○おとなが幼稚化している可能性はないのだろうか?
カウンセラーという仕事は、互いの信用があってはじめて成り立つものだ。僕のところのカウンセリングの予約は、HP上から電話予約というかたちでなされる。その際、こちらは、相手の携帯の電話番号を聞くにとどめる。その意味は、HP上の地図で迷った場合に、こちらから電話をして、案内するためのものだ。住所などは聞かない。無論、カウンセリング料は後払いである。しかし、この世の中、こんな類の仕事をしているところは殆どないだろう。たとえば、ネットで何かを注文するとする。昨今は殆どがクレジットカード決済。住所、電話番号、メルアド等々を書かなければ、当然のことながら、注文が確定しない。これは、当然のことのようだが、売り手にとっては、確実な情報を持ったうえでの取り引きなのである。さらに、クレジットカード決済であれば、先払いで料金が受け取れる。カード破綻している客であれば、当然売り手の方が取り引きを受け付けない。信用が根底にあるというのは、果たして、このような条件が整ってはじめて成立する仕事上の約束ごとである。
その意味では、僕のところのやり方は、一方的な、相手方を信じ切ることで成立している仕事の形態である。基本的にこれでよい、と思っている。が、ときおり、予約をしていながら、当日になっても何の連絡も寄こさずに来ない人がいる。いまもそうだった。こういう人に限って、予約日時については、自己都合ばかりを言うのである。それに無理に合わす。そうして、待ちぼうけと云うハメになることになれば、こちらとしては、相手の人格を疑わざるを得ないことになる。精神の病が深い本人の場合は、致し方なしと思うことにしているが、案外多いのは、本人からの予約ではなく、両親のいずれかからの電話での予約なのである。こういう非常識な人間を親に持つと、理不尽なことが幼い頃から起こっているのは想像に難くない。精神疾患の殆どは成育歴の中にその原因があるから、親自身に責任の大半があるのは必然とも云えるが、この種の人間にかぎって、露ほどにも自省の念がない。自省なき人格は、平気で約束を反故にするし、罪の意識すら感じることはない。当然のことだが、子どもは生まれ落ちる環境を選べない。だからこそ、この種の親のもとに生まれおちてしまったら、運が悪いというしかない。日常生活はなんとか送れていても(しかし、この種の親たちは、他者に迷惑をかけていることが多いだろうし、本人だけがそのことに無自覚なのだろう)、隠れ性格破綻者であるゆえに、自分の子どもをダメにし、結局は自分自身が不幸に陥るというハメになるのは目に見えている。断罪しているのではなく、経験論的に言えることなのである。ともかくいろいろな意味を込めて、困った人々なのである。特にオトナがオトナの精神を持ち得ていないというのは、まわりの人々、僕などは、一度きりの迷惑で済むはなしだが、家族、とくにその子どもに与える影響は甚大だ。
こういうことを書いた上で、思い起こせば、世の中の信用とは、その裏付けがあってこその信用なんだな、と思う。たとえば、学校へ子どもを入学させるとき、学費及び諸経費、さらにその前段階の受験料などは、すべて前払いだ。子どもがつまづいて、退学の憂き目にあっても、すでに支払った学費はかえっては来ない。塾や予備校や専門学校はどうだ?同じことだろう。ましてや、あらゆる商取引における信用とは、金銭の前払い、あるいは、それをきっちりと保障するシステムの中で成立している概念だろう。銀行のローン、さらに下って消費者金融等々も信用調査があり、担保主義の思想が根底にあっての商売ではないか。消費者金融の信用調査があたかも簡便であるかのように喧伝されているが、あれも銀行よりはマシにしろ、意外に厳しい審査基準があり、その上で貸し付ける額面は限定されたもので、さらに金利はバカ高いのである。
まあ、これだけのことをしなければ、世の中の経済の仕組みが成立しないし、また、人間社会の様々な決まり事も成立不能に陥るのである。近代社会がはじまって以来の金融の決まりごとだが、それは、人の信用度は、よほど親しくならない限り、あるいは、利害関係を抜きにしない限り、ある程度はマネー・ベースで図られるということは胸に刻んでおく必要があるだろう。
さて、ここまで書いて、思い出した。高額のカウンセリング料金を前払いさせるところもあるのだ。学校などと比較するとカウンセリングというものが、世の中の認知度において日本は低いにしても、こういうやり方も決して認められないことではない。
さあ、僕はどうするか?京都カウンセリングルーム・アラカルト京都カウンセリングルームの運営に関して、大幅な変更をするのか?しないね。これでいいと思う。幼稚化した予約者が、何の断りもなく無視したところで、それもまあ、この世の中の病巣の一つの現れと諒解して、今後も仕事を続けるしかなかろうね。誤解なく。私のところに来てくださる殆どの方々は、きちんとした方々である。たま~に、幼稚なおバカさんがいるということで。それでも、僕の方針は変えないということです。ちょっとグチッたね。すんません、みなさん。
京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
カウンセラーという仕事は、互いの信用があってはじめて成り立つものだ。僕のところのカウンセリングの予約は、HP上から電話予約というかたちでなされる。その際、こちらは、相手の携帯の電話番号を聞くにとどめる。その意味は、HP上の地図で迷った場合に、こちらから電話をして、案内するためのものだ。住所などは聞かない。無論、カウンセリング料は後払いである。しかし、この世の中、こんな類の仕事をしているところは殆どないだろう。たとえば、ネットで何かを注文するとする。昨今は殆どがクレジットカード決済。住所、電話番号、メルアド等々を書かなければ、当然のことながら、注文が確定しない。これは、当然のことのようだが、売り手にとっては、確実な情報を持ったうえでの取り引きなのである。さらに、クレジットカード決済であれば、先払いで料金が受け取れる。カード破綻している客であれば、当然売り手の方が取り引きを受け付けない。信用が根底にあるというのは、果たして、このような条件が整ってはじめて成立する仕事上の約束ごとである。
その意味では、僕のところのやり方は、一方的な、相手方を信じ切ることで成立している仕事の形態である。基本的にこれでよい、と思っている。が、ときおり、予約をしていながら、当日になっても何の連絡も寄こさずに来ない人がいる。いまもそうだった。こういう人に限って、予約日時については、自己都合ばかりを言うのである。それに無理に合わす。そうして、待ちぼうけと云うハメになることになれば、こちらとしては、相手の人格を疑わざるを得ないことになる。精神の病が深い本人の場合は、致し方なしと思うことにしているが、案外多いのは、本人からの予約ではなく、両親のいずれかからの電話での予約なのである。こういう非常識な人間を親に持つと、理不尽なことが幼い頃から起こっているのは想像に難くない。精神疾患の殆どは成育歴の中にその原因があるから、親自身に責任の大半があるのは必然とも云えるが、この種の人間にかぎって、露ほどにも自省の念がない。自省なき人格は、平気で約束を反故にするし、罪の意識すら感じることはない。当然のことだが、子どもは生まれ落ちる環境を選べない。だからこそ、この種の親のもとに生まれおちてしまったら、運が悪いというしかない。日常生活はなんとか送れていても(しかし、この種の親たちは、他者に迷惑をかけていることが多いだろうし、本人だけがそのことに無自覚なのだろう)、隠れ性格破綻者であるゆえに、自分の子どもをダメにし、結局は自分自身が不幸に陥るというハメになるのは目に見えている。断罪しているのではなく、経験論的に言えることなのである。ともかくいろいろな意味を込めて、困った人々なのである。特にオトナがオトナの精神を持ち得ていないというのは、まわりの人々、僕などは、一度きりの迷惑で済むはなしだが、家族、とくにその子どもに与える影響は甚大だ。
こういうことを書いた上で、思い起こせば、世の中の信用とは、その裏付けがあってこその信用なんだな、と思う。たとえば、学校へ子どもを入学させるとき、学費及び諸経費、さらにその前段階の受験料などは、すべて前払いだ。子どもがつまづいて、退学の憂き目にあっても、すでに支払った学費はかえっては来ない。塾や予備校や専門学校はどうだ?同じことだろう。ましてや、あらゆる商取引における信用とは、金銭の前払い、あるいは、それをきっちりと保障するシステムの中で成立している概念だろう。銀行のローン、さらに下って消費者金融等々も信用調査があり、担保主義の思想が根底にあっての商売ではないか。消費者金融の信用調査があたかも簡便であるかのように喧伝されているが、あれも銀行よりはマシにしろ、意外に厳しい審査基準があり、その上で貸し付ける額面は限定されたもので、さらに金利はバカ高いのである。
まあ、これだけのことをしなければ、世の中の経済の仕組みが成立しないし、また、人間社会の様々な決まり事も成立不能に陥るのである。近代社会がはじまって以来の金融の決まりごとだが、それは、人の信用度は、よほど親しくならない限り、あるいは、利害関係を抜きにしない限り、ある程度はマネー・ベースで図られるということは胸に刻んでおく必要があるだろう。
さて、ここまで書いて、思い出した。高額のカウンセリング料金を前払いさせるところもあるのだ。学校などと比較するとカウンセリングというものが、世の中の認知度において日本は低いにしても、こういうやり方も決して認められないことではない。
さあ、僕はどうするか?京都カウンセリングルーム・アラカルト京都カウンセリングルームの運営に関して、大幅な変更をするのか?しないね。これでいいと思う。幼稚化した予約者が、何の断りもなく無視したところで、それもまあ、この世の中の病巣の一つの現れと諒解して、今後も仕事を続けるしかなかろうね。誤解なく。私のところに来てくださる殆どの方々は、きちんとした方々である。たま~に、幼稚なおバカさんがいるということで。それでも、僕の方針は変えないということです。ちょっとグチッたね。すんません、みなさん。
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文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃