久しぶりの更新です。忙しい日々が続き、いただいたコメントのお返しも出来ず大変失礼しておりました。今日は、田舎親爺の友人、都会親爺のレポートをお届けします。
田舎親爺の友人、都会親爺が津の海、ヨットハーバー辺りを散歩していると言う。
田舎親爺には、懐かしい所、高校時代から15年もお世話になった町、善きにつけ、悪きにつけ、思い出が詰まった町。
都会親爺は昔から津の海の近く柳山で育った生粋の地元民。
その、都会親爺も転勤族で、まだ津に戻ってそう長くない。その都会親爺の散歩道は、津、阿漕浦海岸通り、ヨットハーバー、おしゃれなレストランも建ち並ぶ。田舎親爺も時間があると、よく海を見に行った阿漕海岸通り。懐かしく、都会親爺に頼んでレポートしてもらった。遠浅で綺麗な津の海のレポ、是非ご覧ください。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/47/6494b37962334a33e8ea947af28e49e9.jpg)
この近くに、中部国際空港セントレアへの近道、空港アクセス港、津なぎさまちがあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/ba/b655c23485de587ca8b44858c97b6483.jpg)
右下、阿漕塚。阿漕平治で有名です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/1f/ad8d841ad852b60ec8fa6c01199320b9.jpg)
左上、おしゃれな洋菓子屋さん『T2』、右上『高虎ドッグ』
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/1b/63aa2b59e7e3bc45d7eeafe1940cf5ea.jpg)
阿漕塚の由来
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/76/9813240047cdafd16571183ed10e1872.jpg)
阿漕平治、地元伝説。孝行平治の話を伝える阿漕塚、孝行平治の話は、今も受け継がれています。
少し長いお話ですが、よろしければお付き合い下さい。
むかし、阿漕(あこぎ)の浜に漁師の平治(へいじ)がおかやんとすんどった。
ある時、おかやんが病気になってな、
「平治、すまんなぁ、じっきにようなるでな」
と、言うたんやけど、おかやんは、ようなるどころか日に日にやせていくばっかやった。
平治は、心配でどうしようもなく、うろうろ歩いとると、浜におったおじやんが、
「平治よ。おまえんとこのおかやんの病気には、やがらが一番、やがらしかないのう。せやけど、やがらは阿漕浦(あこぎうら)やないとおらんでなあ」
と教えてくれたんや。やがらっちゅうのは、細い体で矢が飛んでくみたいに泳ぐ魚でな、阿漕浦におって、他んとこにはめったにおらんのや。
ところが阿漕浦は、お伊勢さんにささげる魚を獲(と)る海でな、漁師が勝手に入れん海や。このおきてを破ったら、むしろでのり巻(ま)きみたいに巻かれて、生きたまんま海へしずめられることになっとる。
「阿漕のやがらか…」
どうしたもんかと思いなやみながら、うちに帰ると、おかやんが部屋のすみにうずくまり、
「はぁ、はぁ、はぁ」
って荒(あら)い息で苦しんどった。
「おかやん、おかやん」
平治はおろおろするばっかり。どうすることもできんかった。
その晩、平治は心を決めてこっそり舟(ふね)を出した。入ってはならん阿漕浦に入って網(あみ)を打ったんや。一回、二回……暗い海から鈍(にぶ)う光るやがらがあがってきた。平治はふるえる手でやがらをつかむと、うちにもって帰った。
次の朝、
「おかやん、かげんはどうや朝ごはんやでえ」
おかやんはやがらをうまそうに食べた。やがらのおかげか、体もようなっていくみたいやった。平治はそれがうれして、やがらがのうなると、また阿漕浦に舟出したんや。 そんな夜のことや。何べん網を打ってもやがらがかかってこん。
「こんどこそ」
と網を打ったとき、なんやら波の向こうに灯りが見える。闇をすかしてよう見ると、役人の舟が浜から出てくるやないか。
平治はなんもかも捨てて、舟をこいで、こいで、暗闇の海をにげかえった。
夜が明けると、役人が平治をつかまえに来た。手には平治の菅笠(すげがさ)を持っとった。あん時、あわててにげたもんで笠落としてしもたんや。
平治は、おきてどおりにむしろに巻かれて阿漕浦に沈(しず)められた。おかやんもじっきに死んでしもた。
それからさ、何日もせんうちにな、真夜中から
ザザーッ、ザザーッ、
と網打つ音がずーっと聞こえとった。
「昨日の晩、阿漕浦から人の泣(な)き声聞こえてきてなあ、もう、うちねれへんだわ」
なんちゅう話が広がってな、そこらの人は
「網打っとるの、平治やろ。まんだやがらをさがしとんのやろ。気のどくになあ」
「平治のおかやんが泣いとんのとちゃうやろか」
と言いおうた。そのうち泣き声やら網の音やらを聞いた者(もん)が病気になってな、みんなえらい困(こま)ったわ。
ところでな、阿漕の上宮寺(じょうぐうじ)に、平治が何かと頼りにしていた西信津師(さいしんりっし)っちゅう坊(ぼう)さんがおらんした。この坊さんの夢に平治があらわれて、
「おれ、おかやんのためにきまり破っておかやんより先に死んでしもた。親より先に死ぬなんて一番の親不孝や。その罪であの世にも行かれん。どうぞ、坊さんのお力で成仏させてくだされ。お礼に家(うち)の仏さん、今は柳山の知り合いの家にあるんやけどお寺へ納(おさ)めますで」
不思議に思った坊さんが柳山にあるその家へ行ってみると、ちゃあんと夢に出てきた仏さんがあったんや。坊さんは、平治の沈められた浜の石を拾(ひら)って、お経(きょう)の一文字ずつを写して海へおさめると、網打つ音も泣き声もやんで、病気の人もようならんしたと。
みんなは、平治のために塚(つか)作ってな、平治の話を語り伝えたんや。
そいでな今でも平治盆(へいじぼん)いうて、八月の十六日にさ、上宮寺の坊さんがお参りしてな、盆踊り(ぼんおどり)もあるんやに。
出典:三重県
やがら
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/00/e60b3f2c291b3ae447e35526d7263102.jpg)
出典:ウィキペディア
田舎親爺の友人、都会親爺が津の海、ヨットハーバー辺りを散歩していると言う。
田舎親爺には、懐かしい所、高校時代から15年もお世話になった町、善きにつけ、悪きにつけ、思い出が詰まった町。
都会親爺は昔から津の海の近く柳山で育った生粋の地元民。
その、都会親爺も転勤族で、まだ津に戻ってそう長くない。その都会親爺の散歩道は、津、阿漕浦海岸通り、ヨットハーバー、おしゃれなレストランも建ち並ぶ。田舎親爺も時間があると、よく海を見に行った阿漕海岸通り。懐かしく、都会親爺に頼んでレポートしてもらった。遠浅で綺麗な津の海のレポ、是非ご覧ください。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/47/6494b37962334a33e8ea947af28e49e9.jpg)
この近くに、中部国際空港セントレアへの近道、空港アクセス港、津なぎさまちがあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/ba/b655c23485de587ca8b44858c97b6483.jpg)
右下、阿漕塚。阿漕平治で有名です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/1f/ad8d841ad852b60ec8fa6c01199320b9.jpg)
左上、おしゃれな洋菓子屋さん『T2』、右上『高虎ドッグ』
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/1b/63aa2b59e7e3bc45d7eeafe1940cf5ea.jpg)
阿漕塚の由来
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/76/9813240047cdafd16571183ed10e1872.jpg)
阿漕平治、地元伝説。孝行平治の話を伝える阿漕塚、孝行平治の話は、今も受け継がれています。
少し長いお話ですが、よろしければお付き合い下さい。
むかし、阿漕(あこぎ)の浜に漁師の平治(へいじ)がおかやんとすんどった。
ある時、おかやんが病気になってな、
「平治、すまんなぁ、じっきにようなるでな」
と、言うたんやけど、おかやんは、ようなるどころか日に日にやせていくばっかやった。
平治は、心配でどうしようもなく、うろうろ歩いとると、浜におったおじやんが、
「平治よ。おまえんとこのおかやんの病気には、やがらが一番、やがらしかないのう。せやけど、やがらは阿漕浦(あこぎうら)やないとおらんでなあ」
と教えてくれたんや。やがらっちゅうのは、細い体で矢が飛んでくみたいに泳ぐ魚でな、阿漕浦におって、他んとこにはめったにおらんのや。
ところが阿漕浦は、お伊勢さんにささげる魚を獲(と)る海でな、漁師が勝手に入れん海や。このおきてを破ったら、むしろでのり巻(ま)きみたいに巻かれて、生きたまんま海へしずめられることになっとる。
「阿漕のやがらか…」
どうしたもんかと思いなやみながら、うちに帰ると、おかやんが部屋のすみにうずくまり、
「はぁ、はぁ、はぁ」
って荒(あら)い息で苦しんどった。
「おかやん、おかやん」
平治はおろおろするばっかり。どうすることもできんかった。
その晩、平治は心を決めてこっそり舟(ふね)を出した。入ってはならん阿漕浦に入って網(あみ)を打ったんや。一回、二回……暗い海から鈍(にぶ)う光るやがらがあがってきた。平治はふるえる手でやがらをつかむと、うちにもって帰った。
次の朝、
「おかやん、かげんはどうや朝ごはんやでえ」
おかやんはやがらをうまそうに食べた。やがらのおかげか、体もようなっていくみたいやった。平治はそれがうれして、やがらがのうなると、また阿漕浦に舟出したんや。 そんな夜のことや。何べん網を打ってもやがらがかかってこん。
「こんどこそ」
と網を打ったとき、なんやら波の向こうに灯りが見える。闇をすかしてよう見ると、役人の舟が浜から出てくるやないか。
平治はなんもかも捨てて、舟をこいで、こいで、暗闇の海をにげかえった。
夜が明けると、役人が平治をつかまえに来た。手には平治の菅笠(すげがさ)を持っとった。あん時、あわててにげたもんで笠落としてしもたんや。
平治は、おきてどおりにむしろに巻かれて阿漕浦に沈(しず)められた。おかやんもじっきに死んでしもた。
それからさ、何日もせんうちにな、真夜中から
ザザーッ、ザザーッ、
と網打つ音がずーっと聞こえとった。
「昨日の晩、阿漕浦から人の泣(な)き声聞こえてきてなあ、もう、うちねれへんだわ」
なんちゅう話が広がってな、そこらの人は
「網打っとるの、平治やろ。まんだやがらをさがしとんのやろ。気のどくになあ」
「平治のおかやんが泣いとんのとちゃうやろか」
と言いおうた。そのうち泣き声やら網の音やらを聞いた者(もん)が病気になってな、みんなえらい困(こま)ったわ。
ところでな、阿漕の上宮寺(じょうぐうじ)に、平治が何かと頼りにしていた西信津師(さいしんりっし)っちゅう坊(ぼう)さんがおらんした。この坊さんの夢に平治があらわれて、
「おれ、おかやんのためにきまり破っておかやんより先に死んでしもた。親より先に死ぬなんて一番の親不孝や。その罪であの世にも行かれん。どうぞ、坊さんのお力で成仏させてくだされ。お礼に家(うち)の仏さん、今は柳山の知り合いの家にあるんやけどお寺へ納(おさ)めますで」
不思議に思った坊さんが柳山にあるその家へ行ってみると、ちゃあんと夢に出てきた仏さんがあったんや。坊さんは、平治の沈められた浜の石を拾(ひら)って、お経(きょう)の一文字ずつを写して海へおさめると、網打つ音も泣き声もやんで、病気の人もようならんしたと。
みんなは、平治のために塚(つか)作ってな、平治の話を語り伝えたんや。
そいでな今でも平治盆(へいじぼん)いうて、八月の十六日にさ、上宮寺の坊さんがお参りしてな、盆踊り(ぼんおどり)もあるんやに。
出典:三重県
やがら
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出典:ウィキペディア