○久々に「ラ・ロシュフコ-箴言集」のことばから。
ラ・ロシュフコーの箴言集の中に、「年寄りは、悪い手本を示すことができなくなった腹いせに、良い教訓を垂れたがる」というのがある。なるほど、然り、と思う。ここで云う、「悪い手本」とは、文字どおりの悪ではない。僕の解釈からすると、人を魅惑させるような、非日常的な言動を示唆する能力のこと。無論、この場合の示唆は、示唆する人間に、示唆する言動をやってのけるだけの精神的・身体的エネルギーがあることが前提だ。そういう意味では、この場合、良い、悪いという概念は、単純で表層的なヒューマニスティクな価値意識が入り込む余地のない代物である。ラ・ロシュフコーの云う、良い、とはあくまで日常的な常識・良識というものだが、それも知的洗練という大事な要素を抜きにして考えているのではない。また、悪い、とは、知的洗練がなされた日常であれ、それが、日常性という綿々とした連続性を意味するならば、必ずや退屈感を産み出す根源ともなるから、その退屈感を覆すための、実践的なアイディアのことではなかろうか。
このように、「年寄りは、悪い手本を示すことができなくなった腹いせに、良い教訓を垂れたがる」という箴言の深奥を読み解くと、この箴言にある、年寄りとは文字通りの肉体的な老いを現すものではない、ということに気づくはずである。つまり、この場合における年寄りとは、加齢などに無関係に人間に襲ってくる、変化を嫌う性向、現状でなんとか生きることに満足出来る環境を壊したくないという心境、さらに云うと、自己の保守すべき環境を犯されないためにはり巡らす、狡猾なバリアーのことを指して言っているように僕には響く。
どんな時代、どんな組織においても、前進する意識、改革の意思に溢れた時期というものがある。そういうとき、人は生を生き生きとしたものとして認識出来る。たとえ、大いなる障壁があろうと、勇気を持って、分厚い壁を掘削していくだけのエネルギーに溢れているものである。あらゆる可能性が実現可能なのかどうかを試される。創意工夫という言葉が当てはまるのは、こういう時期に置かれた人間の脳髄からほとばしり出てくる力強い思想のかたちである。人間が幸福感を感じられる稀有な時空間だと云える。
残念ながら、上記のような精神性が支配的な時代や集団も、いつしか前進・改革の意思を喪失していく。殆ど宿命とも云える人間の心性のプロトタイプと思えばよい。当然のことだが、社会そのものが閉塞していく。閉塞していく過程で、身分や富の上下関係が生じる。おかしなことが起こる。ここで生じる保守性とは、身分的階層・富のあるなしを問わず、バクテリアのように増殖していく見苦しいものだ。差別が生まれる。差別の構造は、殆どの場合上に向かうことなく、下降するところに差別たるゆえんがある。社会が硬直化しやすく、社会的腐敗が社会的上層部で公然と生じていても、それが取り返しのつかない時期にまで、解決の手立てが具現化されない。その理由は、それぞれの階層で保守化して、間延びした人間の心のあり方が、上昇志向に変わるまでには、次のような心的変化が起こる場合だ。つまり、保守性にしがみ付いていたのでは、もはや生活が成立しないという自覚が芽生えたときに限るからである。そういう意味では、人間の社会なんて、創っては壊し、壊しては創る作業の繰り返しであるとも云える。歴史というものの本質がそもそもこのようなものなのかも知れない。
ラ・ロシュフコーの「良い教訓」とは、実は空恐ろしいものなのかも知れないな、と思いつつ、駄文を書き綴った次第。お付き合いどうもありがとう。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
ラ・ロシュフコーの箴言集の中に、「年寄りは、悪い手本を示すことができなくなった腹いせに、良い教訓を垂れたがる」というのがある。なるほど、然り、と思う。ここで云う、「悪い手本」とは、文字どおりの悪ではない。僕の解釈からすると、人を魅惑させるような、非日常的な言動を示唆する能力のこと。無論、この場合の示唆は、示唆する人間に、示唆する言動をやってのけるだけの精神的・身体的エネルギーがあることが前提だ。そういう意味では、この場合、良い、悪いという概念は、単純で表層的なヒューマニスティクな価値意識が入り込む余地のない代物である。ラ・ロシュフコーの云う、良い、とはあくまで日常的な常識・良識というものだが、それも知的洗練という大事な要素を抜きにして考えているのではない。また、悪い、とは、知的洗練がなされた日常であれ、それが、日常性という綿々とした連続性を意味するならば、必ずや退屈感を産み出す根源ともなるから、その退屈感を覆すための、実践的なアイディアのことではなかろうか。
このように、「年寄りは、悪い手本を示すことができなくなった腹いせに、良い教訓を垂れたがる」という箴言の深奥を読み解くと、この箴言にある、年寄りとは文字通りの肉体的な老いを現すものではない、ということに気づくはずである。つまり、この場合における年寄りとは、加齢などに無関係に人間に襲ってくる、変化を嫌う性向、現状でなんとか生きることに満足出来る環境を壊したくないという心境、さらに云うと、自己の保守すべき環境を犯されないためにはり巡らす、狡猾なバリアーのことを指して言っているように僕には響く。
どんな時代、どんな組織においても、前進する意識、改革の意思に溢れた時期というものがある。そういうとき、人は生を生き生きとしたものとして認識出来る。たとえ、大いなる障壁があろうと、勇気を持って、分厚い壁を掘削していくだけのエネルギーに溢れているものである。あらゆる可能性が実現可能なのかどうかを試される。創意工夫という言葉が当てはまるのは、こういう時期に置かれた人間の脳髄からほとばしり出てくる力強い思想のかたちである。人間が幸福感を感じられる稀有な時空間だと云える。
残念ながら、上記のような精神性が支配的な時代や集団も、いつしか前進・改革の意思を喪失していく。殆ど宿命とも云える人間の心性のプロトタイプと思えばよい。当然のことだが、社会そのものが閉塞していく。閉塞していく過程で、身分や富の上下関係が生じる。おかしなことが起こる。ここで生じる保守性とは、身分的階層・富のあるなしを問わず、バクテリアのように増殖していく見苦しいものだ。差別が生まれる。差別の構造は、殆どの場合上に向かうことなく、下降するところに差別たるゆえんがある。社会が硬直化しやすく、社会的腐敗が社会的上層部で公然と生じていても、それが取り返しのつかない時期にまで、解決の手立てが具現化されない。その理由は、それぞれの階層で保守化して、間延びした人間の心のあり方が、上昇志向に変わるまでには、次のような心的変化が起こる場合だ。つまり、保守性にしがみ付いていたのでは、もはや生活が成立しないという自覚が芽生えたときに限るからである。そういう意味では、人間の社会なんて、創っては壊し、壊しては創る作業の繰り返しであるとも云える。歴史というものの本質がそもそもこのようなものなのかも知れない。
ラ・ロシュフコーの「良い教訓」とは、実は空恐ろしいものなのかも知れないな、と思いつつ、駄文を書き綴った次第。お付き合いどうもありがとう。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃