○ヨーロッパ温泉紀行-違和感あるなあ~。
テレビでヨーロッパの温泉紀行をやっている。ついさっきナレーターから場所の説明があったが、もう忘れた。まあ、そんなことはどうでもよろしいのす。僕が言いたいことは他にあるから。
僕は温泉嫌い。なぜなら、すぐにのぼせるし、所謂湯あたりを起こす。温泉地で、うまいものを喰らうのはいいにしても、大抵の温泉大好き人間の行動のパターンは、宿につくとすぐに風呂。その後にうまい夕食をたっぷりと頂いて、ちょっと休憩してから、また風呂へ。就寝前に再度。早朝に朝風呂。どこまで好きやねん、というか、どこまで貪欲やねん、とつっこみたくもなる。日本の各地の温泉の効用を、この時とばかりに自分の体内にため込んでいる様子。それを見ているだけで、こちらは湯あたりしそうになる。心臓なんかに疾患があると体に悪いだろうにね。ちなみに、僕の祖父は重度の心臓疾患がありながら、温泉好きときていて、医者に止められていたのに、それでも温泉通い。最後は神戸に住んでいる人ならだれもが気楽に行ける有馬温泉へ。そこからの帰りの電車の中で倒れ、そのまま病院に担ぎ込まれて帰らぬ人となった。僕の場合は、日本の温泉地の雰囲気は大好きだけど、やはり温泉にじっくりとつかる気分にはなれない。かつての家族で、これでもか、というくらいに家族旅行はたいがい温泉地。僕は、旅館について、さっさと一度だけ湯につかってそれでおしまい。実に高くつく温泉旅行だった。それにしても、これもどうでもよい話。
ヨーロッパの温泉地のことだったね。テレビに映し出された景色は撮影の技術もあるのだろうが、ともかく美しい。少なくとも画面上からはそう観える。まわりは、なだらかな山が連なっていて、気候は温暖だ(温暖そうにみえるだけか?)。日本の温泉とはその趣きはまるで違う。ヨーロッパのそれは、あくまで治療施設の様相だ。室内プール並みのつくりと大きさ。ジャクジー風呂もある。風呂と云うよりやはりプールのつくりだな、あれは。屋外は、緩やかな太陽光が降りそそぐ広大な敷地の中に大づくりなプール。無論中身は温泉なんだろう。プール、プールと言っているのは、そこにいる人々がみんな水着を着ているからなんだろう。日本の温泉地で、水着を着たら笑われるだけし。
プールにしか見えない温泉につかっている人々の表情はすべからく穏やか。笑顔ばかり。つくりものみたいな、それ。人生に苦悩という文字がないかのような笑みは、観てる方がかえって引くね。それと、驚くなかれ!温泉につかっている人々はすべからく太っている。男もオナゴも年齢とは無関係に。贅肉の見本市みたいにね。引きしまった体躯のインストラクターが、どうでもいいような体操を指導している。温泉に浸かった太り過ぎた男女は、にこにこしながら、それを真似ている。そりゃあ、そうだろう?そんなヤワな体操なんだから余裕だわな。まあ、一生涯やっていても贅肉はとれないだろうというような体操だ。観ていてふっと、あらぬ想像の世界に迷い込んでいる自分に気づく。それは、ローマ帝国爛熟期の貴族たちが入る風呂の光景だ。当然書物からの想像の産物だけど、彼らもみんなデップリとふとっていたのではなかろうか。だって、喰い物にこだわり過ぎる。上手いものをたくさん喰いたさに、一つの料理を楽しんだら、口に指を突っ込んで、いま喰ったものを吐き出す。それから、次の料理へとうつる。欲望の行き着く果てのような光景だ。苦しく、切ない過食嘔吐とは似て非なるものだろう。過食嘔吐は、あくまで浄化作用としての嘔吐のために過食する。過食したものは、すべて吐き出す、むなしい行為だ。しかし、ローマの貴族たちは、あくまでさらに喰らうために、喰らうための胃の容量を空けるために吐き出すんだから、当然、結果的には激太りするのが必然だ。温泉プールに浸かっている人々を観て、こんなことを考えたわけで、僕の頭の中では、歴史の再現がかなりリアルなかたちで、行われたことになる。
まあ、人間過食したら当然太る。僕もいっときは過食者だったから分かる。過食は喰い物の味を味わっているというより、胃の腑の満腹感が心地よいのである。ローマ帝国の貴族たちのような余裕はない。現代的ストレス解消法の不健康なかたちだろう。現代人が過食して、嘔吐するのも、ある種の浄化作用を人偽的にやっているのであり、やはり不健全で病的な行為に違いはない。こういう、ある意味、隠微なストレス解消の方法よりも、デップリとした体躯の男女が歓談しながら、どうでもいいような体操を温泉に浸かりながらやっているのも、まあ、よし、とするか。苦言を呈するなら、もうちょっとだけ、ストイックな運動を持続的にやれば?とは言いたくはなるけれど。
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アラカルト京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
テレビでヨーロッパの温泉紀行をやっている。ついさっきナレーターから場所の説明があったが、もう忘れた。まあ、そんなことはどうでもよろしいのす。僕が言いたいことは他にあるから。
僕は温泉嫌い。なぜなら、すぐにのぼせるし、所謂湯あたりを起こす。温泉地で、うまいものを喰らうのはいいにしても、大抵の温泉大好き人間の行動のパターンは、宿につくとすぐに風呂。その後にうまい夕食をたっぷりと頂いて、ちょっと休憩してから、また風呂へ。就寝前に再度。早朝に朝風呂。どこまで好きやねん、というか、どこまで貪欲やねん、とつっこみたくもなる。日本の各地の温泉の効用を、この時とばかりに自分の体内にため込んでいる様子。それを見ているだけで、こちらは湯あたりしそうになる。心臓なんかに疾患があると体に悪いだろうにね。ちなみに、僕の祖父は重度の心臓疾患がありながら、温泉好きときていて、医者に止められていたのに、それでも温泉通い。最後は神戸に住んでいる人ならだれもが気楽に行ける有馬温泉へ。そこからの帰りの電車の中で倒れ、そのまま病院に担ぎ込まれて帰らぬ人となった。僕の場合は、日本の温泉地の雰囲気は大好きだけど、やはり温泉にじっくりとつかる気分にはなれない。かつての家族で、これでもか、というくらいに家族旅行はたいがい温泉地。僕は、旅館について、さっさと一度だけ湯につかってそれでおしまい。実に高くつく温泉旅行だった。それにしても、これもどうでもよい話。
ヨーロッパの温泉地のことだったね。テレビに映し出された景色は撮影の技術もあるのだろうが、ともかく美しい。少なくとも画面上からはそう観える。まわりは、なだらかな山が連なっていて、気候は温暖だ(温暖そうにみえるだけか?)。日本の温泉とはその趣きはまるで違う。ヨーロッパのそれは、あくまで治療施設の様相だ。室内プール並みのつくりと大きさ。ジャクジー風呂もある。風呂と云うよりやはりプールのつくりだな、あれは。屋外は、緩やかな太陽光が降りそそぐ広大な敷地の中に大づくりなプール。無論中身は温泉なんだろう。プール、プールと言っているのは、そこにいる人々がみんな水着を着ているからなんだろう。日本の温泉地で、水着を着たら笑われるだけし。
プールにしか見えない温泉につかっている人々の表情はすべからく穏やか。笑顔ばかり。つくりものみたいな、それ。人生に苦悩という文字がないかのような笑みは、観てる方がかえって引くね。それと、驚くなかれ!温泉につかっている人々はすべからく太っている。男もオナゴも年齢とは無関係に。贅肉の見本市みたいにね。引きしまった体躯のインストラクターが、どうでもいいような体操を指導している。温泉に浸かった太り過ぎた男女は、にこにこしながら、それを真似ている。そりゃあ、そうだろう?そんなヤワな体操なんだから余裕だわな。まあ、一生涯やっていても贅肉はとれないだろうというような体操だ。観ていてふっと、あらぬ想像の世界に迷い込んでいる自分に気づく。それは、ローマ帝国爛熟期の貴族たちが入る風呂の光景だ。当然書物からの想像の産物だけど、彼らもみんなデップリとふとっていたのではなかろうか。だって、喰い物にこだわり過ぎる。上手いものをたくさん喰いたさに、一つの料理を楽しんだら、口に指を突っ込んで、いま喰ったものを吐き出す。それから、次の料理へとうつる。欲望の行き着く果てのような光景だ。苦しく、切ない過食嘔吐とは似て非なるものだろう。過食嘔吐は、あくまで浄化作用としての嘔吐のために過食する。過食したものは、すべて吐き出す、むなしい行為だ。しかし、ローマの貴族たちは、あくまでさらに喰らうために、喰らうための胃の容量を空けるために吐き出すんだから、当然、結果的には激太りするのが必然だ。温泉プールに浸かっている人々を観て、こんなことを考えたわけで、僕の頭の中では、歴史の再現がかなりリアルなかたちで、行われたことになる。
まあ、人間過食したら当然太る。僕もいっときは過食者だったから分かる。過食は喰い物の味を味わっているというより、胃の腑の満腹感が心地よいのである。ローマ帝国の貴族たちのような余裕はない。現代的ストレス解消法の不健康なかたちだろう。現代人が過食して、嘔吐するのも、ある種の浄化作用を人偽的にやっているのであり、やはり不健全で病的な行為に違いはない。こういう、ある意味、隠微なストレス解消の方法よりも、デップリとした体躯の男女が歓談しながら、どうでもいいような体操を温泉に浸かりながらやっているのも、まあ、よし、とするか。苦言を呈するなら、もうちょっとだけ、ストイックな運動を持続的にやれば?とは言いたくはなるけれど。
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