○まわりの空気を読み過ぎること-僕は間違っていると思うね。
昨今のKY(空気が読めない)叩きは少々度を越していると思う。明らかな差別主義が跋扈し始めたと思えてならないし、KYなどと云って安易に人を批判し、疎外するような風潮が、他人種排他主義とむすびつくのは誰もがどこかで気づいている兆候ではないのだろうか。国の経済政策の失敗や、それに伴う雇用制度の実質的な衰退と崩壊が、人々の心を荒ませているのは理解するに難くないのである。また、ふるまいとしての人との付き合い方のあれこれも当然あってしかるべきだし、他者との距離感のとり方における暗黙の諒解事項に関して、全否定するつもりも毛頭ないのである。
とは云っても、最近の、<空気を読む>ということの実体は、繰り返すが、底に明らかな差別主義が在るし、もっとソフトに表現しても、他者に対して開かれた自我をぶっつけていく誠実さに欠けるものではないのか?現象的に見ると、学校社会ではいじめがあり、職場においては、人間関係の不調和などが散見できる。しかし、よく考えてみようではないか。排他主義というのは、排斥される側の悲劇は必然だが、他者を強圧的に排他する側も、いつなんどき立場が入れ換わるかもしれない、という恐怖心に裏打ちされた心情がもたらす、低次元の人間の思考形態なのである。その意味で、排他主義の別称である、<まわりの空気を読む>ことの弊害とは、ひと言で表現するなら、自己閉塞という人間的頽落・堕落である。
まわりの空気をうまく読みおおせて、世の中をすいすいと泳ぎ切って、社会的地位もそこそこに獲得したとして、それが一体何を産み出すというのだろうか?人間とは、こういう人が思っているほどには器用な存在ではない。人と云うのはすべてを掬い切れない。取りこぼしは確実に在る。まわりの空気をうまく読んだつもりでも、読み切れない人との関係性も確実に在る。大体において、こういう人は、もっとも大切な足場となる親密な人間関係で破綻している場合が多い。ツケは、あるとき一気にどっと自分の身に降りかかっても来る。人の生き方なんて、良い意味でも悪い意味でも大抵うまく帳尻が合っているものなのである。
現代は、孤独で、閉塞感が強く、人は笑みを浮かべているかに見えても、どこかで互いが孤立しているような、薄ら寒い時代である。その原因を、かつて存在した地域社会が崩壊したからだ、というような凡俗な分析におっかぶせてもはじまらないだろう。確かに地域共同体的な社会は、確実に名実ともに瓦解したと思う。が、それにしても、瓦解後に現れた人間の関係性が、びくついた他者との関わりで危うく成り立っているとしたら、これほどグロテスクなことはないのである。まわりの空気を読めるとは、自己が受けとめ切れるずっと前の段階に、勝手な限界値を定めてバリアーをハリ巡らせるような、安逸で、臆病な心的状況の別称そのものだ。こんな時点から、人間的なあたたかみなど出て来るはずがないではないか。
勇気を持とう!他者を受容する勇気と覚悟を取り戻そう!それが結局は自己救済に最も近い生き方だし、幸福感を得られる生き方だろうから。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
昨今のKY(空気が読めない)叩きは少々度を越していると思う。明らかな差別主義が跋扈し始めたと思えてならないし、KYなどと云って安易に人を批判し、疎外するような風潮が、他人種排他主義とむすびつくのは誰もがどこかで気づいている兆候ではないのだろうか。国の経済政策の失敗や、それに伴う雇用制度の実質的な衰退と崩壊が、人々の心を荒ませているのは理解するに難くないのである。また、ふるまいとしての人との付き合い方のあれこれも当然あってしかるべきだし、他者との距離感のとり方における暗黙の諒解事項に関して、全否定するつもりも毛頭ないのである。
とは云っても、最近の、<空気を読む>ということの実体は、繰り返すが、底に明らかな差別主義が在るし、もっとソフトに表現しても、他者に対して開かれた自我をぶっつけていく誠実さに欠けるものではないのか?現象的に見ると、学校社会ではいじめがあり、職場においては、人間関係の不調和などが散見できる。しかし、よく考えてみようではないか。排他主義というのは、排斥される側の悲劇は必然だが、他者を強圧的に排他する側も、いつなんどき立場が入れ換わるかもしれない、という恐怖心に裏打ちされた心情がもたらす、低次元の人間の思考形態なのである。その意味で、排他主義の別称である、<まわりの空気を読む>ことの弊害とは、ひと言で表現するなら、自己閉塞という人間的頽落・堕落である。
まわりの空気をうまく読みおおせて、世の中をすいすいと泳ぎ切って、社会的地位もそこそこに獲得したとして、それが一体何を産み出すというのだろうか?人間とは、こういう人が思っているほどには器用な存在ではない。人と云うのはすべてを掬い切れない。取りこぼしは確実に在る。まわりの空気をうまく読んだつもりでも、読み切れない人との関係性も確実に在る。大体において、こういう人は、もっとも大切な足場となる親密な人間関係で破綻している場合が多い。ツケは、あるとき一気にどっと自分の身に降りかかっても来る。人の生き方なんて、良い意味でも悪い意味でも大抵うまく帳尻が合っているものなのである。
現代は、孤独で、閉塞感が強く、人は笑みを浮かべているかに見えても、どこかで互いが孤立しているような、薄ら寒い時代である。その原因を、かつて存在した地域社会が崩壊したからだ、というような凡俗な分析におっかぶせてもはじまらないだろう。確かに地域共同体的な社会は、確実に名実ともに瓦解したと思う。が、それにしても、瓦解後に現れた人間の関係性が、びくついた他者との関わりで危うく成り立っているとしたら、これほどグロテスクなことはないのである。まわりの空気を読めるとは、自己が受けとめ切れるずっと前の段階に、勝手な限界値を定めてバリアーをハリ巡らせるような、安逸で、臆病な心的状況の別称そのものだ。こんな時点から、人間的なあたたかみなど出て来るはずがないではないか。
勇気を持とう!他者を受容する勇気と覚悟を取り戻そう!それが結局は自己救済に最も近い生き方だし、幸福感を得られる生き方だろうから。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃