○無理なんてしなくていいんだな、と思う
繰り返し書いてきた、僕の過去の抗いの原因をずっと探ってきたが、やっと見出した答は意外なものだった。僕の予測では、僕の辿ってきた過去の文学体験なり、哲学世界への彷徨なりのどこかに、抗いの本質的な根拠があるのだろう、とばかり思ってきた。だから僕はそれを発見するために、ずっともがき苦しんだ。答は見つからぬまま、今日の、いまの時点にまで時は過ぎ去ったのである。焦燥感などはなかったが、自分という存在の意味がつかめず、心の中には空漠感が燻ってはいた。自分という存在理由が見えない、というのは如何にも居心地の悪いものである。否定出来ない事実である。
今日、雑多な物が詰まっている如何にも安っぽいプラスチック製の引き出しの一つの中を、見るともなく見ていたら、古い名刺が何枚か出てきたのである。その中に子ども時代によく遊び、仲の良かった従兄弟の名刺が在った。もう10年数年以上も前、僕の教師時代の末期に大阪の梅田に呼び出して、一緒に食事をした折にもらったものだ。彼はある会社の営業部長に昇進していた。人間とは度し難いもので、素直な喜びと同時に、心の奥底に軽い嫉妬心が疼くのを止めることが出来なかった。教師という職業を選んだときから、出世などというものとは縁を切ったはずだったが、やはり近しい人が他者を動かす地位に昇り詰めていく様を眼前にすると、自分の覚悟とは裏腹に、心は思いがけない反応を見せた。正直驚きのひと言だった。勿論自分自身に驚いていたのである。
そんなことを古い名刺を見ながら空想するかのごとくに思い起こしていたら、唐突に自分が何故教師という仕事などを選んだのか? 何故愛を感じることのないままに絵に描いたような家庭を築き、20年以上も教師生活を営んでいたのか? 教師でありながら、おとなしく教師という役割の中に納まり切れない自分が何故いたのか? そんなことがどっと自分の頭の中を掠めて通り過ぎた。勿論、自分の裡なる抗いの本質も確かに視えた。
僕の抗いの原質は、どのように冷静な視点を挟み入れても、同じ結論に行き着いた。発見したら、それは思いもかけず単純なそれであった。僕の本質はまさに反面教師としての父親と同根であったのである。僕の父親は力がありながら、教育というものに興味を示さず、最後の最後に至るまで、自分の思いを言葉にして紡ぎだすことなどできず、沈黙したまま、精神の彷徨の果てに命尽きた。僕は父のことを好ましく思い、また同時に同じ質量で大嫌いだった。彼の定まらぬ仕事、定まらぬ価値観、事業で大成功をおさめようとしたかと思えば、成功譚になるどころか、明らかに自身の怠慢の故に、多額の借財を残し、その後の人生はバガボンド(vagabond)の生きざまそのものだった。
彼は何を生み出すこともなく、浪費することが自己の仕事であるかのように自由奔放に生き抜いた。たぶん、僕は父の、自由奔放な生きかたに憧れつつも、その自由が他者の犠牲の上に成り立っていることを心の深いところで、子どもながらに感じとっていたのだ、と思う。僕が父を好きであり、かつ嫌いである理由はここに在る。そして、否定しがたく、父の生きかたに抗うように、僕自身の中に埋もれている父と同じバガボンドの血をひたすらに抑え込むようにして、教師という仕事に就いた。教師という仕事は、教育観という側面から見れば自由裁量の通用するそれだが、その一方で、国公立であれば、国の指導方針に、私学であれば、私学の建学の精神とやらに屈伏せざるを得ない仕事である。生活の安定感が得られるにつれて、僕の鬱屈した精神が頭を擡げて来るのを、どうしても抑え込むことが出来なかった。精神の放浪者はどこまでいっても放浪者なのである。それを否定し続けられるはずがない。僕の生に対する抗いは、父への抗いであり、同時に父への屈伏でもあった。
いまだに出入りの激しい人生の途上である。安穏とした生活とはたぶん生涯無縁であろう、と思う。平穏さを求めはしたが、僕の本質がそれを拒否したのである。このままに前進するしかないではないか。観想にもならない観想として、書き遺す。
○推薦図書「リボルバー」 佐藤正午著。光文社文庫。文句のつけようのないおもしろい小説です。佐藤の筆致がさえ渡るプロットの展開に、読者はおいていかれそうになるほどのスピード感溢れる物語に仕上がっています。僕が、過去にこだわったという意味でこの小説を紹介します。この登場人物たる少年は怒りを憶え続けるために、少年を追う男は過去を忘れるために、物語の中で旅立っていきます。ぜひどうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
繰り返し書いてきた、僕の過去の抗いの原因をずっと探ってきたが、やっと見出した答は意外なものだった。僕の予測では、僕の辿ってきた過去の文学体験なり、哲学世界への彷徨なりのどこかに、抗いの本質的な根拠があるのだろう、とばかり思ってきた。だから僕はそれを発見するために、ずっともがき苦しんだ。答は見つからぬまま、今日の、いまの時点にまで時は過ぎ去ったのである。焦燥感などはなかったが、自分という存在の意味がつかめず、心の中には空漠感が燻ってはいた。自分という存在理由が見えない、というのは如何にも居心地の悪いものである。否定出来ない事実である。
今日、雑多な物が詰まっている如何にも安っぽいプラスチック製の引き出しの一つの中を、見るともなく見ていたら、古い名刺が何枚か出てきたのである。その中に子ども時代によく遊び、仲の良かった従兄弟の名刺が在った。もう10年数年以上も前、僕の教師時代の末期に大阪の梅田に呼び出して、一緒に食事をした折にもらったものだ。彼はある会社の営業部長に昇進していた。人間とは度し難いもので、素直な喜びと同時に、心の奥底に軽い嫉妬心が疼くのを止めることが出来なかった。教師という職業を選んだときから、出世などというものとは縁を切ったはずだったが、やはり近しい人が他者を動かす地位に昇り詰めていく様を眼前にすると、自分の覚悟とは裏腹に、心は思いがけない反応を見せた。正直驚きのひと言だった。勿論自分自身に驚いていたのである。
そんなことを古い名刺を見ながら空想するかのごとくに思い起こしていたら、唐突に自分が何故教師という仕事などを選んだのか? 何故愛を感じることのないままに絵に描いたような家庭を築き、20年以上も教師生活を営んでいたのか? 教師でありながら、おとなしく教師という役割の中に納まり切れない自分が何故いたのか? そんなことがどっと自分の頭の中を掠めて通り過ぎた。勿論、自分の裡なる抗いの本質も確かに視えた。
僕の抗いの原質は、どのように冷静な視点を挟み入れても、同じ結論に行き着いた。発見したら、それは思いもかけず単純なそれであった。僕の本質はまさに反面教師としての父親と同根であったのである。僕の父親は力がありながら、教育というものに興味を示さず、最後の最後に至るまで、自分の思いを言葉にして紡ぎだすことなどできず、沈黙したまま、精神の彷徨の果てに命尽きた。僕は父のことを好ましく思い、また同時に同じ質量で大嫌いだった。彼の定まらぬ仕事、定まらぬ価値観、事業で大成功をおさめようとしたかと思えば、成功譚になるどころか、明らかに自身の怠慢の故に、多額の借財を残し、その後の人生はバガボンド(vagabond)の生きざまそのものだった。
彼は何を生み出すこともなく、浪費することが自己の仕事であるかのように自由奔放に生き抜いた。たぶん、僕は父の、自由奔放な生きかたに憧れつつも、その自由が他者の犠牲の上に成り立っていることを心の深いところで、子どもながらに感じとっていたのだ、と思う。僕が父を好きであり、かつ嫌いである理由はここに在る。そして、否定しがたく、父の生きかたに抗うように、僕自身の中に埋もれている父と同じバガボンドの血をひたすらに抑え込むようにして、教師という仕事に就いた。教師という仕事は、教育観という側面から見れば自由裁量の通用するそれだが、その一方で、国公立であれば、国の指導方針に、私学であれば、私学の建学の精神とやらに屈伏せざるを得ない仕事である。生活の安定感が得られるにつれて、僕の鬱屈した精神が頭を擡げて来るのを、どうしても抑え込むことが出来なかった。精神の放浪者はどこまでいっても放浪者なのである。それを否定し続けられるはずがない。僕の生に対する抗いは、父への抗いであり、同時に父への屈伏でもあった。
いまだに出入りの激しい人生の途上である。安穏とした生活とはたぶん生涯無縁であろう、と思う。平穏さを求めはしたが、僕の本質がそれを拒否したのである。このままに前進するしかないではないか。観想にもならない観想として、書き遺す。
○推薦図書「リボルバー」 佐藤正午著。光文社文庫。文句のつけようのないおもしろい小説です。佐藤の筆致がさえ渡るプロットの展開に、読者はおいていかれそうになるほどのスピード感溢れる物語に仕上がっています。僕が、過去にこだわったという意味でこの小説を紹介します。この登場人物たる少年は怒りを憶え続けるために、少年を追う男は過去を忘れるために、物語の中で旅立っていきます。ぜひどうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃