ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

無理なんてしなくていいんだな、と思う

2008-07-09 00:38:39 | 観想
○無理なんてしなくていいんだな、と思う

繰り返し書いてきた、僕の過去の抗いの原因をずっと探ってきたが、やっと見出した答は意外なものだった。僕の予測では、僕の辿ってきた過去の文学体験なり、哲学世界への彷徨なりのどこかに、抗いの本質的な根拠があるのだろう、とばかり思ってきた。だから僕はそれを発見するために、ずっともがき苦しんだ。答は見つからぬまま、今日の、いまの時点にまで時は過ぎ去ったのである。焦燥感などはなかったが、自分という存在の意味がつかめず、心の中には空漠感が燻ってはいた。自分という存在理由が見えない、というのは如何にも居心地の悪いものである。否定出来ない事実である。

今日、雑多な物が詰まっている如何にも安っぽいプラスチック製の引き出しの一つの中を、見るともなく見ていたら、古い名刺が何枚か出てきたのである。その中に子ども時代によく遊び、仲の良かった従兄弟の名刺が在った。もう10年数年以上も前、僕の教師時代の末期に大阪の梅田に呼び出して、一緒に食事をした折にもらったものだ。彼はある会社の営業部長に昇進していた。人間とは度し難いもので、素直な喜びと同時に、心の奥底に軽い嫉妬心が疼くのを止めることが出来なかった。教師という職業を選んだときから、出世などというものとは縁を切ったはずだったが、やはり近しい人が他者を動かす地位に昇り詰めていく様を眼前にすると、自分の覚悟とは裏腹に、心は思いがけない反応を見せた。正直驚きのひと言だった。勿論自分自身に驚いていたのである。

そんなことを古い名刺を見ながら空想するかのごとくに思い起こしていたら、唐突に自分が何故教師という仕事などを選んだのか? 何故愛を感じることのないままに絵に描いたような家庭を築き、20年以上も教師生活を営んでいたのか? 教師でありながら、おとなしく教師という役割の中に納まり切れない自分が何故いたのか? そんなことがどっと自分の頭の中を掠めて通り過ぎた。勿論、自分の裡なる抗いの本質も確かに視えた。

僕の抗いの原質は、どのように冷静な視点を挟み入れても、同じ結論に行き着いた。発見したら、それは思いもかけず単純なそれであった。僕の本質はまさに反面教師としての父親と同根であったのである。僕の父親は力がありながら、教育というものに興味を示さず、最後の最後に至るまで、自分の思いを言葉にして紡ぎだすことなどできず、沈黙したまま、精神の彷徨の果てに命尽きた。僕は父のことを好ましく思い、また同時に同じ質量で大嫌いだった。彼の定まらぬ仕事、定まらぬ価値観、事業で大成功をおさめようとしたかと思えば、成功譚になるどころか、明らかに自身の怠慢の故に、多額の借財を残し、その後の人生はバガボンド(vagabond)の生きざまそのものだった。

彼は何を生み出すこともなく、浪費することが自己の仕事であるかのように自由奔放に生き抜いた。たぶん、僕は父の、自由奔放な生きかたに憧れつつも、その自由が他者の犠牲の上に成り立っていることを心の深いところで、子どもながらに感じとっていたのだ、と思う。僕が父を好きであり、かつ嫌いである理由はここに在る。そして、否定しがたく、父の生きかたに抗うように、僕自身の中に埋もれている父と同じバガボンドの血をひたすらに抑え込むようにして、教師という仕事に就いた。教師という仕事は、教育観という側面から見れば自由裁量の通用するそれだが、その一方で、国公立であれば、国の指導方針に、私学であれば、私学の建学の精神とやらに屈伏せざるを得ない仕事である。生活の安定感が得られるにつれて、僕の鬱屈した精神が頭を擡げて来るのを、どうしても抑え込むことが出来なかった。精神の放浪者はどこまでいっても放浪者なのである。それを否定し続けられるはずがない。僕の生に対する抗いは、父への抗いであり、同時に父への屈伏でもあった。

いまだに出入りの激しい人生の途上である。安穏とした生活とはたぶん生涯無縁であろう、と思う。平穏さを求めはしたが、僕の本質がそれを拒否したのである。このままに前進するしかないではないか。観想にもならない観想として、書き遺す。

○推薦図書「リボルバー」 佐藤正午著。光文社文庫。文句のつけようのないおもしろい小説です。佐藤の筆致がさえ渡るプロットの展開に、読者はおいていかれそうになるほどのスピード感溢れる物語に仕上がっています。僕が、過去にこだわったという意味でこの小説を紹介します。この登場人物たる少年は怒りを憶え続けるために、少年を追う男は過去を忘れるために、物語の中で旅立っていきます。ぜひどうぞ。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

柔らかな思想を構築しよう!

2008-07-08 04:55:26 | 哲学
○柔らかな思想を構築しよう!

人が生きていくためにどうしても欠かせないものを挙げるとするなら、僕にとってのそれは考えることである。考えることによって、人それぞれが自身の裡に構築したもの、それが人生観と一般には呼ばれているものでもある。生きているという実感のないままに、危うく息をしている、という人の生のあり方は、人生観そのものにある種の壊れが内在する。つまりは、自分が生きているという意識が希薄なのである。この問題は教養の程度や学歴とは直接には繋がってはいない。如何にすばらしい学歴の持主であれ、自身の身につけた教養を、単なる知識の意匠のごとくに考える人は、世に言うスノッブという俗物根性を肥大させた人間に過ぎない。スノッブと真正の知識人との間には大きな開きがある。スノビズムと人生観とが同一のものになり果てた人間は、人が生きるということの意味が、すでに喪失されているが故に、そのスノビズム自体があくまで俗物的・即物的な価値観をしか生み出し得ないのである。スノッブでさらに金持ちである人間は、日常性に対する退屈感を俗物的な快楽主義という衣に包んで、大切な一日をやり過ごすことになる。世にはびこるあらゆる快楽という、その場凌ぎの遊びに興じることで、生を空費するのである。これがスノビズムの限界性である。

人生を生き抜くという行為に絶望せず、享楽的な一時凌ぎの遊びによって生を粉飾せず、あくまで生を言葉通りに生き抜くということは、やはり人並みの努力ではなし遂げられない、快楽主義とは対極に在るものである。精神の力に磨きをかけ、それを思想という人の生きかたの根幹に据えるためには、自分の脳髄の中に散乱した様々な知識のカケラを拾い集め、それらを一つ一つより高みへと積み上げていく営為を抜きに語れはしない。この姿をギリシャ神話のシジフォスが、重すぎる石を坂の上に押し上げては、その途端に押し上げた石が転がり落ちて来るという、永遠なる苦悩の反復の中から体得していく思想の強固さに例えるとすれば、思想を編み出すことの意味と重さを自覚することはかなり具体的なイメージとなり得るであろう。決して安逸な精神力ではなし得ない、強烈な個性が土台になければ、自分のための、自分が生き抜くに不可欠なる心的エネルギーに満ち溢れた思想など構築されるずがないではないか。

言うまでもなく、思想とは言葉によって構築されるものである。言葉には力があり、その力は言葉の選択の仕方によっては、生のベクトルへも死のベクトルへも向かう可能性を秘めている。死のベクトルへ向かう言葉の多くは美的な表現形式の中に含まれる。しかし、それはあくまで美的な言葉であって、美そのものではない。そうでなければ、美と死とは通底していることになり、浅薄なる審美主義者たちがよく死そのものを、死の意味以上に美化して憚らないような、ある種の粉飾と美的な価値とを混同する誤謬に陥りかねないのは頷ける事実である。角度を換えて言えば、美的なものと死とが同義語であるような場合は、構築した思想そのものが硬直化しているのである。死=美などというアクロバテックな思想の展開は、思想の飛躍以外の何ものでもない。日本文化の底流には、いつもこの種の危うさが潜んでいるのではなかろうか。僕たちはシジフォスのごとき忍耐の末に勝ち取るべき思想を獲得しなければならないのである。

さて、もう一歩突っ込んでおくと、言葉が思想を創るのは必然だが、構築されたそれが硬質で、身動きもとれないような思想であってみれば、その思想には深く抉れた空洞が穿たれていることと同じであり、その思想を形成する言葉からあらゆる柔軟さが失われているのは当然である。このような時点からは、未来に通用する思想は決して構築されることはない。それは敢えて言えば、思想の死を意味するのである。死への誘いとしての思想にもなり得てはいない。思想そのものの死を意味する、と断ぜざるを得ないものである。だからこそ、思想を形づくる言葉の編み方は、あくまで柔軟である必要がある。言葉には、本来言葉そのものの柔軟さが内包されているのである。その意味を見抜けずして、何が思想か? と僕は言いたいのである。生きがたい21世紀が、今後なにほどか若者たちに生きる力を与えることが出来るとするならば、それは、柔らかな言葉で紡ぎだされた柔らかな思想である。そしてその思想にこそ、あくまで生のベクトルを無際限に拡張していける力が備わっているはずである。思想が思想として確立し得ることの意味は、まさにここに在るのではなかろうか? 日常性に輝きが戻ってくる可能性は、柔らかなる思想を構築するプロセスの中に現存しているものではなかろうか?

○推薦図書「悪童日記」 アゴタ・クリストフ著。ハヤカワepi文庫。人間の醜さや哀しさ、世の不条理、非情な現実を目にするたびに、主人公の「ぼくら」はそれを克明に日記に記していきます。戦争が暗い影を落とす中で、「ぼくら」はしたたかに生き抜いていきます。人間の真実を、人間の思想のありようを抉る圧倒的な筆致で、この物語は読者に迫ってきます。お薦めの書です。どうぞ。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

佇んで考えること

2008-07-05 23:49:11 | 観想
○佇んで考えること

人がものごとを考えるとき、その人の個性、その人がおかれた状況、考えるべき内実の違いによって、獲得した思想の現れ方はさまざまだろう、と思う。思考の現れにどのようなバリエーションがあっても何の問題もない、と僕は思う。要は考えることを放棄しない生きかただけが重要な問題なのである。人が考えることをどのような状況であれ、放棄したとすれば、後に残るのは無残な、思想とは無縁の、思考の脱け殻としての、嫉妬、怨念、悔恨、未来への視野遮断等々が残るのは当然である。この時点からはいかなる生産的な思考も生まれ出て来る可能性はない。延々と続く暗夜だけが、眼前に広がっていることになる。

僕は、控えめに言っても、ものを考える人間であった、と自負する。たぶんかなり広い視点で物事を考え詰めた経験が、いまの僕を支えているものと推察する。思想は、その意味において、生きる力そのものである。思想の欠落した、あるいは、思想の脱け殻に閉じこもってしまった人間から紡ぎだされる言葉は、無意味・無価値というジャンルに集約される、と僕は思う。だからこそ、人は考えなければならないのである。考えることを放棄した人間など、金があろうと、地位があろうと、何を持っていようと、いずれは、持っているはずのものさえ、自らの手からすり抜けていくものなのである。少なくとも僕はそのように考えている。僕の思考回路は正しかったと思うが、間違いも確かにあった。僕の最大の欠点は思考が産み落とした形のないアイディアを造形化していく手段にあった。一見、僕は常に前向きであった。後ろなど振り返ったことなどない、と言って過言ではない。前進あるのみ。それが僕の思考の後の行動パターンであった。つまりは、僕においては、考えることと行動することとの隙間がなかった、ということである。このような思考のありようを続けていれば、小さな思考の乱れくらいなら、まだ行動する過程で修正も出来はするが、取り返しのつかない欠陥があるとすれば、すでにはじまった行動は、欠陥が内包する破局に向かってひた走ることになる。たぶん、僕はこのような破局への道のりを幾度も踏んで前進していたのではなかろうか? その意味で、僕の生きかたの中に誤謬が多く見つかるのは必然だ、とも言える。僕にとっては生の総括そのものが、かなりきつい自己分析と自己解剖を伴ったある種の精神的拷問に近いそれになる。その覚悟で僕は自分の生の総括をはじめたのである。

苦悩と同居しているはずの生に対する執着であるのはわかっていた。僕がいま、前進あるのみ、という思考の回路に瑞々しい新たな回路を継ぎ足してやれるとするなら、それは、立ち止まること、あるいは佇むことから産み落とされる新たな価値意識の可能性でしかない、と思う。自分の生のあり方を佇んで考え直すことが、僕に新たな生きかたを開いてくれる格率が高い、と確信している。これまであまりに走り過ぎた。走り過ぎた結果が、挫折でしかなかったこと、挫折が何をもたらしたかのかは、凝縮して言えば、孤独でしかなかった。僕は矢継ぎ早に生み出されて来る思想を後生大事に抱え持ち、ただ自己の人生を走り抜けた。しかし、駆け抜けたところは、ドロ沼の底だった。僕は如何なる意味においても新たな価値観を構築することなど出来ず、ドロ沼から這いだすために、何もかも投げ出すことしか出来はしなかった。僕はその結果、思想を創り出す力も、そこから派生する行動力も、同時に失った。喪失感が、僕のこの10数年近い年月を支配した。もし、それでも細々とした思想のかけらなりとも生み出したとすれば、それは絶望の果てに嘔吐するように吐き出した汚れた言葉の端くれに過ぎない、と思う。

いま、僕はたぶん間違いはないと思うが、全ての過去の遺物たる思想の残骸までも嘔吐するように投げ捨てた、と感じる。全てがクリアーになった、とまでは言わないが、かなりの受容力が立ち戻っている。そのことだけは確かに実感できる。この事実を、僕はいま、佇んで考えている途上である。何かが生まれる可能性がある、とも思う。まるで見当違いの道を歩みはじめているやも知れぬが、いまは、これが僕の行き着いた果ての結論である。

○推薦図書「浄土」町田 康著。集英社文庫。全ての短編が、人間の本音だけで出来ているような物語です。おもしろくも、また人生の切なさも同時に読みながら感じ取ることの出来る書です。お薦めです。どうぞ。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

人生は挫折しつつ生きるのだ、という論理はあるにせよ・・・

2008-07-05 02:26:13 | 観想
○人生は挫折しつつ生きるのだ、という論理はあるにせよ・・・

人は生きているかぎり、常に挫折という二文字の恐怖に晒されて生きていかねばならない。とくに順風満帆たる生を謳歌しているかのごとき人々にとっては、この挫折という言葉が時折頭の中を掠め去っては、その度に挫折なき生を確認しては、ホッと胸をなで降ろすのかも知れない。経済的な成功者たちの中に、意外に新興宗教に嵌まっている人々が多いのも何となく頷ける気がする。たぶん、彼らだって必死なのだ、と思う。挫折が人の精神を強靱にする、などという発想を僕は受け入れない。むしろ挫折の経験が多ければ多いほどに、その人の心の傷口は広がり、血を流し、場合によっては化膿して醜い膿を垂れ流す。ある意味において、挫折は人の心を荒廃させる。もし、挫折体験が人を強く見せることがあるとするなら、荒廃し尽くした心の傷口に瘡蓋が出来、瘡蓋の固さが強靱さを装わせているもの、と推察する。しかし、いずれにしても瘡蓋はあくまで瘡蓋なのであって、いずれは剥がれ去る。剥がれ去った後には、痛々しいほどのか弱い皮膚がその姿を現しているだけである。挫折体験はいっときの仮初めの精神の強靱さを仄めかしはするが、やがては挫折という敗北を内包した惨めな結果が待ち受けているだけである。

もし、挫折がもたらす表層的な結果論を素朴に信じる人がいれば、たとえば僕のような存在と接触してみればよろしい。僕の人生においては、挫折のなかった時代の方が圧倒的に少ないのである。さて、僕は挫折体験によって、精神の強靱さを勝ち得たのであろうか? 答は断然否、である。僕は挫折する度に自分の限界点を引き下げることによって、何とか生き抜いてきたに過ぎない。挫折が自分の命さえ奪おうとした。生きることの怖さも知らず、無知であるが故の、根拠のない勇気を唯一の拠り所としていた青年の頃の僕は、いまとなっては、すでに度重なる挫折体験によって、精神的強靱さの次元が下がり、さらに忍耐の限界点が下がり、全ての価値を下げた自分を嫌悪する間はまだそれでよかった、と思う。だが、そのプロセスで徐々に自己の裡から嫌悪感すら喪失していったのである。僕は、くだらない人間になってしまった、と心底思う。もう既に自分の可能性は閉じ切った、と素直に告白しておく。

大きな権威に対する抗いの無意味さについても、すでにその総括を終えた。僕の中には、いまや如何なる意味においても、立ちはだかる人生の壁を乗り越えるだけの余力はない。ただ、僕はその壁の前で立ち止まり、深く頭を垂れ、考え込むばかりである。そこに生の躍動感など一切生まれ出ては来ない。これが僕が行き着いた果ての果ての、60歳を迎えてしまった現在の正直な観想である。屈強なる精神の持主からは、そのような人間にはすでに生きる価値などなかろうから、早急に人生という劇場から去るべきである、というご批判を頂くだろうことは分かり過ぎるほどに分かっている。僕はそのことに気づかぬほどには、まだ心の繊細さを失ってはいない。恐らくは、僕という存在は、去り行くべき者の一人なのであろう。よく諒解している。

僕が生をまだ何とか保っている理由は一つしかない。それはとても小さな希望である。小さいが、僕自身はその小ささにこそ残りの人生の意味を懸けようとしているのではなかろうか、と思う。人生の不可能性の壁の前で立ち尽くし、頭を垂れて、ひたすら考え込むことの意味。ここに僕が恐らくはこれまでとりこぼしてきた生のファクターが残されているような気がする。僕はいまの直感をあくまで信じたい、と思う。ご批判は受ける。今日の観想である。

○推薦図書「神さまからひと言」 萩原 浩著。光文社文庫。サラリーマンとしては挫折の連続に見えるハードな日々を生きる主人公の、生に対する奮闘ぶりを痛快な小説世界の中で楽しもうではありませんか? ぜひどうぞ。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

繋がっている、ということについて考える

2008-07-04 02:05:00 | 観想
○繋がっている、ということについて考える

愛という、繋がりの概念は如何にも分かりにくいものである。僕などはかなり特殊な環境に育ってきて、小さな頃はそれなりの縁戚関係もあったが、60歳を迎えてしまった今日、ふっと、まわりを見渡してみると、かつては生きている限り、血縁とは切ろうとしても断ち切れないものとして、かなり鬱陶しい存在だったくらいなのに、いまの僕には一切のそれがないのである。あたふたと生きているうちに、全てが断ち切れてしまった。繋がっていた母親と、亡くなった父親の妹夫婦とも、感情的な行き違いがあり、絶縁した。自分の最も愛した二人の息子たちも、いまや音信不通である。人間関係が血の繋がりがあるからと言って、濃密であるかどうかは別にして、観念的に僕はこの世界でたった一人ぼっちで放り出された存在として、自分のことを認識せざるを得なくなった。こういう事態になるとは予測できはしなかった。正直に告白すると、いま僕は世界と自己とが対峙している、という意味合いにおいて、孤独である。あるいは孤立した存在である、と言わざるを得ない。

人間とはこの世界に一人で生まれ、一人で死んでゆく、とよく言われるが、死までまだ少し猶予があるだろう自分が、すでにたった一人ぼっちなのである。繋がりの意味とは、それが愛であれ、嫌悪であれ、繋がっている関係性としての血縁関係が現存することが、根底になければならないはずだ。それが自分の存在意義を認識するための、いかに大きなファクターになり得ているか、ということの意味が、痛いほどに身に滲み渡るようになった昨今である。

人は自分があらゆる血縁から断ち切られるということなど想像しないものだ。どれほど過酷な親子関係であれ、親族関係であれ、それらが自分と関わっていることが当然である、とたぶん殆どの人々は思っているに相違ない。確かに、繋がっていることの痛みも在る。繋がっている苦しみも勿論僕は否定などしない。しかし、繋がっていればこそ、人は自分が他者と関わっていることを認識できるのではなかろうか? 血の通った他者性を諒解できるのも、血縁の繋がりが意識的であれ、無意識的であれ、それが自分の存在の不可欠な一部だという認識があるからこその繋がりとしての結果論ではなかろうか? もしも、他者との関わりを、関わろうとする他者から拒絶されたにせよ、繋がりという認識を裡に抱いている人々にとっては、それは確かに痛みの伴う結果ではあるだろうが、必ず立ち直れもするのである。繋がりを意識化できる、ということは、心の中に他者と向き合うエネルギーを予め溜め込んでおけるということでもある。このような心的構造性を意識していない人が、他者との関係性にほつれを生じたときに、意味もなく騒ぎ出すのではないか? あるいは要らぬ絶望感にうちひしがれているふうを装うのではなかろうか? その根底にあるのは、甘えの心的構造性に過ぎない、というのに。

世界という大きな器の中で、自分一個が、人間として生きねばならない、という過酷さに直面したときの、底なしの孤独感と浮遊感を経験してみるとよい。そのとき、人間とは如何に頼りなげな、切ない、か弱き存在であるかが分かる。甘えることのできる家族や親族に囲まれつつ、誰それとの絆が切れた、と嘆いているような人は、結局のところ、人としての哀しみや慨嘆の意味など何一つ分かってはいないのである。甘えきった心からはいかなる意味においても、生きるエネルギー、ましてや、創造性に満ち溢れた心的エネルギーなど、どこからも派生してくる余地のないものではなかろうか? 僕は何も血縁も含めた繋がりを断ち切れ、と言っているのではない。それらが欠落している僕はむしろ人間としては欠陥者である。だからこそ、僕の場合は、生きるために無の中から這い上がるしか方途がないだけのことなのである。そこに何がしかの創造性や言葉を紡ぎだす力があるとするなら、それはかなりの犠牲と引き換えにして会得したものに過ぎないのであって、ほんものの才などではない。他者との繋がりのない孤独の中から、手を伸ばして崖っぷちにぶら下がっている存在に過ぎないのである。

むしろ、自然な血縁を持ち、他者との繋がりを大切にし、そういう意識のもとで、思索され、思索の結果、紡ぎ出される言葉こそが、ほんものの創造物ではなかろうか? 僕はそう思う。そういう視点で自分のことを捉えなおせば、僕の存在などは、どこまでも行ってもほんものとは程遠いものではないか、と思う。無念だが、そう規定せざるを得ない。今日の観想である。

○推薦図書「野の風」 辻内 智貴著。小学間刊。壊れかけた家族に、やさしい風が吹くような、切ないですが、心温まる物語です。家族の再生の物語でもあります。ぜひどうぞ。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

尾崎 豊という意味

2008-07-02 22:21:32 | Weblog
○尾崎 豊という意味

尾崎 豊という夭逝の天才歌手の存在を知ったのは、尾崎がすでに亡くなってからのことであった。尾崎に関する知識など何一つ知らないアホなおっさんに過ぎなかった僕は、40歳を幾つか過ぎたある日、尾崎 豊の特番を偶然観るともなしに観ることになったのである。それが尾崎 豊という天才歌手を知るキッカケとなった。まさに僕にとっては偶然のなせる業であり、その特番の中の尾崎のイメージと彼の歌の絶妙なるマッチングは、おっさんである僕の心を大きく揺るがせた。その瞬時、僕は強烈な尾崎のファンになった。遅まきながらの出会いであったが、それでもたぶんかなり尾崎の深い理解者にはなり得た、と思う。

尾崎 豊という天才の悲劇は、尾崎の熱烈なるファンにこそ、尾崎の本質が理解されなかった、ということに集約される、と僕は確信する。尾崎の歌のメッセージ性には確かに大人社会に対する強烈な抗いが含まれてはいる。抑圧された尾崎と同時代人である若者の殆どが、大人たちに対する表層的には同種の反抗の芽を、体中に漲らせていたと想像した方が自然であろう。尾崎は、このような若者たちの代弁者としての抗いを、自己の裡に取り込まざるを得なかったのではなかったか? まさに、この点にこそ尾崎の悲劇の本質が在り、その過激な装いのために、尾崎は手を染める必要のなかった違法薬物の力を借りて、あるいは過剰なる酒の力に頼って、自分の中の、本来は尾崎にとっては単なる一要素であったはずの、大人社会に対するメッセージ性を無理に自己の中で膨張させつつ、尾崎信奉者たちに吐き出し続けたのではなかろうか? その意味において、尾崎にとっての酒も薬も、彼の本意としないものを創り出すための起爆剤に過ぎなかったのではなかろうか? 尾崎は、尾崎信奉者たちによって勝手に創られたイメージを増幅させ、強靱にさせるために、酒と薬の犠牲になったのだ、と僕は思う。いま、もしいまだ尾崎もどきの歌を歌って憚らないファンたちがいるとするなら、彼らこそが、尾崎 豊という天才の命を縮じめた張本人たちである。

尾崎の歌は、正確に言うと、歌そのものではない。歌の形式を借りた、日常性という退屈感の破壊と、その再構築が、尾崎の存在理由である。しかし、もっと重要な問題は、尾崎は、僕たち凡庸なる日常生活者に対して、生における美しさとは一体どのようなものなのか?ということに自己の試みの全てを懸けた。さらに生の泥沼の底にキラリと光輝くように眠っている美の原石に磨きをかけるかのごとき、繊細で手間隙のかかる芸術的試みを披瀝させてもみせたのだ、と僕は思う。

尾崎 豊という天才的才能が、凡庸なる生という水たまりの中に落としてみせた鮮やかすぎる一条の光のごときもの、それが、尾崎のめざした美意識そのものではなかったか、と思う。<OH MY LITTLE GIRL>という美しい曲のイントロで、尾崎は次のように歌った。「こんなにも騒がしい街並にたたずむ君は、とても小さくとっても寒がりで、泣きむしな女の子さ」と。尾崎は、この少女への掛け値なしの、素朴で、純粋なる愛の示し方を美しいメロディにのせて歌ってみせる。その愛がたとえ幼くてもよいのである。幼くともそこに在るのは、日常の雑多な要素を全てはぎ取った後の、原質だけで存在し続けるような愛のあり方である。これを美と呼ばずして何を美意識と規定できるであろうか?

尾崎が表現したかったのは、日常性を破壊するほどの力を備えた美という存在だった、と僕は確信して疑わない。<FORGET-ME-NOT>の一節。「行くあてもない街角にたたずみ、君に口づけても・・・幸福せかい 狂った街では、二人のこの愛さえうつろい踏みにじられる」という尾崎の美しすぎる絶叫の中のいったいどこに、反社会的な要素など存在し得えようか? 尾崎はただ優しい、美しい行為を自分の旋律にのせて表現しただけなのである。<15の夜>や<卒業>は、最も尾崎を誤解させやすい美しい曲である。ここから、大人社会への抗いのメッセージ性をしか汲み取れなかった多くのエセ尾崎ファンが尾崎の死を早めたのだ、と思う。尾崎はこの二曲においても、抗いよりは、日常性という虚飾から見出し得る美を僕たちに示してみせたのではなかったか? <15の夜>で「盗んだバイクで走り出す、行き先も解らぬまま 暗い夜の帳の中へ・・・・・誰にも縛られたくない、と逃げ込んだこの夜に、自由になれた気がした15の夜」と尾崎は美しい歌声で絶叫する。尾崎は決して「自由になった15の夜」とは歌わない。あくまで「自由になれた気がした15の夜」と歌わざるを得なかったのである。抗いだけのメッセージ性を狙うならば、絶対にこのようには締めくくりはしない。抗っても抗い切れない自分がいるが、それでも自分に正直に生き抜こうとする心の純真さ、美しさに満ち溢れているではないか! <卒業>こそは誤解の極北に在る名曲である。尾崎の歌う「支配からの卒業」というリフレインは、あるいは「支配からの卒業」や「闘いからの卒業」という絶叫は、大人社会への反抗のように見えて、実はもっと視点が広く、日常性に隠れた、その底の底に在る美しきものに対する憧憬が尾崎のテーマでなくて何であろう?

尾崎 豊は、あくまでその美し過ぎる歌声にのせて、人が喪失してはならぬもの、人生の中から掘り起こしておくべき大切な美しさ、それらを愛という表現形式の中に散りばめて、僕たちにやさしく語りかけているではないか。尾崎の絶叫は、あくまで、静かな語りかけの延長線上に在るものだ、と僕は思う。今日の観想である。

○推薦CD 尾崎 豊が亡くなったのは1992年のことだ、と記憶しています。いまの青年たちに尾崎の存在を知らない人たちが多いのは当然でしょう。尾崎を初めて聴く方には、『愛すべきものすべてに』をお薦めしますが、その後にリリースされた『街路樹』や『誕生』もぜひお聞きのがしなく。

京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

教育と愛と挫折と芽生えつつある未来について語ろう、と思う

2008-07-01 23:04:44 | 観想
○教育と愛と挫折と芽生えつつある未来について語ろう、と思う

世間一般の常識においては、僕はかつて教育者の一人であった、ということになっている。教師時代の自分について触れるのは、新たな価値観を発見しない限り、今日が最後である。また、そのように総括したい、と思う。

僕がなぜ教師という職業に徹し切れなかったのか? という理由については、すでに書いた。ただ、その理由の殆どは外延的・周縁的なるそれである。自分が教師でありながら、ついに教師になりきれなかった最も核心的な理由は、精神的な意味における自分の裡なる不全感と、それが招いた、屈折した成果主義がもたらした残り滓のような教育活動のドタバタ劇である。少し厚顔に言うと、僕は決して不真面目な教師ではなかった、と自負している。むしろ僕の脳髄の中は、たぶん誰にも劣らぬほどの、教育に対する強烈な向上心に満ち満ちていたとさえ言える。さらに言うと、そのエネルギーが生み出した結果としての、僕の言動には、生徒が受けざるを得なかった不幸への限りない共感と、その克服に向けての援助、生徒の点数主義という表層的な学力? ではない、生きる力に直結すべき学力、あるいは生きる力、生徒の他者に対する優しい眼差しの育成、他者と協力することの大切さとその意等々が、間違いなく現れていた、と確信する。恐らくは、これだけの要素が僕の裡なる掛け値なしの確信になっていたら、僕は抗いがたいほどの不全感に悩まされることなどなかったはずである。あるいはまた、僕の視野の中に、世のあらゆる権威に対する怨念にも似た感情が入って来なければ、僕は教師という仕事を全う出来たのかも知れない。

常軌を逸した政治への関わりゆえに、自分の中に根づいて離れなくなった反抗の論理、あらゆる権威に対する抗いの精神的エネルギーが、いや言葉を換えれば、僕の過去の総体が、僕に教師であり続けることへの不全感と不可能性とを、否応なく僕の教育思想の有り様に多大な影響を与えずにはおかなかった。たぶん僕は自分の能力の限界点をとっくに超えたところで、さらなる宗教という権威に対する憎悪を深めていったのだ、と思う。いや、宗教という心の救いがその名に値するあり方を存分に発揮しているのであれば、僕はむしろ宗教という存在を積極的に認め、その宗教的影響力でさえ、教育の論理の中に組入れることすら出来たのではなかったか? と思う。だが、少なくとも、僕の関わった宗教は、宗教という名に値しないどころか、その根っこたる宗教思想自体が腐り果てていた。

僕は23年という永きに渡る教師時代に、吝嗇家、好色家以外の僧侶たちと出会ったことがない。仏教が宗教本来の救済の概念を捨て、単に様式化された葬式仏教に成り下がった醜悪な様は、自分の目を塞ごうとしても、塞ぎ切れないほどに腐れ果て、その腐食の深度は僕自身の教育の論理さえ呑み込んでしまいかねないものであった。眠っていたはずの、裡なる権威に対する命がけの反抗の力が、僕自身を教育の世界から逸脱させ始めたのである。僕は教師という仕事を実質的に放棄した。僕は自分自身が、教師という名をかりた、かつての極左運動家としての自己に変質していくのを、止めることなど出来はしなかったのである。教育者としての敗北は、このときすでに決定的になっていた、と思う。敗北を意識した上での抗いは、たぶん僕が教師という仕事を初めて間もなく訪れてきた期待せざる来客であった。僕のその後のあらゆる教育的なる言動の底には、宗教的権威に対する鋭角的な攻撃の火種が燻って消えることがなかったのである。僕は教師ではあり得なくなっていた。教師という安穏な生活の論理も、自分にとって欠くことの出来なかった二人の息子たちの存在も、僕を押し止める力にはなり得なかった。孤独で、寒々とした荒涼たる風景が眼前に広がっていた。僕が教師という仕事を追われるのは時間の問題に過ぎなかった。

いまとなっては、その当時の自分に何が決定的に欠落していたのかがよく分かる。僕は結局、自分の思想には忠実であったのかも知れないが、目の前の生徒たちに対する深い愛が希薄だったのだろう、と思う。眼前の、救いを求めている存在たる生徒たちも、自分の息子たちも、僕の視野から外れていった。僕は遠くの、手の届くはずのない、巨悪にしか感応しなくなっていた、と思う。目の前の、将来の可能性に満ちた生徒という存在が見えず、愛すべき対象を愛せなくなった教師など如何ほどの価値があろうか? 眼前の生徒を救い、受容し、生きる力を与え、その一方で巨悪に立ち向かうという力量が、僕にはなかったのではなかったか? 愛しつつ、反抗すべき思想の力が欠落していたのではなかったか? 巨悪に対抗しつつ、最も大切な、愛するという意味を喪失していったのではなかったか? そうでなければ、僕が学校を追放されようとしているときに、自分の仲間であると信じて疑わなかった同僚たちが去っていくはずがないではないか? 間違いなく、僕は自己の裡なる反抗のためのエネルギーを蓄えるために、それとは意識せずに他者を切り捨ててきたのである。まさに身から出た錆である。教師を追われてからずっと考え続けてきて気づいた観想である。もう、この種のことは書くまい。未来を見据えて生きていこう、と思う。心の底からの想いである。ウソはない。

京都カウンセリングルーム
長野安晃