ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○不幸の中に身を浸すことに慣れ切ってしまう不幸について想う。

2011-09-04 15:06:04 | 精神病理
○不幸の中に身を浸すことに慣れ切ってしまう不幸について想う。

不幸のあり方は千差万別です。今日は、親子関係についての観想です。親が子どもをこの世界に送り出して育てるのですから、当然親は子どもの成長を願う存在です。このような考え方の枠組みから完全に外れてしまう親もいて、こういう人々は子どもなんてどうでもよくて、あくまで自分の生き方だけが関心事であって、子どもがそれを邪魔すると認識したら、虐待やら、子殺しがあっても決しておかしくはないわけです。もともと人間社会において、育むべき存在としての子どもの概念が定着したのは、ほんのこの間のことです。それまでは、子どもはあくまで稼ぎ手の一人として認識されていました。西欧の文明社会においても、たとえば世界に冠たるイギリス帝国主義下における産業革命時ですら、子どもは貴族の子どもでもない限りは、重要な働き手に過ぎませんでした。無論大抵の庶民階層のおとなも同じような境遇に置かれて何とか成長してきたのですから、子育てにおいても同じことが繰り返されるのは当然のことだったでしょう。このような歴史的事実から学ぶべき最も大切なこと。それは、人間の営みというのは、あらゆる場面で、繰り返されるということです。それが良きことでも、悪しきことでもです。時代が変わっても、このような人間の思考のパターンは変わりません。

不幸の中に身を長きに渡って浸していると、不幸の本質が当然のことですが、不幸のどん底にいる当人にも視えなくなります。哀しいことですが、これが人間の性と言えなくはない。不幸な環境下に育った子どもが、自分が置かれた不条理をいっとき反抗的な態度で覆そうとすることはあります。グレるというのは、そういういっときの子どもの状態を指して云うのです。グレて、親という名に値しない親から完全に離別するなら、その子どもの将来には、明るい兆しがありますけれど、これが殆どの場合、うまくいかない。

和解。聞こえはいいですけど、不条理な親と、そこから一旦離れた子どもが、自分が成長したり、また自分自身が親になったときに、かつての親子関係の修復を安易にやると、不条理だった親の焼き直しになった自分を発見してたじろぐことになります。そういう意味で安直な和解などすべきではありません。まったく認められない親ならば、生涯関係性を断てばよろしいのです。そもそも不条理な親の典型例は、自分の子どもをあらゆる意味で支配したがる個性をもったおとなです。自分には備わっていなかった能力さえ、強要して憚りません。こういう親を、スーザン・フォワードの「毒になる親」を短縮して、毒親などと称する人もいるくらいです。毒親とは、自分の好き勝手な価値観を子どもに強要することが子育てだと錯誤しているアホウです。長年、このような環境下に置かれますと、子どもは、生きる意欲を喪失してしまいます。自殺までには至る例は稀ですが、生きながら死んでいると云っても過言ではない生き方をしてしまいます。毒親の支配下に置かれて現れる現象は、主にうつ病や不安障害やその結果としての摂食障害などです。このような精神疾患が現れなくても、人生のどこかで躓き、折れることがしばしばでしょう。さらに、というか、最も不幸だと感じるのは、自分が不幸であることの認識が殆どないことです。もし、そのことに気づく機会に恵まれても、毒親の本質に行きあたった場合、現実を見ることを回避するようになります。怖いからです。自分の生き方を根本的に変えることの怖さゆえに、自分が抱えている病的な現象すら、甘受しようとします。それで済めばよいのですけれど、このような不幸は、今度は自分の関わった人々に対して何らかの悪影響を与えます。この種の不幸は連鎖するのです。乗り切る方法は、勇気と覚悟ですが、勇気も覚悟もないのが、毒親に支配された人々の心性ですから、こういう人たちと関わると、まるで砂を噛む想いを味わうことになります。すべての努力が水泡に帰す、などということもめずらしくはありません。とはいえ、救われないのは、当人ですから、心から遺憾の意を表明することしか出来ないのが残念です。どこかの時点で、この課題から逃避してしまった人々が、何かのきっかけで、再度あなた方の人生の中で立ち直りの機会に出逢うことがあれば、ぜひとも、心して、自分の課題に立ち向かってほしいと心底願っています。

最後に。人間ですから多少のブレがあったとしても、子どもの自立を認めてくださる親子関係の中で育った人たちは幸いです。ご自身の幸福を噛みしめてほしいものです。不幸な人々がたくさんいるのですから。

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