ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○壊れの美学あるいは崩れの美学

2011-11-10 13:22:09 | 観想
○壊れの美学あるいは崩れの美学

美の様式ほど多様なものはないと云えるのではないだろうか。僕たちが美しいと感じるモデルは、どのようなジャンルであれ、完成された美しさというものであろう。さて、美しさというジャンルとして、女性のそれ、一般化した女性美ということになると難しい問題が生じるので、ここは女優さんを対象にして女性美について、語らせていただくことにする。

女優さんとひと言でまとめることが、昨今かなりむずかしい。とりわけ、近頃の女優さんの美しさの定義づけをするとなると、これまた困難なことなのだと思う。かなりお歳をめしている人々にとっては、昔、昔の美女というのは、いくつかの典型例はあるにせよ、たとえば、山本富士子が清楚系だとすれば、同じ美的存在だが、表現し難き色香の代表格として、京マチ子という二大双壁が屹立していた。当時映画少年だった僕の、まだ性のことなど何かも分からぬ精神の中に、性の原型がどっと入り込んで来る感覚を抱かせたのは、断然、京マチ子だった。山本富士子は、完成美。あくまでそうだ。しかし、京マチ子は、存在そのものに、エロスを包含している。子どもながらに、美とエロスとの相関関係を感じとっていた、と思う。

さて、現代に目を向けよう。時代はアンチ・エイジングへと限りなく傾斜している。女優の美の保ちかたにも、美容整形は欠かせない要素になりつつある。無論この傾向は男優にも当てはまるのだろう。が、こちらにはあまり興味はない。アンチ・エイジングの思想のもとで、美容整形でもっとも成功しているのは、歌手の松田聖子だろう。この人は、ある意味、ここまでやって、若さを謳歌しているわけだから、見事というしかない。逆に、同じ歌手の水前寺清子は、明らかな目の手術の失敗だ。もとの顔とまるで違う顔になっては意味がない。女優で云えば、十朱幸代。この人も目もとがまるで創りもの丸出しで、原型を保っていない。これがアンチ・エイジングの失敗例だろう。歌手や女優がかつての個性たる顔の原型を崩してしまっては、アンチ・キャラクターという惨劇になってしまう。本人たちは満足しているみたいだけれど。かつて、奈美悦子が乳房の美容整形で、乳首がなくなったといって、訴えを起こしていたことなどはかわいいものだ。僕たちにそれを確かめる術などないわけだし、女優業としては、何の影響もないわけだから。

本題に入る。今日、書き遺したきことは、壊れの美学・崩れの美学についてだ。たとえが、ありふれていてつまらないが、とりあえずは最も僕が言わんとしていることに関わりのあることなので書き記すことにする。木になる果物が熟して地面に落ちる寸前の、しかし、なかなか現実には落ちないで、細い枝がたわんでも、木にあくまでくっ付いて離れることのないような、壊れ、崩れギリギリのところで爛熟している美しさ。これがエロスを内包した美の象徴として、たぶん、美という定義の中で、最も質の高いそれだ、と僕は思うのである。この種の美的チャンピョンは、僕の感性で云うと、鈴木京香と大塚寧々。美に壊れが内包されているからこそ、元来備わっていたはずの美に仄かなエロスが漂って、これこそ美の爛熟という概念を具現化している最高例ではなかろうか?整形美人だとの噂が絶えない真木よう子も、加齢がもたらす変化が演技に生きるような女優でありたいと、どこかの雑誌のインタビューで述べていたから、たぶん、鈴木京香や大塚寧々の次元の女優になること請け合いだ。蛇足として書いておくが、加齢を幼稚さに変換させる術を魅力にし得た稀有な存在が檀れいだ。どこかのビールのコマーシャルの、あのあざとさは、すでにあざとさというジャンルとして成立するくらい、檀れいの存在は特異だと云える。偏見なく書いておかねばならない。檀れいは、別の、壊れの美学、崩れの美学から枝分かれした別物の美として認知するに値する。

山本富士子と京マチ子から少し時代が下るが、これは、あくまで女性の色香というよりも、アンチ・エイジングの二例として書きたいのが、吉永小百合と栗原小巻のことだ。若い頃の吉永小百合は、どちらかと云うと、色気のない女優だった。それに比して、栗原小巻は、顔の造作が大づくりで、それが、色香を醸し出していたとも云える。子どもながら、当時の僕は、断然サユリストではなく、コマキストだったのである。(若い人たちにはこういう言葉も通じないかな、当然だろうけど。まあ、巨人ファンと阪神ファンのごときものだと思ってくれればいいね)しかし、歳月とは恐ろしいもので、吉永小百合は、アンチ・エイジングのシンボルにしてもいいし、それにもまして、現代の彼女の方が若き頃よりもよほど魅力がある。栗原小巻は痛々しい。エイジングそのものだ。これまた、どこかの老人介護マンションの宣伝写真に出ている。介護マンションのロビーだろうか、そこのソファに座っている彼女は、入居者として認識する方がピタリとくるくらいの、エイジングのあり方だ。先日亡くなった竹脇無我との共演で、切ない恋愛もののテレビドラマが大ヒットしたのが昨日のことのように頭の中を過る。あの頃の栗原小巻の美しさは、壊れや、崩れの美を内包していない、素朴な若さゆえの美だったのだろう。エイジングの進行によって、文字どおり壊れ切ってしまった感がある。哀しいとしか表現の仕様がないのである。

そうそう、壊れの美、そして崩れの美の代表格として、桃井かおりも掲げておく。鈴木京香や大塚寧々ほどには、強烈に訴えかけてくるものはないが、彼女も立派な崩れ、壊れを内包して、それを美に転換させている女優だ。書かないでおけば非礼にあたる。
さて、ここで、唯一の箴言:無節操に老いに抗うことは、老いの醜悪さを背負うことである。
つまらぬ、独りよがりはこれくらいにしておかないと、アカンね。今日は、 もう止めます。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃