ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○なぜ、学校空間の中で閉塞したがる人々がいるのだろうか?

2011-11-29 11:19:24 | 学校教育
○なぜ、学校空間の中で閉塞したがる人々がいるのだろうか?

不条理なことは、しばしば予期せぬときに身に降りかかる。もう数年前になるが、僕は京都美山高校という通信制の学校の機関提携カウンセラーという立場を一方的に破棄されたのである。この学校の機関提携カウンセラーになった経緯は、校長さんの大野先生という方が、僕の京都カウンセリングルームのHPをご覧になって共感してくださり、唐突に来訪されたのがきっかけである。当時の、この人は立派な人で、ご本人は「歌う校長」と称して、ギター抱えてところを選ばず講演をしてまわる。あるいは、フォークソングの合間に、美山高校の宣伝をしているわけである。この人とは食事をしながら教育論をやった。僕がかつて教師だった経験も議論の話題になった。機関提携カウンセラーと云っても、何の報酬もないのである。年に一度、保護者の会が総会を開き、その際に議題ごとにグループ討論をする際に助言者になるか、単独の講演会をするかなのである。そこに招かれたときは、確か交通費込みで3万円頂いていたか。僕にとっては、この学校との関係は、金銭的なそれではなくて、普通学校からはじかれて、行きどころを失くした生徒さんたちの喪失した自信を再構築し、確かな学力をつけるという、大野校長の意気に共感したからお付き合いし続けたのである。僕の印象では、当初はとても開かれた教育観を有した通信制学校だったと認識している。

ところが、である。大阪の公立中学校の一人の教師が、この美山高校の教育方針に惚れこんで(あくまで本人の言である)、大野さんに雇用してもらうように直訴したのである。結果的には、この、たぶん、実際には大阪の公立中学校では使い物にならなかった人物を、大野さんは、副校長という職責を与えて雇用したのである。大野さんがこの人物を連れて挨拶に来た折に、この採用は失敗だなあ、という率直な印象を持ったのをありありと思い出す。言葉の端々に、学校が開かれた存在ではなく、あくまで閉じた世界として、生徒さんたちに教えるのが学校の役割だ、という姿勢が透けて見えたからである。

この副校長は、京都美山高校と僕のHPとのリンクを外すと通告してきた。理由が笑わせるのである。というよりも、美山高校の生徒さんたちを見下していることにまったく本人は気づいていないのである。彼は、僕のブログの一つにひっかかった。あるブログのタイトルの中の「性愛」という文言が、教育的でない、というのである。また、美山高校の生徒には、この種のオトナの価値観に属する文言は理解出来ないとも言ったのである。アホか、とつくづくと思ったな。大野さんも人を見る目がなくなった、とも。この男は、通信制という学校でありながら、頭の中は、自分がはじかれただろう、鉄柵に囲まれた学校空間と、その中でしか通用しないバカげた価値観の延長線上で、開かれていた美山高校を、遮二無二、閉塞させようとしていたのである。大野さんに、前記した内実のメールを何度か書き送ったが、返信してこなかった。彼も堕落したのだろう。教師たるものが、教育に関して真面目に質問状を受けているのである。それを無視するなどというのは、教師失格である。人間的頽落である。回答もないままに放置されたので、「京都美山高校にもの申す(1)(2)」を<ヤスの雑草日記>に書いた。興味を抱かれた方は、京都カウンセリングルーム(http://www.counselor-nagano.jp/)のトップページの<ヤスの雑草日記>の検索欄に「京都美山高校にもの申す」と入れていただければ、読めるはずである。

さて、以下が、アホウな副校長が内容も読まずに言葉だけに引っかかり、大野校長も真偽のほどを検証もせず、また、まじめな質問状に対して無視を決め込み、このことがきっかけで、僕と京都美山高校との縁が切れたブログである。再掲載しておくので、読んでくださる方は、ぜひどうぞ。

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○性愛という必然について想うこと。

愛という概念について語ろうとするとき、人は性の問題を意図的に回避するか、偽悪的に性の縦横無尽さについて語りはじめるかのいずれかであって、性と愛が不可欠な合一性を持っていることを明確に語らないことが多いのはなぜなのだろうか?人間社会において、性的関係性が情愛というファクターを上回る瞬間が如何に多いことか。愛と性が切り離せないという前提に立った上で言うが、昨今、男女の関係性のもつれゆえに起こる事件の本質は、性が過剰になったときか、あるいは、男女の関係性の中にその他の要素、たとえば、金銭などの問題がこじれの原因になっていることが殆どではないか。男が、あるいは女が、深い関係性にある、あるいはかつてそうであったパートナーシップを、相手を破壊することによって解消するなどというのは、性の過剰か、その他の要素が深く絡んでいないわけがないではないか。そもそも性愛の構築がなされている場合、男女あるいは男男、女女の関係性が壊れることはないのである。性が充溢していることを、特に世の中の制度上の規範からはみ出したそれを、不倫と呼びならわているようだ。週刊誌ネタの抜かせないものになっている。それにしても、不倫とはおかしな言葉である。単純に言うならば、結婚制度という倫理的関係からはみ出した男女の関係性を表現する言葉なのだろうが、僕の感性からすれば、いかにも下品な言葉に聞こえる。この考え方からすれば、もし、性への憧憬から異性の間を彷徨する人間がいたとして、その人間が制度上の結婚をしていたとき、それが不倫と言うことになる。短期間の異なる異性との性的関係性による満足感などは、まさにいっときのもので、すぐに倦み飽きる。だからこそ、また別のターゲットを探すことになる。不倫の定義がこのようなものならば、やはり、不倫とは不可解で、下劣な言葉だと言うしかない。端的に言うと、性がもたらす快楽に生きる歓びはない。もっと正確に言うと、性的関係性だけに人生の倦怠解消を求めることがそもそも間違っているのである。この場合、性の充溢とは、生の貧困さと同義語である。生きることに倦み疲れた人間が性のもたらすいっときの快楽を求めても、生きる歓びを快復してくれる特効薬にはなり得ない。延々と救済の道なき棘の道を歩き続けることになる。これは性の追求であって、性愛の問題とはまったく異なる次元の問題である。性の追求の末に待ち受けているのは、性の堕落を超えて、人間的堕落でしかない。誤解なく。僕は性を嫌悪しているのでは決してない。人間にとって、性は大切な、抜き難きものだと思っている。宗教的理念によって、無理矢理性を断絶させる人々もいるが、そういう人たちの中から、卑猥な破壊僧が出現する。笑止千万である。

性的営みが疎ましく感じられるとき、確実に両者の関係性の中に精神的亀裂が入っている。それを愛の欠落という。したがって、愛しているのに、性的な関係性を忌避するなどというのは、日常生活に波風を立てたくないだけの、誤魔化しの制度上の倫理観だ。これを不倫と言わずして、何が不倫なのだろうか、と僕は思う。昨今の日本人のmoralとimmoralとの違いは、愛の本質からあまりにも遠くにある概念規定だと思う。倫理が不倫であり、不倫が倫理であり得ることなど、世の中に溢れている。何をもってこのような規範が成り立つのかというと、性愛の合一という、愛を育むために不可欠な要素があるかどうか、である。たとえ、制度的夫婦関係においても、性愛の観念が育めない、あるいは、育もうとする意思が喪失したとき、それを不倫と呼ぶのである。制度に保障された不倫関係の何と多いこと!今日の観想として、書き遺す。

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