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かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 153 ネパール⑤

2025-04-09 18:48:43 | 短歌の鑑賞

 ポカラからジョムソンに飛ぶ小型機

 隣の男性は日本に留学経験のある現地のお医者さん

小さな飛行機は怖いですかと日本語で話しかけられ、

何処に坐るといちばん山々がよく見えるか教えてくれた

 

客席から操縦席が見える。有視界飛行で、危険な山岳地帯を飛ぶ

このラインの操縦士は世界一腕が良いのだとか。

女性乗務員にちぎった綿を渡され、何かと思ったら耳栓だった。

 

2025年度版 馬場の外国詠19(2009年7月)
  【ムスタン】『ゆふがほの家』(2006年刊)91頁~     
   参加者:泉可奈、T・S、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部 慧子      司会とまとめ:鹿取 未放

 

153 眼前にダウラギリ屹(た)つ腰のほどわが小型機は唸りよぎれり


            (当日意見)
★「中腹」とかいわず、「腰のほど」といったところがイメージしやすくてよい。(泉)
★聳え立つダウラギリの腰のほどを小型機で唸りながら行く心弾み、爽快さを言っているように思われる。(鹿取)


                                                                
      (まとめ)
 この心弾みからするとポカラからジョムソンに初めて飛んだ行きの飛行機だろうか。18人乗りの小型機で、操縦席と客席はカーテンの仕切りだけだが、カーテンは開けてあった。ポカラの町からも見えていたマチャプチャレ6993mを右に見ながら飛び、まもなくアンナプルナ8091mが右手に見える。山と山のわずかな谷を飛行するので、これらの高峰が手に取るような迫力で迫ってくる。やがて左手にダウラギリ8167mが近づき、いかにもその腰のあたりをかすめて飛ぶのだ。「唸り」の部分も実感がある。
 ちなみにダウラギリはサンスクリット語で「白い山」を意味し、その高さは世界第7位。3日間宿泊した「ジョムソン・マウンテンリゾート」の正面に聳えていた処女峰7061mのニルギリは「青い山」の意だが、雪を被って白かった。そして、一方カリガンダキ河以外は砂礫の風景の出口に、ダウラギリが白い屏風のような偉容を毎日見せていた。(鹿取)

 

 

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馬場あき子の外国詠 152 ネパール⑤

2025-04-08 17:49:39 | 短歌の鑑賞

    

        ジョムソンのホテル近くから見たダウラギリ


  柳の植林をしたところ、背景はダウラギリだと思うが、違うかも知れない

 

2025年度版 馬場の外国詠19(2009年7月)
  【ムスタン】『ゆふがほの家』(2006年刊)91頁~     
    参加者:泉可奈、T・S、T・H、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:渡部 慧子      司会とまとめ:鹿取 未放
                                
152 八千メートルの山の背碧空のほかはなしあなさびし虚空なす時間のありぬ


           (まとめ)

 小型機に乗ってジョムソンからポカラに移動している一連の中にある歌。ダウラギリ、マチャプチャレ、アンナプルナなどの山名が一連に出てくる。しかし、この歌、単独で読むと地上から眺めている感じがある。滞在したジョムソンからダウラギリ8157メートルが見えたので、その印象かも知れない。八千メートルを超えて聳える山の背には真っ青な空が見えている。そして空しか見えない。その空には「虚空なす時間」があるという。「虚空」を改めて「広辞苑」で引いてみると仏教語で「何もない空間」を指すとある。何もない空間に、おそらく作者は長い長い宇宙的な時間をみているのであろう。
 156番歌「生を継ぎはじめて長き人間の時間を思ふヒマラヤに居て」にも関連するが崇高な山の姿にふれて、それらヒマラヤの山脈が形成された気の遠くなるような宇宙的時間を思ったのであろう。また、その後に生まれた人類の歩んできた長い長い時間をも思うのであろう。「あなさびし」はそんな宇宙的時間にふれた詠嘆のように思われる。         (鹿取)

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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 17

2025-04-07 15:51:28 | 短歌の鑑賞

2025年度版 渡辺松男研究2の2(2017年7月実施)
 『泡宇宙の蛙』(1999年)【蟹蝙蝠】P14~
  参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:泉 真帆       司会と記録:鹿取未放          


17  ごうまんなにんげんどもは小さくなれ谷川岳をゆくごはんつぶ

                (当日意見)                       
★他の人はこの歌をどう評論しているのですか?(鹿取)
★すみません、そこまでは調べていません。(真帆)
★教科書でも採られている歌ですよね。(鹿取)
★ごうまんと言っているけれど、ごはんつぶと言ったところには優しさがある。(慧子)
★ごうまんな人間共は少し遠慮しなさいと言っている。谷川岳を行くあなたたちは所詮ご飯粒のようなものですよと。(T・S)
★人間はのさばるなと思っている。(慧子)
★死亡する人も多い谷川岳を登るとき、自然の偉大さ、人間の卑小さをそういう大自然の中では思いしらされますから、自ずと人間は自然の前に小さくなっているのだと思います。漢字だとそれこそゴツゴツして上から目線のお説教臭い歌になりますが、平仮名を多くしてユーモアのある大らかな歌になっていますよね。私はこの歌最初に読んだ時、昔物語に蔵だか米俵が飛んでいくお話 しがあって、ついそれを思い出しました。それで登山者が零したご飯粒が強風に煽られてピュービューと谷川岳の上を飛んで行く図を思い浮かべていました。その小さなご飯粒にはひとつひとつ目鼻 があるんです。まあでも論理的に考えると谷川岳を登っていく人達をご飯粒に例えているんでしょ うね。でも「ごうまんな」というのは真帆さんが書いている命知らずの登山とか目先の個々のことで はなくて、もっと大づかみに人間って傲慢だととらえているんだと思います。ヒメベニテングタケの むくむくの歌とか、欅になって来るクルマをひっくりかえす歌とか、同じ系譜だと思います。傲慢な 人間共は小さくなれって日頃思っていて、谷川岳を行くご飯粒のような人間を見たときその思いが 甦った。直観的な把握だと思います。       (鹿取)               


      (レポート)
 (渡辺松男の大変有名な代表歌、優れた評論文をたくさん生んだ一首でもある。)群馬と新潟の県境にある谷川岳は、古くから登山家の憧れの山だが、気象の変化が激しく、世界で最も遭難死者の多い山なのだそう。「死の山」や「魔の山」などの異称がある。
 ①「ごうまんなにんげんども」とは?
(ア)登山の途中、食べ残した弁当やおにぎりなどを持ち帰らず、沢水に捨てて流してしてしまうような、食べ物を粗末にする人間の行為か。
(イ)谷川岳という大自然へ挑み、制覇しようと登頂をあきらめない人々か。
②「谷川岳をゆくごはんつぶ」とは?
(ア)谷川岳の沢水を流れてゆくご飯粒を見ている。
(イ)(ア)とは全く違う角度から、例えば、谷川岳の山の頂をめざしロッククライミング(岸壁登攀)しながら登って行っている人々、麓からはまるで小さなご飯粒がのぼっていっているように見える。そ③「小さくなれ」とは?
(ア)人は己の傲慢さを自覚し、本来の小さき存在へ戻れよ、と警鐘を鳴らしているのか。
(イ)登山の人が岩肌を登り行くほどに小さくなってゆくのをみて、命を惜しまずゆきたいのなら、頂上までどんどん行ってしまえ!と言っているのか。
 (ア)(イ)二通りづつの鑑賞を試みたが、結局わたしは①から③まで、みな(イ)の方だと結論した。つまり、作者は麓にいて、谷川岳の岩肌をご飯粒に見えるようになるまで登ってゆき、さらに頂上まで登りつめてゆく人々を眼に追っている。これまで多くの人が遭難死した事実を思い出しながら、懲りずに自然に勝てると思い上がる人々にあきれているのではないか。しかしだ、そんなにも登頂したいなのらばやるがいい、挑戦してみよ、と言っているような気がしてならない。(真帆)


             (後日意見)
 当日の鹿取発言の中の歌2首は次のとおり。最初の歌については、「にんげんの例えに使ってしまってヒメベニテングタケには申し訳無い」と後に松男さん本人が語っている。(鹿取)
  地に立てる吹き出物なりにんげんはヒメベニテングタケのむくむく
                                           『寒気氾濫』
    憂鬱なるわれは欅の巨人となり来るクルマ来るクルマひっくりかえす
                                            『歩く仏像』

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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 16

2025-04-06 11:04:04 | 短歌の鑑賞

2025年度版 渡辺松男研究2の2(2017年7月実施)
 『泡宇宙の蛙』(1999年)【蟹蝙蝠】P14~
  参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:泉 真帆       司会と記録:鹿取未放          


16  おおきなる世界のごとくある山毛欅(ぶな)や世界揺すれば水音ばかり
                                                          
           (当日意見)                       
★山毛欅の木って、耳を当てると水の音が聞こえるって言いますよね。木の中に水を蓄えているんです。飽和状態になると皮を伝わって水が流れ出てくる。(T・S)
★では、世界揺すればってどういう事ですか?(真帆)
★山毛欅は大きくて、まるでそれ自体が世界みたいなんです。だから風ではなく自分が山毛欅を揺すぶるんですね、それが世界揺すればってこと。そうすると水の音がする。(鹿取)
★山毛欅だけで完成された一つの世界。(慧子)                 


     (レポート)
 「山毛欅や」の「や」は間投詞か。山毛欅のおおらかさを詠嘆しているのだろう。その大きな山毛欅の樹の葉を、風がゆすっているのだろう。世界を揺するような山毛欅の大樹の揺れだというのに、山毛欅の葉擦れの音はせず、山毛欅に流れている水音ばかりが聞こえて来たのだという。不思議な一首だ。もしかすると水音は、山毛欅を流れる水の音ではなく、山に流れる水の音かも知れないし、自分のうちに流れる悲しみの音かもしれない。わさわさと鳴る外からの樹木の音は届いて来ず、ただ我が裡にひびく水流のみがあるという寂しさ、とも感じた。(真帆)

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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 15

2025-04-05 09:25:03 | 短歌の鑑賞

2025年度版 渡辺松男研究2の2(2017年7月実施)
 『泡宇宙の蛙』(1999年)【蟹蝙蝠】P14~
   参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆       司会と記録:鹿取未放          


15  釣り合えよ   今日死ぬ鳥のきょうの日と千年生きる木の千年と

             (レポート)
 「釣り合えよ」と初句切れ、一字アケの強さ。短命の鳥と、千年生きる樹木とを比較し、「釣り合えよ」と言っている。どうか生きとし生けるものの命の重さは、等しくあってくれたまえ、と詠っているのだと思う。(真帆)

 
            (当日意見)                       
★祈りですよね。涙ぐましい気がします。松男さんの思考の形がよく見える歌で、大好きな歌です。鳥の一生と樹木の一生を釣り合えと言っているのではなく、短い命を生きた鳥の最後の一日と釣り合えって言っているのですね。土地の一生というのと最期の日というのはずいぶん違うんだけど、より哀切に感じられます。(鹿取)

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