○性愛という必然について想うこと。
愛という概念について語ろうとするとき、人は性の問題を意図的に回避するか、偽悪的に性の縦横無尽さについて語りはじめるかのいずれかであって、性と愛が不可欠な合一性を持っていることを明確に語らないことが多いのはなぜなのだろうか?
人間社会において、性的関係性が情愛というファクターを上回る瞬間が如何に多いことか。愛と性が切り離せないという前提に立った上で言うが、昨今、男女の関係性のもつれゆえに起こる事件の本質は、性が過剰になったときか、あるいは、男女の関係性の中にその他の要素、たとえば、金銭などの問題がこじれの原因になっていることが殆どではないか。男が、あるいは女が、深い関係性にある、あるいはかつてそうであったパートナーシップを、相手を破壊することによって解消するなどというのは、性の過剰か、その他の要素が深く絡んでいないわけがないではないか。そもそも性愛の構築がなされている場合、男女あるいは男男、女女の関係性が壊れることはないのである。
性が充溢していることを、特に世の中の制度上の規範からはみ出したそれを、不倫と呼びならわているようだ。週刊誌ネタの抜かせないものになっている。それにしても、不倫とはおかしな言葉である。単純に言うならば、結婚制度という倫理的関係からはみ出した男女の関係性を表現する言葉なのだろうが、僕の感性からすれば、いかにも下品な言葉に聞こえる。この考え方からすれば、もし、性への憧憬から異性の間を彷徨する人間がいたとして、その人間が制度上の結婚をしていたとき、それが不倫と言うことになる。短期間の異なる異性との性的関係性による満足感などは、まさにいっときのもので、すぐに倦み飽きる。だからこそ、また別のターゲットを探すことになる。不倫の定義がこのようなものならば、やはり、不倫とは不可解で、下劣な言葉だと言うしかない。
端的に言うと、性がもたらす快楽に生きる歓びはない。もっと正確に言うと、性的関係性だけに人生の倦怠解消を求めることがそもそも間違っているのである。この場合、性の充溢とは、生の貧困さと同義語である。生きることに倦み疲れた人間が性のもたらすいっときの快楽を求めても、生きる歓びを快復してくれる特効薬にはなり得ない。延々と救済の道なき棘の道を歩き続けることになる。これは性の追求であって、性愛の問題とはまったく異なる次元の問題である。性の追求の末に待ち受けているのは、性の堕落を超えて、人間的堕落でしかない。
誤解なく。僕は性を嫌悪しているのでは決してない。人間にとって、性は大切な、抜き難きものだと思っている。宗教的理念によって、無理矢理性を断絶させる人々もいるが、そういう人たちの中から、卑猥な破壊僧が出現する。笑止千万である。
性的営みが疎ましく感じられるとき、確実に両者の関係性の中に精神的亀裂が入っている。それを愛の欠落という。したがって、愛しているのに、性的な関係性を忌避するなどというのは、日常生活に波風を立てたくないだけの、誤魔化しの制度上の倫理観だ。これを不倫と言わずして、何が不倫なのだろうか、と僕は思う。昨今の日本人のmoralとimmoralとの違いは、愛の本質からあまりにも遠くにある概念規定だと思う。倫理が不倫であり、不倫が倫理であり得ることなど、世の中に溢れている。何をもってこのような規範が成り立つのかというと、性愛の合一という、愛を育むために不可欠な要素があるかどうか、である。たとえ、制度的夫婦関係においても、性愛の観念が育めない、あるいは、育もうとする意思が喪失したとき、それを不倫と呼ぶのである。制度に保障された不倫関係の何と多いこと!
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
愛という概念について語ろうとするとき、人は性の問題を意図的に回避するか、偽悪的に性の縦横無尽さについて語りはじめるかのいずれかであって、性と愛が不可欠な合一性を持っていることを明確に語らないことが多いのはなぜなのだろうか?
人間社会において、性的関係性が情愛というファクターを上回る瞬間が如何に多いことか。愛と性が切り離せないという前提に立った上で言うが、昨今、男女の関係性のもつれゆえに起こる事件の本質は、性が過剰になったときか、あるいは、男女の関係性の中にその他の要素、たとえば、金銭などの問題がこじれの原因になっていることが殆どではないか。男が、あるいは女が、深い関係性にある、あるいはかつてそうであったパートナーシップを、相手を破壊することによって解消するなどというのは、性の過剰か、その他の要素が深く絡んでいないわけがないではないか。そもそも性愛の構築がなされている場合、男女あるいは男男、女女の関係性が壊れることはないのである。
性が充溢していることを、特に世の中の制度上の規範からはみ出したそれを、不倫と呼びならわているようだ。週刊誌ネタの抜かせないものになっている。それにしても、不倫とはおかしな言葉である。単純に言うならば、結婚制度という倫理的関係からはみ出した男女の関係性を表現する言葉なのだろうが、僕の感性からすれば、いかにも下品な言葉に聞こえる。この考え方からすれば、もし、性への憧憬から異性の間を彷徨する人間がいたとして、その人間が制度上の結婚をしていたとき、それが不倫と言うことになる。短期間の異なる異性との性的関係性による満足感などは、まさにいっときのもので、すぐに倦み飽きる。だからこそ、また別のターゲットを探すことになる。不倫の定義がこのようなものならば、やはり、不倫とは不可解で、下劣な言葉だと言うしかない。
端的に言うと、性がもたらす快楽に生きる歓びはない。もっと正確に言うと、性的関係性だけに人生の倦怠解消を求めることがそもそも間違っているのである。この場合、性の充溢とは、生の貧困さと同義語である。生きることに倦み疲れた人間が性のもたらすいっときの快楽を求めても、生きる歓びを快復してくれる特効薬にはなり得ない。延々と救済の道なき棘の道を歩き続けることになる。これは性の追求であって、性愛の問題とはまったく異なる次元の問題である。性の追求の末に待ち受けているのは、性の堕落を超えて、人間的堕落でしかない。
誤解なく。僕は性を嫌悪しているのでは決してない。人間にとって、性は大切な、抜き難きものだと思っている。宗教的理念によって、無理矢理性を断絶させる人々もいるが、そういう人たちの中から、卑猥な破壊僧が出現する。笑止千万である。
性的営みが疎ましく感じられるとき、確実に両者の関係性の中に精神的亀裂が入っている。それを愛の欠落という。したがって、愛しているのに、性的な関係性を忌避するなどというのは、日常生活に波風を立てたくないだけの、誤魔化しの制度上の倫理観だ。これを不倫と言わずして、何が不倫なのだろうか、と僕は思う。昨今の日本人のmoralとimmoralとの違いは、愛の本質からあまりにも遠くにある概念規定だと思う。倫理が不倫であり、不倫が倫理であり得ることなど、世の中に溢れている。何をもってこのような規範が成り立つのかというと、性愛の合一という、愛を育むために不可欠な要素があるかどうか、である。たとえ、制度的夫婦関係においても、性愛の観念が育めない、あるいは、育もうとする意思が喪失したとき、それを不倫と呼ぶのである。制度に保障された不倫関係の何と多いこと!
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃