○乗り越えるべき壁?いつも自分の前に現存します。
人はどのような環境下においても、自分自身と向き合って生き抜く覚悟があれば、なんとか生き抜いていけます。無論、生き抜くとは、惰眠を貪るような生き方を指しません。それは、常に自分が対峙すべき課題から目を背けずに、向き合う覚悟のことを指して使う言葉です。<乗り越えるべき壁>と書きました。つまりは、乗り越えられない壁など存在しないからです。ここで話題にしているのは、くどいようですが、あくまで自分自身ときちんと向き合う覚悟のある人についての観想ですから、空想的にありもしないことを仮想して、考えにふけることを意味しません。誤解なく。
まったく間尺に合わないことをやっている場合は別として(そういう自覚があれば、即効やめればいいわけです。なすべきことはいくらでもあります)、ある程度でよろしいですから、適応できるところに身を置けたらそれは儲けものです。無論努力の成果でもあるのでしょうけれど。さて、問題は、その次です。人間の脳髄には、慣性のモーメントが働く能力?が備わっているようで、手をつけ始めたときの困難さなどは、時間を経るに従って、困難さが、普通の感覚に変わります。所謂慣れですね。簡単に慣れと言いますが、これは、その人に能力があるという証左です。慣れるにはそれなりの力量が必要だからです。でも、大抵の人は、慣れたら、その時点の精神状態に安住したがります。新たなことに挑戦することに憶病になりがちです。
たとえば、職場の異動や転勤や昇進で、仕事内容が変わった途端に調子を崩す人が出ます。これは、脳髄の慣性のモーメントに隷属した精神性だと言える状況です。社会科学的に表現すると、こういう心性を保守主義というのです。無批判な体制擁護の思想というのは、心的現象としては、慣性のモーメントに傾斜して、そこに安住している心境と言えるでしょう。保守主義者と自己規定して憚らない人は、その理由として、保守すべき価値あるものがあるだろう、と言います。それを伝統と言い表わしても構いませんけれど、しかし、伝統とは、その時々の成果がかたちとして残ったものであって、その一方で、人間をとりまく状況は刻々と変化し続けるのです。また、変化し続けるということを認めないと、状況が変わることに人は怯えてしまいます。つまり、人というのは、かなり意識的な自己確認、自己改革の機運を働かせる努力をしなければ、放っておくと、既成の価値意識に確実にすがります。蛇足ですが、既成の価値観とは、常に一歩も二歩も遅れた存在ですから、伝統という、聞こえのよろしいものにしがみ付くこと自体が保守主義です。保守主義とは、結局のところ、人が前を向き、刻々と移り変わる時代と向き合うことに背を向けた懐古趣味です。惰眠を貪っていたら、自然に保守主義者になることが出来ます。惰眠に理屈をつけることが、保守主義者の論理です。そこから何も得るものはありません。当然のことでしょう。
現代は、政治も経済も文化も含めて、何もかもが閉塞している感があります。しかし、この種の閉塞感は、マスの報道やエセ評論家たちが振りまいた雰囲気です。また、政治家たちも、既得権益を守ろうとする旧態依然とした金持ちたちに繰られています。あるいは、金持ちが自己の権益を守るために政治に携わりますから、僕たちはよほど意識的に、社会は変革し得るという思想を堅持する必要があります。当然のことですが、既成の名前ばかりの革新?政党などの政策はお話になりません。革新と云うばかりで、自らが保守化しています。そうでなければ、票をとれないと思い込んでいるからです。既得権益の暴かれ方を見ていれば、わかるでしょう?指弾されるのは、小物ばかりです。もっと大きな、国政レベル、国際的な既得権益を保守しようとする輩がいるのです。政治家もマスコミも事実を暴きません。自分たちの存在が危なくなるからです。
騙されないようにしましょう!僕たちは、この世界を切り開くことが出来ます。言葉どおりの再生も出来きます。いろんなことを視えなくさせられているだけです。かつてアメリカがもっと健康だった頃、一人の天才作家が出現しました。彼はラルフ・エリソン(Ralph Ellison)と云います。アメリカ社会におけるブラック・アメリカンの存在を「見えない人間」として描きました。しかし、それは現代社会にも十分に通用します。現代において、見えないのは、まともな人間です。そういう意味で、一読の価値はあります。お薦めします。かつては、ハヤカワ文庫で読めましたが、いまは絶版のようです。これだけ英語ブームなのです。石川遼くんの英語会話教材もいいですけれど、ペーパーバックで読んでご覧になるといいです。英語力がつきますから。Invisible Man(Vintage International)です。アマゾンで手に入ります。越えるべき壁が視えるかも知れませんから。ぜひ、どうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
人はどのような環境下においても、自分自身と向き合って生き抜く覚悟があれば、なんとか生き抜いていけます。無論、生き抜くとは、惰眠を貪るような生き方を指しません。それは、常に自分が対峙すべき課題から目を背けずに、向き合う覚悟のことを指して使う言葉です。<乗り越えるべき壁>と書きました。つまりは、乗り越えられない壁など存在しないからです。ここで話題にしているのは、くどいようですが、あくまで自分自身ときちんと向き合う覚悟のある人についての観想ですから、空想的にありもしないことを仮想して、考えにふけることを意味しません。誤解なく。
まったく間尺に合わないことをやっている場合は別として(そういう自覚があれば、即効やめればいいわけです。なすべきことはいくらでもあります)、ある程度でよろしいですから、適応できるところに身を置けたらそれは儲けものです。無論努力の成果でもあるのでしょうけれど。さて、問題は、その次です。人間の脳髄には、慣性のモーメントが働く能力?が備わっているようで、手をつけ始めたときの困難さなどは、時間を経るに従って、困難さが、普通の感覚に変わります。所謂慣れですね。簡単に慣れと言いますが、これは、その人に能力があるという証左です。慣れるにはそれなりの力量が必要だからです。でも、大抵の人は、慣れたら、その時点の精神状態に安住したがります。新たなことに挑戦することに憶病になりがちです。
たとえば、職場の異動や転勤や昇進で、仕事内容が変わった途端に調子を崩す人が出ます。これは、脳髄の慣性のモーメントに隷属した精神性だと言える状況です。社会科学的に表現すると、こういう心性を保守主義というのです。無批判な体制擁護の思想というのは、心的現象としては、慣性のモーメントに傾斜して、そこに安住している心境と言えるでしょう。保守主義者と自己規定して憚らない人は、その理由として、保守すべき価値あるものがあるだろう、と言います。それを伝統と言い表わしても構いませんけれど、しかし、伝統とは、その時々の成果がかたちとして残ったものであって、その一方で、人間をとりまく状況は刻々と変化し続けるのです。また、変化し続けるということを認めないと、状況が変わることに人は怯えてしまいます。つまり、人というのは、かなり意識的な自己確認、自己改革の機運を働かせる努力をしなければ、放っておくと、既成の価値意識に確実にすがります。蛇足ですが、既成の価値観とは、常に一歩も二歩も遅れた存在ですから、伝統という、聞こえのよろしいものにしがみ付くこと自体が保守主義です。保守主義とは、結局のところ、人が前を向き、刻々と移り変わる時代と向き合うことに背を向けた懐古趣味です。惰眠を貪っていたら、自然に保守主義者になることが出来ます。惰眠に理屈をつけることが、保守主義者の論理です。そこから何も得るものはありません。当然のことでしょう。
現代は、政治も経済も文化も含めて、何もかもが閉塞している感があります。しかし、この種の閉塞感は、マスの報道やエセ評論家たちが振りまいた雰囲気です。また、政治家たちも、既得権益を守ろうとする旧態依然とした金持ちたちに繰られています。あるいは、金持ちが自己の権益を守るために政治に携わりますから、僕たちはよほど意識的に、社会は変革し得るという思想を堅持する必要があります。当然のことですが、既成の名前ばかりの革新?政党などの政策はお話になりません。革新と云うばかりで、自らが保守化しています。そうでなければ、票をとれないと思い込んでいるからです。既得権益の暴かれ方を見ていれば、わかるでしょう?指弾されるのは、小物ばかりです。もっと大きな、国政レベル、国際的な既得権益を保守しようとする輩がいるのです。政治家もマスコミも事実を暴きません。自分たちの存在が危なくなるからです。
騙されないようにしましょう!僕たちは、この世界を切り開くことが出来ます。言葉どおりの再生も出来きます。いろんなことを視えなくさせられているだけです。かつてアメリカがもっと健康だった頃、一人の天才作家が出現しました。彼はラルフ・エリソン(Ralph Ellison)と云います。アメリカ社会におけるブラック・アメリカンの存在を「見えない人間」として描きました。しかし、それは現代社会にも十分に通用します。現代において、見えないのは、まともな人間です。そういう意味で、一読の価値はあります。お薦めします。かつては、ハヤカワ文庫で読めましたが、いまは絶版のようです。これだけ英語ブームなのです。石川遼くんの英語会話教材もいいですけれど、ペーパーバックで読んでご覧になるといいです。英語力がつきますから。Invisible Man(Vintage International)です。アマゾンで手に入ります。越えるべき壁が視えるかも知れませんから。ぜひ、どうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃