○人間関係がむなしく感じられるのはねえ。
何気なく生きていると、ついつい自分自身の実像すら忘却することがある。怖いことだと思う。人は社会生活というか、日常生活を生きていく限りにおいては、それなりに、誰もがその人となりを繕うことが出来る。一般に人間関係と云われるものは、厳しく云うと、創られた自分の像、他者の像との間の諒解事項の総体ということが出来るのではなかろうか。職場の人間関係、ご近所の人間関係、あるいは家庭生活等々で、それがうまくいかないという悩みを抱いている人は少なくないが、そういう人はどちらかと云うと人柄がよろしいのである。どういういう意味でか?無論、他者に対する取り繕いをせず、人間関係の距離感をなくしたいと願っている人たち、と云う意味においてである。
人間関係において必然的に生じる距離感に身悶えている人たちの気持ちはよく理解出来る。何故なら、これを書いている僕自身がそういうタイプの人間の部類に属するからである。何故、人はもっと心を開けないのだろうか?という煩悶が常に頭の中を掠める。自分が心開けば開くほど、他者は自分に対してなにほどかの疎ましさを感じていると思えるとき、絶望感とも、孤独感とも、孤立感とも云える、この世界にひとりぼっちで茫然と立ちすくんでいる自分の姿に気づく。それは敢えて言えば茫然自失の状況である。絶望の淵にいる気がするし、生きていたいとも思わなくなる瞬間だ。もはや自分の人生は終わったのか、とも思ってしまう。じゃあ、何故生き続けているんだ?という問いに対して答える義務があるかも知れないから、僕なりの考えを書き記しておかねばと思う。
僕は、文学や哲学やその他、いろいろなジャンルの物語性に心ひかれると書いてきた。が、殆ど、それらの存在意義について深く考えたことがなかったように思うのである。文学も哲学も絵画も音楽も、その他のあらゆる芸術と総称されるすべての作品に描かれて、長き年月に耐えて、現代に通じる価値を備えているその本質とはいったい何か?と自問してみたのである。
そもそも芸術作品を生み出す人々こそ、日常生活者の悲哀を舐めつくしているのではなかろうか?自己の心の奥底をひた隠すことによって危うく成立しているこの世界は、すべからく断片的であり、その場限りの価値観によって、あらゆる物事の存在理由が変質してしまうような曖昧な磁場である。だからこそ、創作者たちは、各々の才能と力量に応じて、人間の存在理由の強固な普遍化を作品の根底に据えたのではなかろうか?日常生活を四苦八苦しながら生きるしか能のない凡庸な人間ですら、好みに従って何がしかの芸術に触れたいと願う。それこそが、人間の、光り輝くような生が呼び覚まされようとしている瞬間に他ならない、と僕は思う。
生きることがつまらないという感覚は、忌避されるべきものではない。それは、生の本質的な意味を模索しようとする大切な欲動の現れであるからだ。人間関係改善のための多くの啓発書が意味をなさないのは、それらがすべからくHow to本に過ぎず、生の普遍性とは無縁のものだからである。敢えて言うならば、啓発本や占いや血液型診断などは、底流は同じものだ。誰にでも通じるようでいて、実は誰の生の真実をも捉えていない。こんなところに救済の糸口などあり得ようはずがない。
人間関係がむなしく感じられるのはね、それは普遍的な存在物の介在によって、自分の虚像が剥がされるときなんだから、僕に言わせると、歓迎すべき瞬間かも知れない。そんな観想を抱きながら、昨今僕は生きているのです。
文学ノートぼくかかつてここにいた
長野安晃
何気なく生きていると、ついつい自分自身の実像すら忘却することがある。怖いことだと思う。人は社会生活というか、日常生活を生きていく限りにおいては、それなりに、誰もがその人となりを繕うことが出来る。一般に人間関係と云われるものは、厳しく云うと、創られた自分の像、他者の像との間の諒解事項の総体ということが出来るのではなかろうか。職場の人間関係、ご近所の人間関係、あるいは家庭生活等々で、それがうまくいかないという悩みを抱いている人は少なくないが、そういう人はどちらかと云うと人柄がよろしいのである。どういういう意味でか?無論、他者に対する取り繕いをせず、人間関係の距離感をなくしたいと願っている人たち、と云う意味においてである。
人間関係において必然的に生じる距離感に身悶えている人たちの気持ちはよく理解出来る。何故なら、これを書いている僕自身がそういうタイプの人間の部類に属するからである。何故、人はもっと心を開けないのだろうか?という煩悶が常に頭の中を掠める。自分が心開けば開くほど、他者は自分に対してなにほどかの疎ましさを感じていると思えるとき、絶望感とも、孤独感とも、孤立感とも云える、この世界にひとりぼっちで茫然と立ちすくんでいる自分の姿に気づく。それは敢えて言えば茫然自失の状況である。絶望の淵にいる気がするし、生きていたいとも思わなくなる瞬間だ。もはや自分の人生は終わったのか、とも思ってしまう。じゃあ、何故生き続けているんだ?という問いに対して答える義務があるかも知れないから、僕なりの考えを書き記しておかねばと思う。
僕は、文学や哲学やその他、いろいろなジャンルの物語性に心ひかれると書いてきた。が、殆ど、それらの存在意義について深く考えたことがなかったように思うのである。文学も哲学も絵画も音楽も、その他のあらゆる芸術と総称されるすべての作品に描かれて、長き年月に耐えて、現代に通じる価値を備えているその本質とはいったい何か?と自問してみたのである。
そもそも芸術作品を生み出す人々こそ、日常生活者の悲哀を舐めつくしているのではなかろうか?自己の心の奥底をひた隠すことによって危うく成立しているこの世界は、すべからく断片的であり、その場限りの価値観によって、あらゆる物事の存在理由が変質してしまうような曖昧な磁場である。だからこそ、創作者たちは、各々の才能と力量に応じて、人間の存在理由の強固な普遍化を作品の根底に据えたのではなかろうか?日常生活を四苦八苦しながら生きるしか能のない凡庸な人間ですら、好みに従って何がしかの芸術に触れたいと願う。それこそが、人間の、光り輝くような生が呼び覚まされようとしている瞬間に他ならない、と僕は思う。
生きることがつまらないという感覚は、忌避されるべきものではない。それは、生の本質的な意味を模索しようとする大切な欲動の現れであるからだ。人間関係改善のための多くの啓発書が意味をなさないのは、それらがすべからくHow to本に過ぎず、生の普遍性とは無縁のものだからである。敢えて言うならば、啓発本や占いや血液型診断などは、底流は同じものだ。誰にでも通じるようでいて、実は誰の生の真実をも捉えていない。こんなところに救済の糸口などあり得ようはずがない。
人間関係がむなしく感じられるのはね、それは普遍的な存在物の介在によって、自分の虚像が剥がされるときなんだから、僕に言わせると、歓迎すべき瞬間かも知れない。そんな観想を抱きながら、昨今僕は生きているのです。
文学ノートぼくかかつてここにいた
長野安晃