ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○感傷主義的語り部-さだまさし考

2011-11-24 12:35:52 | 芸能
○感傷主義的語り部-さだまさし考

先日、ふとしたきっかけでさだまさしの中古CDを買った。まだLPレコードが生き残っていた頃に、さだまさしの関白宣言がヒットしたときの2枚組のを持っていたのに、引っ越しをきっかけに、紛失。それ以来、さだまさしとの縁も切れて長かった。

さだまさしは歌声もいいし、歌のメロディーだって、音楽オンチにだってついていけそうな錯覚を抱かせるほどに簡明だ。そういう意味ではこれほど抵抗感なく聴ける歌手もめずらしい。グレープ時代にバイオリンを弾いていたけれど、彼のバイオリンを聴くと、古くから日本にある歌謡の旋律を想起させる。かつては、殆ど三味線で聴いていたものに限りなく近い。ジャンル分けとして正しいのかどうかは知らないが、頭の中を掠めるのは、エレジーというコトバ。少なくとも僕の内面では、さだまさしとエレジーという語彙は共存しているのは確かなことなのである。

さだまさしと落語家との付き合いは、かなり濃密なもので、彼の軽妙な語りの根っ子は、落語の中の、笑いと憂いを拾い集めてきたものではないか、と思う。日本の古典的な音楽の旋律に乗せた上質な笑いと憂いとのコラボ、それをさだまさしの語りの美しさと称してもよいのではないか?彼が聴衆を魅惑し、時に笑わせ、時に涙させるものの本質は、感傷主義である。僕はセンチメンタリズムの否定論者ではない。古い概念を使わせてもらうならば、人間の下部構造と上部構造の、後者に属する最下層の価値として認識すればよいのではないか。誤解なく。最下層を小馬鹿にしているのでは決してない。人間には、生にまつわる浮き沈みがあり、沈んだときのつらさ、哀しみ、涙、失望、さらには、その果てには絶望感がついてまわるのである。これらは上部構造の中では、最下層の位相に属するものだろうが、それにしても、人間は、この種の感傷主義から自由にはなれない。もっと正確に云うならば、感傷主義は必要不可欠な生のファクターと規定するほうが的を得ている、と思う。

さて、さだまさしの語りを聴かされていると、心の奥底に在る、ジワッと湧き出てくる、抑え難き情念をどうすることも出来なくなってくる。この種の情念と向き合ったとき、僕たちは、泣き笑いという表現手段を通してしか、自己解放をすべき術がないのである。こんなふうに僕たちはさだまさしの術中にハマる。感傷主義の語り部の面目躍如たるところだろう。

人生、とひと言で表現するには、あまりにも多くのファクターが煮詰まり、凝縮された生の姿は、複雑に過ぎる。つまらない関係性の中に自分を置いてしまうと、光り輝くはずだった原石としての個性は、幾重にも折れ曲がる。ついに原石のまま、もっと悪くすれば、原石すら溶解してしまうかのごとき、不幸を背負ってしまう。社会的な、経済的な成功不成功は、人の幸不幸の規範とならないのは、お金持ちも、そうでない人もおなじだけの幸不幸を背負っているからだ。どちらが軟くて、どちらが厳しいとは云えないものがある。生きる、とはこういうものか、と開き直るしかないのだろう。ただ、開き直ったとしても、切なさや、哀しさ、生き難さに直面して、喘ぐことしばしばだ。そういうときの一服の清涼剤、それが感傷主義である。おセンチになって、自意識過剰になって、乗り切れることも多くある。その意味で、さだまさしの感傷主義的語り部の存在価値はこの先もずっと続くことだろう。今日の観想として書き遺しておこうと思う。

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