ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○異形を造る快楽と哀しみ

2011-11-20 13:21:57 | 観想
○異形を造る快楽と哀しみ

今日はボディビルダーの話。ボディビルダーたちの、頂点としてのミスター・オリンピア(女性の場合は、ミズオリンピア)の、トップ10たちの、大会前のトレーニング風景がDVD3枚に収められている。これを観るには9時間かかる。まだ観終わらない。なぜこんなに長いDVDになっているかというと、殆ど編集というものをやっていないからである。たとえば、あるビルダーが、胸筋の鍛錬をするとする。それを編集なしで、延々と撮り続けるのである。筋トレに興味のない人にとっては、退屈以外の何ものでもない代物である。昨今は、ダイエットブームでもあり、男性と云えど、細マッチョなんていう言葉があるくらいだから、筋トレとは、痩せながらそれなりの均整のとれた筋肉をつける、というのが、大抵のスポーツジムの方針だし、そこに足を運ぶ人々の訓練の仕方でもある。そういう意味では、ミスター・オリンピアという大会に挑もうとしている男たちのからだ造りは、おおかたの日本人の健康志向の身体つくりとは対極に在るものだ、と云える。

多くの人たちは、プロのボディビルダーたちの体躯を観て、顔をしかめる。異常に発達した筋肉のつき方を薄気味悪がるのである。すべてが、あくまで巨大である。目指す体型もどこまでも特異なものである。たとえば、それがいかに特異なものなのかは、からだのすべての部分を、際限なく肥大させているからである。無論、彼らにも肥大させるための目的と基準はある。大会のジャッジたちが、何を基準にしているかにあくまで合わせるからだ。勝って、飯を食うために。

あらゆるアスリートたちについてまわる黒い噂。アナボリック・ステロイドの存在。とりわけ、プロ・ボディビルダーたちの異形の体型が、ステロイドの存在なしに造られるとは誰も思っていないだろう。大会では厳しい尿検査が義務づけられているから、勝負はそれまでの段階だ。無論DVDにはあくまで厳しいトレーニング風景と、ときおり選手たちのストイックな食事風景とがない交ぜになって、映し出される。プロティンは、もはや痩せるための補助食品として誰にでも認知されているが、彼らは大量の不味そうなそれを胃に流し込む。赤身の肉片を何枚も食べる。卵は卵白だけを取り出し、数えきれないほどに喰らう。反吐のような色のオートミールにグルタミンの粉末を振りかけて食す。表情はトレーニングで苦痛にゆがんだそれとまったく同じだ。とにかくがんばって口に入れる。

プロ・ボディビルダーたちは、異形になることで飯を食っているのである。もはや美的なものとは異なる次元である。誤解を解く。プロのボディビルダーたちを観て顔をしかめる人たちは、ステロイドをやって、厳しいトレーニングさえすれば誰でもあんなからだになれると安易に解釈しているようだが、決してそうではない。彼らは、100メートルを9秒代で走り抜けるアスリートと同じような天才性を持っているのである。彼らを軽蔑するなら、あの苦しげなトレーニングの十分の一でもやってみるとよい。たとえば数カ月。どれだけの体型の変化がある?トレーニングのルーティーンを絶えず変革する頭脳と才能がなければ、何一つ変わらないだろう。凡人にはかなわぬ異形の世界なのである。からだも異形ならば、それを維持するための生活形態も異形なのである。才能を持った少数のビルダーたちが、異形の生活様式に耐えて、異形のからだを造ることに凌ぎを削る。トレーニングはあくまで孤独で、厳しい。鏡に自分の姿を映すのは単にナルシシズム的な感傷主義ではない。プロの目で自分の体躯の異形の度合いを点検するためだ。ドヤ顔になるのは、そうでもしなければ長く苦しい鍛錬に耐えられないからである。

過剰なトレーニングのインターバルで見せる気弱で不安げな表情。自分の裡の弱さと必死に闘っている絵は、僕には彼らの異形の体躯よりも、興味深く、また美しく見える。そして、異形を造るという迷盲な精神に哀しみを覚える。決して蔑視などできはしない。僕は彼らに対して非常に肯定的だ。過食し、散歩程度しか身体を動かさなかった時代から彼らのことは認めている。DVDに登場するビルダ―の誰もが、絵に描いたような豪邸に住んでいて、ガレージには、ピカピカのスポーツカーが、彼らがジムに行くのを待ち受けている。金も入り、金使いを知らないのだろうな。

アナボリック・ステロイドの存在を知ったのは、100メートルを9秒代で軽々と走り抜けた、カナダのベン・ジョンソンが、ステロイド使用を暴かれて、記録を抹消され、大会参加も禁止されたことがはじまりだった。ベン・ジョンソンもそう言えば、ブラックの流線形のフォルムのスポーツカーに乗っていたな。結婚後に住む豪邸を建設中だった。スポーツカーの存在自体がどこかしら時代錯誤なのに、彼らが好んで乗るのがそれだとすると、たぶん、ボディ・ビルダーたちの価値基準が、ずっと以前の価値観に留まっているのだろうか、と思ってみたりする。アーノルド・シュワルツネッガーのマッチョぶりを許容出来ると思う人でも、現代のプロ・ボディビルダーたちの筋肉の肥大には、目を背ける人は多いだろう。人は異形を追求し出すと、果てしもない究極のゴールまで走る。異形を求める人々の哀しみもそこにある。そんな想いで、飽きもせずに長大な時間のDVDを観続けている。まだ、二巻の途中である。あと一巻はまるまる残っている。苦痛ではない。異形をつくる快楽と哀しみがつまっているんだから、観る価値は十二分にあるのである。さて、今夜も観るよ。

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