○やっぱり、さよならだけが人生なのか?
レンモンド・チャンドラーだったのかな、この名セリフの出どころは。さよならだけが、人生なのさ、という別れ際の気どったセリフ。探偵ものというジャンルの物語にありがちな、フツ―の人間にはまず吐けない無理な言葉。言い回しもあくまでサラリと言ってのける格好のつけ方でなければならない。こんなことが言えて、それが擬態にしろ、サラリと言い切ることが出来るのは、あくまでこちらが少し心開けば、あるいは、心開くポーズをとれば、相手のオナゴは心全開状態になるという思い込みか、それに似た錯覚を抱ける人間でしかないだろうに、と読みながら思っていたような気がする。
しかし、別れを美化したい、という心情は古今東西共通の概念らしく、例を挙げるとすればいくらでも書けるけれど、少々古いところでは、ペドロ&カプリシャスが歌って、流行った曲の一節。「別れの朝、ふたりは、冷めた紅茶、飲み干し、さようならの口づけ、笑いながら、交わした~」というのがかなりの傑作か、と思う。
たぶん、別れを美化したいという想いが生じるのは、特に男女の別れというものが、それが緊密で、互いの信頼関係の上に構築されていた関係性であればあるほど、その<壊れ>に至る断末魔、アガキが生み出す醜悪さゆえなのかも知れないな、とは近頃よく思うことだ。あらためて言うまでもないことだが、別れはつらく、切なく、哀しいことだ。人生における異性との出会いには、絶対的なものを求めてもいいけれど、しかしながら、絶対的な出会いの機会など皆無に等しいのが実情ではなかろうか。無論、「絶対的な」というのは、出会う彼/彼女に対して、この人しかいない、という想いを抱かせる、蒙昧とも云える観念である。しかし、よく考えてみれば分かる。結婚相手を見出すのは、男女ともに適齢期(時代によって誤差は生じるだろうが)と云われるごく限られた時期のことだ。そして、この時期に出会う異性との関係性を特別だと思いこむ心性が、結婚制度という社会的合意事項を成立させる根底に根づいている妄想と、深く繋がっているからだ。昨今の歳の差結婚という例外はあるにしても。
結婚制度という妄想なんて、他人どうしの絆を深める可能性を拡げはするが、大抵うまくいかない。制度上成り立っている夫婦関係において、その実体はとっくの昔に壊れているのに、汲々として関係性のあらゆるところに生じてくるホツレの修復に躍起になる夫婦のなんと多いこと。また、同種の恋人関係においても。<壊れ>の具象化のありようは、どのように控えめにみても、醜悪だ。<壊れ>の後始末が金銭の換算に具象化されると、もはや憎悪を通り越して、空漠感だけが心を支配する。不幸の究極の姿だ。
ビジネスとしての婚活システムで決め手になるのは、金銭に換算できる社会的地位だとか仕事だとかなんだろうか?ある意味、こういう業種が成立するのは、男女の関係性の<壊れ>のプロセスの逆から入って行くわけだから、割り切りもしやすいのかも知れない。出会いの機会を与えるためのシステムに身を委ねるのを、はじまりはどこからでもいいと云う意味で否定はしないけれど、さて、出会った二人の利益換算型の思考回路がどこで変化するのかが、僕にはさっぱり分からない。
もはやこの歳になると、物語ふうの浅い関係性とそれにまつわる離別の際の決め台詞の方に価値があるように思ってしまう。無論、現実には、そんな機会などが巡ってくることはほぼないに等しいのだろうが、それにしても、腐れ縁などにはしがみ付きたくはないね。それくらいならば、格好よく決め台詞を吐いて、孤独の底でむせび泣くか、だな。いずれにしても、生きている時間はそれほどない。恥のかき捨ては極力少なく、というのが、いまの僕のモットーか、な。その意味では、さよならだけが、人生だ、という生き方もまあ、視野の中に入るね。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
レンモンド・チャンドラーだったのかな、この名セリフの出どころは。さよならだけが、人生なのさ、という別れ際の気どったセリフ。探偵ものというジャンルの物語にありがちな、フツ―の人間にはまず吐けない無理な言葉。言い回しもあくまでサラリと言ってのける格好のつけ方でなければならない。こんなことが言えて、それが擬態にしろ、サラリと言い切ることが出来るのは、あくまでこちらが少し心開けば、あるいは、心開くポーズをとれば、相手のオナゴは心全開状態になるという思い込みか、それに似た錯覚を抱ける人間でしかないだろうに、と読みながら思っていたような気がする。
しかし、別れを美化したい、という心情は古今東西共通の概念らしく、例を挙げるとすればいくらでも書けるけれど、少々古いところでは、ペドロ&カプリシャスが歌って、流行った曲の一節。「別れの朝、ふたりは、冷めた紅茶、飲み干し、さようならの口づけ、笑いながら、交わした~」というのがかなりの傑作か、と思う。
たぶん、別れを美化したいという想いが生じるのは、特に男女の別れというものが、それが緊密で、互いの信頼関係の上に構築されていた関係性であればあるほど、その<壊れ>に至る断末魔、アガキが生み出す醜悪さゆえなのかも知れないな、とは近頃よく思うことだ。あらためて言うまでもないことだが、別れはつらく、切なく、哀しいことだ。人生における異性との出会いには、絶対的なものを求めてもいいけれど、しかしながら、絶対的な出会いの機会など皆無に等しいのが実情ではなかろうか。無論、「絶対的な」というのは、出会う彼/彼女に対して、この人しかいない、という想いを抱かせる、蒙昧とも云える観念である。しかし、よく考えてみれば分かる。結婚相手を見出すのは、男女ともに適齢期(時代によって誤差は生じるだろうが)と云われるごく限られた時期のことだ。そして、この時期に出会う異性との関係性を特別だと思いこむ心性が、結婚制度という社会的合意事項を成立させる根底に根づいている妄想と、深く繋がっているからだ。昨今の歳の差結婚という例外はあるにしても。
結婚制度という妄想なんて、他人どうしの絆を深める可能性を拡げはするが、大抵うまくいかない。制度上成り立っている夫婦関係において、その実体はとっくの昔に壊れているのに、汲々として関係性のあらゆるところに生じてくるホツレの修復に躍起になる夫婦のなんと多いこと。また、同種の恋人関係においても。<壊れ>の具象化のありようは、どのように控えめにみても、醜悪だ。<壊れ>の後始末が金銭の換算に具象化されると、もはや憎悪を通り越して、空漠感だけが心を支配する。不幸の究極の姿だ。
ビジネスとしての婚活システムで決め手になるのは、金銭に換算できる社会的地位だとか仕事だとかなんだろうか?ある意味、こういう業種が成立するのは、男女の関係性の<壊れ>のプロセスの逆から入って行くわけだから、割り切りもしやすいのかも知れない。出会いの機会を与えるためのシステムに身を委ねるのを、はじまりはどこからでもいいと云う意味で否定はしないけれど、さて、出会った二人の利益換算型の思考回路がどこで変化するのかが、僕にはさっぱり分からない。
もはやこの歳になると、物語ふうの浅い関係性とそれにまつわる離別の際の決め台詞の方に価値があるように思ってしまう。無論、現実には、そんな機会などが巡ってくることはほぼないに等しいのだろうが、それにしても、腐れ縁などにはしがみ付きたくはないね。それくらいならば、格好よく決め台詞を吐いて、孤独の底でむせび泣くか、だな。いずれにしても、生きている時間はそれほどない。恥のかき捨ては極力少なく、というのが、いまの僕のモットーか、な。その意味では、さよならだけが、人生だ、という生き方もまあ、視野の中に入るね。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃