○シルベスタ・スタローン、雑感。
シルベスタ・スタローンのファンの方々にとっては、甚だ申し訳ないことを書くのだが、それにしても、いまはスタローンに対して否定的な感覚を持っているにしても、結構彼の作品をたくさん観ているから、こじつければ、僕もスタローンのファンの一人なのかも知れない。そうであれば、ファンからの苦言とでもしておいて頂ければ書く方も気楽というものである。
とりあえず、これはみなさんと共有できる感覚だと思うが、この人の頭は非常に単純に出来ているらしい。代表作は、ロッキーとランボーのシリーズ物だが、それぞれの主人公の置きどころが異なるだけで、ヒーローものということでは、まったく同じ種の映画である。スタローンは脚本も自分で書くわけだから、映画の評価が、スタローンの思想性の評価と直結しているのか、とも思う。
これを書くきっかけになったのは、昨夜、ロッキーファイナルのDVDを観たことだろう。観ながら、僕はなんで、スタローンの映画をこれまで何度も観てしまった(そう、観てしまったのだ、という慨嘆です)のだろうか、という後悔とも、悔しさとも云える感慨を抱いた次第。ロッキー・ファイナルの前半の殆どはつまらない、のひと言に尽きた。主人公のロッキーが、心の支えとして愛していた妻のエイドリアンの死を受け入れられず、経営するイタリアンレストランもエイドリアンと名付けている。一人息子は平凡なサラリーマンになっているが、常に父の過去の名声を通してしか自分を認識してくれない世の中に、そして、その主因たる父親に対して、いつまでもイジケている。世の中にごまんとある父子の関係性の距離感と壊れ方のプロトタイプである。またロッキーの失った妻に対する思慕の念も、これまた愛する人に先立たれた者のプロトタイプだ。このような人間の関係性の中で交わされる会話は、やはりどのように洒落た言葉を脚本の中に投げいれようと、プロトタイプという範疇から逃れられない。ランボーが追い詰められるまでのシーンも、やはり個としての人間が組織に対して反抗するときの、最も想像しやすいプロトタイプと云える。どちらの作品の主人公も、モンスター級の気力と体力を兼ね備えているという非現実が、危うく映画としての体裁を保っている。これが、シルベスタ・スタローンの持ち味だろうか?人間の、まったく屈折すらしていない喜怒哀楽の感情の波を、スタローンの創る物語性の中で、いっとき静めてくれる役割を持ったものとして、観客は映画を観るのだろうか?とも思ってみる。
しかし、ロッキーが、あるいはランボーが、眼前に立ちはだかる高い壁に対して、力の限りを尽くして立ち向かうまでの伏線としての物語が、伏線になり得ていないのである。だから鑑賞者は、総じてロッキーの試合に向けてのトレーニングの光景と試合当日のリング上のハラハラドキドキするロッキーの闘い方に心を奪われるのである。ただそれだけだ。また、ランボーが、たった一人で大勢のプロの武装集団と闘い、ダイ・ハードであり得ることに対して、鑑賞者は自己の存在と重ね合わせて、強靭なフィクションとしての自我像を想起して、武者震いするのである。そういう意味において、ロッキーもランボーも、物語の伏線自体が無用なのである。ただ、それだけだ。これが僕のシルベスタ・スタローンに抱く不満。肉体派だけど、アーノルド・シュワルツネッガ―のような魅力はない。中途半端なのだ、どこまでも。さて、スタローンが、あのフランスの天才詩人のアルチュール・ランボーから、ランボーという主人公を創ったとも思えぬし。果たして、スタローンは今後、どこへ向かうのだろうか?
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長野安晃
シルベスタ・スタローンのファンの方々にとっては、甚だ申し訳ないことを書くのだが、それにしても、いまはスタローンに対して否定的な感覚を持っているにしても、結構彼の作品をたくさん観ているから、こじつければ、僕もスタローンのファンの一人なのかも知れない。そうであれば、ファンからの苦言とでもしておいて頂ければ書く方も気楽というものである。
とりあえず、これはみなさんと共有できる感覚だと思うが、この人の頭は非常に単純に出来ているらしい。代表作は、ロッキーとランボーのシリーズ物だが、それぞれの主人公の置きどころが異なるだけで、ヒーローものということでは、まったく同じ種の映画である。スタローンは脚本も自分で書くわけだから、映画の評価が、スタローンの思想性の評価と直結しているのか、とも思う。
これを書くきっかけになったのは、昨夜、ロッキーファイナルのDVDを観たことだろう。観ながら、僕はなんで、スタローンの映画をこれまで何度も観てしまった(そう、観てしまったのだ、という慨嘆です)のだろうか、という後悔とも、悔しさとも云える感慨を抱いた次第。ロッキー・ファイナルの前半の殆どはつまらない、のひと言に尽きた。主人公のロッキーが、心の支えとして愛していた妻のエイドリアンの死を受け入れられず、経営するイタリアンレストランもエイドリアンと名付けている。一人息子は平凡なサラリーマンになっているが、常に父の過去の名声を通してしか自分を認識してくれない世の中に、そして、その主因たる父親に対して、いつまでもイジケている。世の中にごまんとある父子の関係性の距離感と壊れ方のプロトタイプである。またロッキーの失った妻に対する思慕の念も、これまた愛する人に先立たれた者のプロトタイプだ。このような人間の関係性の中で交わされる会話は、やはりどのように洒落た言葉を脚本の中に投げいれようと、プロトタイプという範疇から逃れられない。ランボーが追い詰められるまでのシーンも、やはり個としての人間が組織に対して反抗するときの、最も想像しやすいプロトタイプと云える。どちらの作品の主人公も、モンスター級の気力と体力を兼ね備えているという非現実が、危うく映画としての体裁を保っている。これが、シルベスタ・スタローンの持ち味だろうか?人間の、まったく屈折すらしていない喜怒哀楽の感情の波を、スタローンの創る物語性の中で、いっとき静めてくれる役割を持ったものとして、観客は映画を観るのだろうか?とも思ってみる。
しかし、ロッキーが、あるいはランボーが、眼前に立ちはだかる高い壁に対して、力の限りを尽くして立ち向かうまでの伏線としての物語が、伏線になり得ていないのである。だから鑑賞者は、総じてロッキーの試合に向けてのトレーニングの光景と試合当日のリング上のハラハラドキドキするロッキーの闘い方に心を奪われるのである。ただそれだけだ。また、ランボーが、たった一人で大勢のプロの武装集団と闘い、ダイ・ハードであり得ることに対して、鑑賞者は自己の存在と重ね合わせて、強靭なフィクションとしての自我像を想起して、武者震いするのである。そういう意味において、ロッキーもランボーも、物語の伏線自体が無用なのである。ただ、それだけだ。これが僕のシルベスタ・スタローンに抱く不満。肉体派だけど、アーノルド・シュワルツネッガ―のような魅力はない。中途半端なのだ、どこまでも。さて、スタローンが、あのフランスの天才詩人のアルチュール・ランボーから、ランボーという主人公を創ったとも思えぬし。果たして、スタローンは今後、どこへ向かうのだろうか?
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