○子育て残酷物語-断章
昨今、マスコミ報道などで、子どもに対する虐待から死に至らしめる犯罪行為などが喧伝されている。育児放棄などを含めると、この種の子捨て(オバ捨ての逆バージョンだが、子どもには意思を明確に伝えられないこと、また、かつての日本の貧困ゆえのオバ捨てとはまったく様相が異なる)と称すべき諸現象は、多種多様である。無論、子捨てとは、捨てられた子どもの命が奪われても、幸運にも生き残ったとしても、その後の人生に多大な影響を与えるという意味において、やはり、総称的に、子育て残酷物語と云って差し支えないような、親から子への消し難い烙印のごとき言動について、思うところを今日は書き綴る。
虐待こそが、最も単純な動機を内包している子捨ての姿である。子どもの存在が疎ましいという消極的な理由から、子どもの存在を捨象すべく、子殺しに至るまでの虐待行為は、事件性という点においても、その分かりやすさという点においても、マスコミ報道になりやすい。だから、僕たちは、子育ての残虐性をしばしば、虐待という一点に収斂させる傾向がある。虐待による殺人という結末が重すぎるものだということは諒解した上で、さて、子育てにおける隠微な残酷性とはいったいどのようなものなのかについて述べる。
子どもという概念が定着したのは、近代に入ってからである。このことは周知の事実であるから簡単に描く。つまりこうだ。近代以前の子どもとは、庇護し、育て、次の世代を担う存在として、大切に親が養育する対象などではなかったのである。子どもは、その頃、まったき労働力以外の何ものでもなかった。したがって、オトナとは、労働力として生み育てられ、酷使された経緯を経て、自分たちの子どもをつくる存在であるゆえに、親が子を精神的、肉体的支配下に置くことが異常でもなんでもなく、至極ありふれた親子の関係性のあり方だったと推察できる。このような精神の型が、人間にとって振り払い難い本質であるとするなら、現代における虐待をはじめとする、子どもを唾棄・忌避するような傾向性は、誰の心にも潜む心性であると認識した方がよさそうである。その上で、知育によって養われた理性で、原初的な残虐性を克服するという意識的な試みがあってしかるべきではなかろうか?
現代において、最も残酷な子育てのありようとは、親が前記したような自己の心性に対して無自覚で、無自覚ゆえの苛酷な支配欲を子どもに対して具現化しているような場合を指して云うのである。昨今、心理学的な用語として、親子の共依存という精神の煉獄(無論、この場合の煉獄とはあくまで子どもの側の問題である)が話題にされることがしばしばあるが、共依存の様式は、親が子を一方的に支配し、子は支配されながらも、親の支配欲を愛情と錯誤して、その支配下から抜け出せない状況のことを云うのである。が、支配者が支配するものに依存するというのも、言葉の定義として少しの違和感がある。共依存の本質は、近代以前の、親の子に対する絶対的な支配のあり方が原型として在り、子はその支配に屈して、抗いの力を奪われているという、原初的な親子関係に起因しているのではなかろうか?
現代における子育てが残酷になるのは、その目的が、子どもを庇護し、教育するという現れの裏に隠れた、子どもに対する支配であるゆえに残酷なのである。強圧的な親は、躾(しつけ)や教育の場面で、苛酷な課題を課してそれを愛情と錯誤して憚らない。また、世の荒波に簡単に屈服してしまうような幼児的な親は、子どもに対して親が負うべき過大な重荷を背負わせてしまう。いずれにしても、子育てにおける残酷物語そのものである。
子育て残酷物語の中に投げ込まれた子どもたちが、その蜘蛛の糸から抜け出せる確率は極めて低い。願わくば、彼らが親の世代になったとき、同じことを繰り返しませんように。悪しき、たゆまぬ循環こそが、残酷物語を助長し、永続化させるわけだから。
文学ノート僕はかつてここにいた
長野安晃
昨今、マスコミ報道などで、子どもに対する虐待から死に至らしめる犯罪行為などが喧伝されている。育児放棄などを含めると、この種の子捨て(オバ捨ての逆バージョンだが、子どもには意思を明確に伝えられないこと、また、かつての日本の貧困ゆえのオバ捨てとはまったく様相が異なる)と称すべき諸現象は、多種多様である。無論、子捨てとは、捨てられた子どもの命が奪われても、幸運にも生き残ったとしても、その後の人生に多大な影響を与えるという意味において、やはり、総称的に、子育て残酷物語と云って差し支えないような、親から子への消し難い烙印のごとき言動について、思うところを今日は書き綴る。
虐待こそが、最も単純な動機を内包している子捨ての姿である。子どもの存在が疎ましいという消極的な理由から、子どもの存在を捨象すべく、子殺しに至るまでの虐待行為は、事件性という点においても、その分かりやすさという点においても、マスコミ報道になりやすい。だから、僕たちは、子育ての残虐性をしばしば、虐待という一点に収斂させる傾向がある。虐待による殺人という結末が重すぎるものだということは諒解した上で、さて、子育てにおける隠微な残酷性とはいったいどのようなものなのかについて述べる。
子どもという概念が定着したのは、近代に入ってからである。このことは周知の事実であるから簡単に描く。つまりこうだ。近代以前の子どもとは、庇護し、育て、次の世代を担う存在として、大切に親が養育する対象などではなかったのである。子どもは、その頃、まったき労働力以外の何ものでもなかった。したがって、オトナとは、労働力として生み育てられ、酷使された経緯を経て、自分たちの子どもをつくる存在であるゆえに、親が子を精神的、肉体的支配下に置くことが異常でもなんでもなく、至極ありふれた親子の関係性のあり方だったと推察できる。このような精神の型が、人間にとって振り払い難い本質であるとするなら、現代における虐待をはじめとする、子どもを唾棄・忌避するような傾向性は、誰の心にも潜む心性であると認識した方がよさそうである。その上で、知育によって養われた理性で、原初的な残虐性を克服するという意識的な試みがあってしかるべきではなかろうか?
現代において、最も残酷な子育てのありようとは、親が前記したような自己の心性に対して無自覚で、無自覚ゆえの苛酷な支配欲を子どもに対して具現化しているような場合を指して云うのである。昨今、心理学的な用語として、親子の共依存という精神の煉獄(無論、この場合の煉獄とはあくまで子どもの側の問題である)が話題にされることがしばしばあるが、共依存の様式は、親が子を一方的に支配し、子は支配されながらも、親の支配欲を愛情と錯誤して、その支配下から抜け出せない状況のことを云うのである。が、支配者が支配するものに依存するというのも、言葉の定義として少しの違和感がある。共依存の本質は、近代以前の、親の子に対する絶対的な支配のあり方が原型として在り、子はその支配に屈して、抗いの力を奪われているという、原初的な親子関係に起因しているのではなかろうか?
現代における子育てが残酷になるのは、その目的が、子どもを庇護し、教育するという現れの裏に隠れた、子どもに対する支配であるゆえに残酷なのである。強圧的な親は、躾(しつけ)や教育の場面で、苛酷な課題を課してそれを愛情と錯誤して憚らない。また、世の荒波に簡単に屈服してしまうような幼児的な親は、子どもに対して親が負うべき過大な重荷を背負わせてしまう。いずれにしても、子育てにおける残酷物語そのものである。
子育て残酷物語の中に投げ込まれた子どもたちが、その蜘蛛の糸から抜け出せる確率は極めて低い。願わくば、彼らが親の世代になったとき、同じことを繰り返しませんように。悪しき、たゆまぬ循環こそが、残酷物語を助長し、永続化させるわけだから。
文学ノート僕はかつてここにいた
長野安晃