ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○不安という感情

2011-11-01 14:50:04 | 哲学
○不安という感情

生の、活気に溢れた、その真っ最中にでも、真逆の、暗黒の、生を全否定しかねない負の要素が立ち現れる。それが不安という感情ではないのだろうか。不安感は、自分の心が何らかの悪影響を受けて、徐々に弱っていく過程で現れるものでは決してない。追い詰められつつ、袋小路に直面して感得するのは、不安というよりも、絶望感である。だからこそ、絶望の果ての自死という悲劇が起こる。芥川龍之介の「漠然とした不安」とは、決して文字どおりの漠然とした不安などではなく、それは、芥川の裡の価値観の明らかな揺れ、あるいはブレのことを指して、「漠然とした」と称しているのであるから、芥川の漠然とした不安感の実像は、やはり絶望感に限りなく近いものという受け止め方が妥当だろう。

さて、不安感は確かに、裡に巣くった瞬間から身をすり減らす要因になる。が、皮肉なことに、僕が定義した不安感が襲ってくるのは、大抵は幸福の真っ只中である。おかしなもので、人間は、幸福に浸った瞬時から、その当の幸福に懐疑的になり得る心的存在である。その意味においては、幸福の只中をひた走ることの出来るような個性の持ち主は、現世的な成功者に確実になり得るのである。

さらに掘り進める。幸福の只中に不幸の前兆たる不安感が襲い来るのは、幸福を否定するかに見えて、実は、これまで解決不能であった不全感のファクターのあれこれを、観念的に解決したいという欲動が心の中でうごめくからである。その意味においては、前記した定義には、誤解を生じしめる要素がある。再度書き置くと、こうであった。つまり、「生の、活気に溢れた、その真っ最中にでも、真逆の、暗黒の、生を全否定しかねない負の要素が立ち現れる。それが不安という感情ではないのだろうか」。ここで云う、「活気とは真逆の」というところは、暗く陰鬱な、という意味ではない。それは、実現可能かどうかは別にして、足りないことを、遮二無二観念的に奪還しようとするエネルギーなのだから。もしも、暗く、陰鬱なという概念が当てはまるとするならば、それは、喪失したものを取り返そうとするときに、必ず伴って生じる過去への根拠なき憧憬が、消失感をさらに深めるから、暗くて陰鬱だと云うのである。もし、人間がこのような過去への根拠なき憧憬から自由であるのなら、世の不幸の大半は消えうせることだろう。人が現在の事象における恨みつらみをはじめとする負の感情を惹き起す事件の大半は、過去の己れの成育歴の中の暗き哀しい出来事が、現実の不条理によって、暴発した結末なのだ。事件性を帯びたことでなくてもこれは広く当てはまる。過去からの呪縛。ここからの脱却は、思ったほど楽なことではないが、もしも、未来を切り開き、新たな精神の地平を見ようとするなら、あるいは、そこにたとえ見るべきことがなかったとしても、自分の力で一から創造しようとするなら、人は、言葉どおりの幸福を自らの手中におさめることが出来るのである。

不安という感情から自由になることは、まずは、自己の意識、過去に囚われている意識から自由になろうとする意思を固くすることである。その上で、新たないまという時点から、その意思にもとづいた思想を創ることである。未来を少しでも明るいものにしよう!遺すべき言葉として書きおくことにする。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃