古文書に親しむ

古文書の初歩の学習

第十一章・濱着口上書終了にあたって

2012年08月20日 07時40分36秒 | 古文書の初歩

 江戸時代、日本型の和船は甲板(デッキ)の無いのが普通で、西洋型の船舶との大きな違いの一つでした。荷物をどのように積み重ねたのか分かりませんが、台風(時化・シケ)に遭った時、甲板が無いので浸水を防ぐ事が出来ず、荒波がどんどん船内へ入り込みます。その分沈没の危険が大きかった事になります。

 更にエンジンが無く、帆船ですからすべて風任せ、天気予報や気圧配置など無縁で、出港して見なければ分からない航海でした。でも昔の船頭や漁師は、多年の経験から天気の流れを読む事はある程度は出来たと思います。本文でも、御糺しの中で、「其の方ども、多年船乗り渡世の職業でありながら、天気をも見定めず出帆した。」という言葉も有る様に、無謀なところがあったのかも知れません。

 本文書の初めの部分は、兵庫県御影の嘉納屋弥兵衛所有の廻船が、増十郎を船長として、灘の酒や雑貨等を積み込んで、十月十三日、船員十六人で江戸へ向けて神戸を出帆。同十六日三重県尾鷲市九木浦に入港、たまたま追い風が吹かず、二十一日までそこに滞留。夕方西風が吹き始めたので出港して間もなく、強い北風に変わり三重県の沖合遠く流され、だんだんと時化模様になり、西向きの潮流早く、波も高くなり舟の左舷が破損。荷物は右舷に片寄り、船内に海水も浸入、上部の積み荷は四・五百駄も海中へ崩れ込み、船員一同精根こめて働いたが、時化は烈しくなるばかりで、沈没の危険も生じたため、食料や残りの積み荷も海中へ投げ捨て、船足を軽くして沈没だけは免れようと努めました。

 二十二日東風になり、和歌山県沖まで吹き戻され、太地浦辺りまで来たが港に近づけず、そのまま大島の樫野崎辺りまで近づいたので、救助合図の旗を掲げ、助けの漕ぎ船により大嶋浦に入港出来た。村の役人によりくわしく事情を問い糺され、以上の通り説明し、残りの荷物の検査も受け、封印された。何卒宜しくお調べ願い上げますと言う陳述書で、この様な遭難した船の船頭が、入港した港の役人に「不正等は御座いません」と言葉で言って、それを文書にして、港の船宿の主に保証人になって貰って提出したのが「濱着口上書」です。

 口上は口頭で述べる事で、その内容を文書にしたものが口上書になります。 口上書は船長と舵取りの連名で、船宿主人が保証人として村の役人(庄屋)に提出します。役人から更に大庄屋に提出します。

 二番目の文書は、村の役人から、神戸の荷主や積み問屋に宛てた通知書で、飛脚を雇って急報した文書です。三番目の文書は、役人の尋問書で、特に遭難の前、九木浦に四・五日滞船した事が怪しいと見ている様に感じられます。いずれも第一番目の文書と内容に大差はありません。同じ内容の文書を、繰り返し読むのは無駄かも知れませんが、辛抱してお付き合い戴き有り難うございました。

 こういう口上書というシステムが出来ていたと言う事は、時化に遭って積み荷を捨てたとウソを言って、横流しをし不当の利益を得る船頭も居たのかも知れません。

 当時の運搬船は、江戸・大坂間を定期的に運航した「檜垣廻船」『ひがきかいせん』というのが、幕府・諸藩の御用達しとして繁栄し、また民間では「樽廻船」『たるかいせん』が活躍しました。酒樽を運んだ事から、この名前が付いたと言うことです。本書の船も「樽廻船」かも分かりません。日本海~蝦夷方面は「北前船」『きたまえぶね』が有名です。

 紀伊国屋文左衛門は、荒天の中、紀州のミカンを江戸に運び、莫大な利益を得たと言う伝説になっています。

この古文書は、字も上手で保存も比較的良く、同じ内容が何度も繰り返し出ますので、学習としては、格好の教材と言えます。

【第十一章終わり】


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