を整理出来てはいないのです。英語だって、自由をfreedomとlibertyとに使い分けます。無論、理念的な整理が出来た上での使い分けでは決してありません。現代社会における政治経済社会において自由を語るならば、それはfreedomでしかありません。freedomには必ず義務(duty)というファクターが絡みついています。現代社会においては、特にアメリカ社会においては、libertyという言葉は死語に近い扱いになっているのではないでしょうか。たとえば、このlibertyは1960年代のアメリカで、flower peopleたちが、ウッドストックに集合し、あるいは、公民権運動の過程で、かつての差別主義的な権威などすべてごめんだ!という自己解放の雄叫びそのものでした。この状況を言葉にすれば、それがlibertyだったのです。つまりlibertyとアナーキズムとは思想的には底で深く繋がった考え方です。オバマ大統領が、自由という言葉をスローガン的に使うとしても、決してlibertyとは言わず、freedomと言うでしょう。その意味においても、現代は、libertyとは最もかけ離れてしまった時代、と規定することが出来るのではないかと僕は思います。
さて、僕の考える自由とは、当然にlibertyに関わることです。換言すれば、libertyの復権です。それを僕は仮にいま、自由と称することにします。何度も公表していますが、僕は政治思想上はアナーキストです。しかし、アナーキズムは机上の空論ではなく、かつ、また、政治的な無責任主義とはまったく違います。敢えて言うならば、アナーキストは、政治には深い関心を持つ人間です。民主主義という名のもとに隠微に遂行される富の独占とか、社会的身分の実質的世襲などに対して、鋭敏な批判力を持っています。机上の空論を振りかざさないのですから、アナーキストは、いかなる意味でも思想的に柔軟です。だから、当然のことですが、考え方の異なる人々とも協調出来ることは大いに積極的に実行します。その意味において、民主的な選挙制度を否定しません。
僕の裡なる自由の希求の欲動は、常に停滞することのない、妥協のないものです。なぜなら、自由とは、すでに述べましたが、自由を固定的に考えた途端に、自由とは真逆の、拘束の理念でがんじがらめにされてしまう宿命を背負っているからです。その意味で、アナーキストは、常に思想的には躍動的です。止まるところを知らないのです。泳ぐことを止めたら死んでしまう魚のごときものです。思念的な安住は、アナーキストにとっては、死を意味します。思想の死、すなわち自由の死です。東洋的思想における悟りとか、諦念という概念は、従って僕には無縁のものです。そんなものは必要ない。僕にとって絶対不可欠なこと。それは、自由への希求です。他者を受容する心の容量を持った、自由への憧憬です。こんなことを考えながら、僕はこれからも生き続けていくつもりでいます。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃