ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○理解できるけど、共感できない?頭では分かるけど、実行できない?

2011-09-14 15:45:55 | 観想
○理解できるけど、共感できない?頭では分かるけど、実行できない?

このところ、立て続けに数人の友人というか、仕事仲間と会う機会があって、こういうときは、大抵お酒がすすんでくると(僕は下戸なのでもっぱらウーロン茶です)、その人なりの価値観や人生観に触れる話題にだんだんとなってくる。具体的な話題のあれこれをここに書いても仕方がないので、かなり抽象化して書くので、読みづらいと思うがご辛抱あれ。さて、重要な話題ほどくっきりとした輪郭を持った言語交通になるので、その中でも特に書くに値するもののエッセンスなりとも。

「理解できるけど、共感できない」も「頭では分かるけど、実行できない」もその発想の根っ子は同じもので、両者ともにその本音は、句読点の後者の側。つまりある話題に対して、「共感できない」と言っているのであり、「実行できない」と否定しているのである。前半の修飾表現は、このような発言者の場合、無意味なものだ。無意味であるだけならそれでいいのだが、多くの場合、他者に誤解を与えたり、他者を結果的に裏切る、という意味で有害ですらある。

話している相手が、もしも「言ってることは理解できるんだ。だけど・・・」とか「頭では分かっているんだけど、でも・・・」と発言するときは、僕は「だけど・・・」や「でも・・・」の後の否定的表現の理由を聴くことにしている。前半の「理解できるけど」も「頭では分かっているけど」も、本当のところは大ウソなのである。だから、大抵の場合は、cannot~の理由を聴き、そのことに対して、きちんと自分の意見を述べるようにしている。とりわけ、ビジネスの領域での話になるので、相手の本音を聴き出さないと、いい仕事は出来ないからである。僕が関わっているビジネスに関しては、発言の正確さと発言に対する責任が問われるのは言うまでもないことだろう。

心底信頼出来る人に対しては、上記のような発言をした場合、僕は次のように相手に伝えることにしているのである。つまり、敢えて「理解と共感は同じだ」と言い、「理論と実践が伴わない<分かる>は存在しない」と述べ伝えるのである。要するに、自分の意見に、常に逃げ道をあらかじめつくっておくような議論は、親しい間柄においては意味をなさないからである。だから、僕は、議論における、この種の逃避口を即座に塞ぐ努力をする。また、それが、お互いのためでもあるからだ。もし、この時点で信用されないような空気が漂うならば、僕は関係性そのものを断つのである。許された生の時間は限られているのである。つまらぬことに大切な時間を浪費したくはない。

「理解できるけど、共感できない」も「頭では分かるけど、実行できない」という心的状況とは、発言者の世界観や人生観が狭隘である場合か、極端な場合、完全に閉じていて、新しい発想を受け付けない思考回路に陥っていることが多いから驚きである。見込みのある人たちに対して、僕が敢えて「理解と共感は同じだ」と言い、「理論と実践が伴わない<分かる>は存在しない」と言うのは、彼らの世界観や人生観を拡げるためである。論理的に、そしてかなり強引にやり抜く。そうでなければ、みすみす展望あるビジネスチャンスを逃すからだ。経済右上がりの昔々の時代ではない。終身雇用制もごく一部の職域でしか保障されることはない。年功序列制度なんて、もしもその残滓が残っていても、賃金の伸び率は微々たるものだ。賃金の小さなアップ率を直接税のアップ率が上回る。今日とはそのような時代なのである。企業という組織にしがみ付いていられるのは、ごく限られた人々でしかない。そうであれば、この生き難き時代、僕たちは積極的に組織から自由になる道を模索してしかるべきではなかろうか。特にヘタれた組織にしがみ付くほど自分の価値を下げることはない。

思想の自由は戦後民主主義を越境しながら、長く語り継がれてきた、と思う。しかし、現代という時代性の中で、自由を語り、追い求めるとするなら、それは経済の論理の再構築を土台にした思想の自由でなければ意味がない。言葉だけの誤魔化しはもはや通用しない。思想の自由は、実践をともなってこそ得られるものであることを認識しよう!さらに付け加えて言うならば、実践の内実には、経済の論理をガッチリと組み入れていなければならない、と僕は思う。21世紀に生きる僕たちの課題は、前世紀のそれよりもずっと重く、また濃密である。そういう時代だ。心して生き抜きたいものだ、と思う。今日の観想として書き遺す。

文学ノート僕はかつてここにいた
長野安晃