ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○<笑い>に関する雑感

2011-11-06 10:03:44 | 観想
○<笑い>に関する雑感

たぶん、僕は若い頃に人との付き合いが上手く行き過ぎて、その感覚を歳老いたいまも同じように抱き続けているので、こちらが心を開いているのに、なんで人はなかなか腹を割った話をしてくれないのだろうか、という、とてもシンプルな疑問がかなり以前から僕の裡を占めていたように思う。

ブログを書きはじめてから、僕は、結構粘っこく書き綴ってきたわけで、その内実は、人生の総括としての位置づけであり、総括なんだから、当然、そこからの飛躍と脱却が主な狙いである。Gooブログの「ヤスの雑草日記」は、書き綴ったものが、すでに1000をかなり超えた。それでも、生の総括集としてのブログの位置づけを降ろせないのは、総括しつつ、しかし、飛躍や過去からの脱却とは程遠い、ノロノロとした航路を進んでいるに過ぎないからである。そもそも、前記した「僕は若い頃に人との付き合いが上手く行き過ぎて」という捉え方があやしいのである。若い頃に通り過ぎた時代が自分に味方したのか、災いしたのか、多分評価としては、後者だろうから、「人との付き合いが上手く行き過ぎて」には何の根拠もないのである。敢えて言うとすれば、それは単なる思い込み。いや、思い込みだけならば罪はないだろうが、僕の場合は、他者をかなり強引に支配下に置いて(勿論昨今のいじめなんかじゃあないですよ)、指導者きどりを決め込んでいただけなのだろう、いうことに想いを馳せると、冷や汗のごときものがじっとりと背中を伝って流れるような感覚から自由になれないのである。

議論に次ぐ議論。内実は、政治的イデ―でも、文学や哲学論議でも、異性論でも何でもよかったわけだが、議論であるからには、あくまで論破することを念頭に置く。そうであれば、当然、自分の舌鋒は鋭くなるし、口数も多くなる。相手を威圧することなら、何でも有利に使う。殆ど使うことはないにしても、暴力をほのめかせるだけの威圧感は駆使したような記憶がある。と、なると、僕の言う「人との付き合いが上手く行き過ぎて」の内実は、人との議論に挑み、勝利する独りよがりの歓びであり、決して、自-他の関係性の強固な絆を創り得たわけではなかった、と云うことになる。そういうことが、明瞭な事実として、いまは認識出来る。

独りよがりにせよ、他者との深い議論の末に意義深い言語交通路が開けた、と僕に錯誤させた最大の根拠は、なんと、<笑い>だったのである。誤解なきように書いておくと、人の<笑い>ほど複雑怪奇なものはないわけで、その意味では、言葉どおりの泣きの涙の方が人の内面をより正直に言い表わしているように思う。議論が終焉したときには、互いに、<笑う>。勝者である僕の<笑い>は、当時はそんなことに気づきもしなかったが、勝利の美酒に酔いしれたごときのそれだ。が、敗者の<笑い>は、今回は、ああ、負けちゃった、でも、次はがんばるよー!という類の表現ではなかったのである。敗者の<笑い>には、意図せずとも怨念の意思の現れが、顔の歪みの表現として立ち現れているはずのものである。長年の教師という安逸な仕事を失ってからの、とくに彷徨っていた時期に、世間の冷たい風は、僕に自己主張する場も十分に与えてはくれず、職業を模索している真っ最中に、会社側の一方的な議論のふっかけたる面接で、僕は敗者になり続けるハメになった。そんなときの僕の表情は、卑屈な笑みの中に、深い怨念を含みこんでいたと思う。確かに、僕は多く<笑った>が、その笑いは、あくまで、怨念と、己れの敗北を慰撫するための密やかな、絶望的なものの表現手段だった、と思う。

人の<笑い>の意味は深いのである。昨今はお笑いブームがまた到来した感があるが、お笑いというジャンルにも、人の哀しさが内包されているからこそ、多少のアホらしさも受容しながら観れるのではないだろうか。<笑い>の意味を場面ごとに汲み取れるようになれば、たぶん、その人は人生の達人だ。よい生の終焉の仕方が出来るだろう。ところが僕はまだ気づいたばかり。相当なアホウだと思う。もうしばらくは書き続けなければならない、と心底想うのである。

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長野安晃