かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 258 韓国①

2024-05-31 09:36:03 | 短歌の鑑賞
  2014年度版 馬場あき子の外国詠34(2010年12月実施)
     【白馬江】『南島』(1991年刊)74頁~
     参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、
          T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部慧子   司会と記録:鹿取未放
                

日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵してここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。                    


258 たゆたひの心しばしば暗かりし韓国に来つズックを履きて

      (レポート)
 どのようなたゆたいなのだろう。日本と韓国の中世から近世へつづくながい確執を思うと作者の生きてきた時間の中に暗く立ち上がる罪意識に似た思いがあったというようなものであろうか。そんな思いを抱かせる韓国にこの度は「ズックを履きて」やってきたのだ。上の句の暗い心とは反対に下の句は旅にふさわしい軽装を言い、一首に明暗を織り込んでいるのだが、「ズックを履きて」暗くなりがちの心を引き立てているのかもしれない。(慧子)


        (当日意見)
★負い目があってのたゆたい。(曽我)
★そうですね、日本人として負い目があるから韓国の旅をしようかすまいか、たゆたい
 があったが、ようやく決心して旅に出てきた。謝罪の気持ちを表すなら正装すべきか
 もしれないが、旅の移動に楽なようにズックを履いてきた。ますます韓国には申し訳
 ないような気がする。「ズックを履きて」の卑近な例示がリアルだ。「日本と韓国の
 中世から近世へつづくながい確執」とレポートにありますが、そこは違います。白村
 江の戦いは古代ですし、明治から続いた韓国併合、戦争中の諸々など20世紀も21
 世紀も大きな問題を抱えて、今なお確執は続いています。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠 257 韓国①

2024-05-30 15:56:44 | 短歌の鑑賞
  2014年度版 馬場あき子の外国詠34(2010年12月実施)
     【白馬江】『南島』(1991年刊)74頁~
     参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、
          T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部慧子   司会と記録:鹿取未放
                

日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵して
    ここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教                    へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。


257 秋の草名を知らざれど手に折りて韓の陽眩しわづか目を伏す 

   (レポート)
 「名を知らざれど手に折りて」が作者にしてはおとなしい表現だが、異国にての行為のゆえか、そこはかとなく味わいがあるのは下の句「韓の陽眩しわづか目を伏す」という消極的な行為の為であろう。
 自国と韓国の古代文化のまぎれないつながり、ながい確執など歴史とこの風光の中で、みずからの情緒も含め、「眩し」み「わづか目を伏す」のである。「眩し」の漢字表記は全体を甘くさせない効果があり、三句の「手に折りて」の「折りて」は祈りに似ている。字が似ているだけでなく、掲出歌には祈りにかよう心がある。(慧子)


       (当日発言)
★心の深い歌。結句に思いが凝縮されている。目を伏せているのは韓国だから。
   (藤本)


    (まとめ)2013年9月
 秋草は日本にはない種類のものだったのだろうか。藤本さんの発言は、作者があとがきに述べているような「長い長い歴史の告発を受けているような悲しみを感じて」目を伏せていたのだ、と言いたかったのだろう。作者は韓国の旅の間中、この悲しみを背負っていたのだろう。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠 256 韓国①

2024-05-29 10:17:20 | 短歌の鑑賞
  2014年度版 馬場あき子の外国詠34(2010年12月実施)
     【白馬江】『南島』(1991年刊)74頁~
     参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、
         T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部慧子   司会と記録:鹿取未放
                

日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵して
  ここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教
      へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。  


256 秋霞濃ゆき彼方に白馬江流るると言へば心は緊まる

      (レポート)
 とにかく秋霞が濃ゆくて白馬江はみえないのであろう。一首は実景に迫っているというより、たとえば松を配するのみの能舞台を思ってみたい。流るると思うでも、流るるを聞くでもなく「流るると言へば」としているところなど、まさしく作者はシテなのだ。「秋霞濃ゆき彼方に」と幽玄を示し、無辺なうちに「心は緊まる」と焦点を絞り込んだ結句だ。(慧子)


        (当日意見)
★ガイドなどが「見えないけど向こうに白馬江が流れていますよ」とあっさり告げた。
 そのあっさりさと、自分の思い入れとのギャップを詠っている。自分の中の白馬江と
 のギャップが主題。(実之)
★私もガイド説をとります。少なくとも声に出して〈われ〉が言ったのではない。この
 作者は「誰か言ふ」などのフレーズが出てくる作り方をよくしていて、そういう場合
 はいずれも天の声のように必要 な言葉がいずこからともなくひびいている感じ。
  この歌を読んで前川佐美雄の「春がすみいよよ濃くなる真昼間のなにも見えねば大
 和と思へ」(『大和』)が脳裡をよぎったが、それも少し計算されているのかもしれ
 ない。 (鹿取)


      (まとめ)
 663年、倭国がここに出兵して大敗をきたした白馬江、いよいよその川にまみえるのかと、名を聞いただけで緊張している場面。
 この一連全体に関係するので作者自身の『南島』あとがきの関連部分を引用する。
     (鹿取)

    「白馬江」は同年の秋十一月、朝日新聞歌壇が催した歌の旅であるが、詞書に
    も書いたような事情で、私は白馬江に特別な感慨をもっていた。美しく、明
    るい豊かな流れが、夕日の輝きの中をゆったりと蛇行していた景観は忘れが
    たい。妖しいまでの淡彩の優美な景の川に船を浮かべて、長い長い歴史の告
    発を受けているような悲しみを感じていた。(鹿取注:「同年」とあるのは歌
    集『南島』のハイライトである沖縄七島を巡る旅をした3月と同じ1987
    年という意味)  

 
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馬場あき子の外国詠 255 韓国①

2024-05-28 19:09:17 | 短歌の鑑賞
  2014年度版 馬場あき子の外国詠34(2010年12月実施)
     【白馬江】『南島』(1991年刊)74頁~
     参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、
         T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部慧子   司会と記録:鹿取未放
                

日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵して
  ここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教
      へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。
                       
255 なみよろふ低山(ひくやま)の木々もみぢつつ韓国(からくに)や炎を発しをれり吾をみて

   (レポート)
 作者の位置からさほど高くない山が並び、それでいて寄るように重なっているとの意であろう。ちょうど「もみぢ」の頃であった。「韓国や」と感嘆しているのは、ただもみじの美しい国としてのそれではあるまい。つづく「炎を発しをれり」とあるように狼煙をあげるにかよい、それは単純な見立てに終わらず、韓国と日本の長いかかわりのゆえに、作者の何らかの意識にはたらきかけるのである。「吾をみて」とするゆえんである。(慧子)


      (当日発言)
★この一連では最初の詞書きが非常に重要で、それを踏まえてレポートしないといけな
 い。「吾を見て」とあるが、背景の日本人全体に対して憤っている。(実之)
★「炎を発しをれり」は直接的には木々の紅葉のみごとさを言っているんだけど、実之
 さんが言われたように韓国の日本人に対する憤りの強さのイメージだと思う。「をれ
 り」は、憤りを感じ取ってぎょっとしている吾の痛みの感覚をよく伝えている。作者
 のいつもの技で、紅葉した山(それは韓国そのものでもある)が吾を見て炎を発して
 いるという構図になっていて、スケールが大きい。
  ところで歌とは直接関係がないが、馬場あき子一行の韓国吟行の旅は1987年
 11月、大韓航空機爆破事件が起こったのは同年11月29日である。帰国後の事件
 だったのだろう。(鹿取)


      (まとめ)
 斎藤茂吉の『あらたま』に「朝あけて船より鳴れる太笛のこだまは長し並みよろふ山」がある。おそらく、茂吉が万葉集の歌「とりよろふ」からヒントを得て「並みよろふ」という語を造ったのだろう。そして馬場あき子が茂吉の語を借用したのだろう。「並みよろふ」はどちらの歌でも「連なって寄り添っている」くらいの意味だろうか。
 結句が10音の破調だが、「吾」を押出さなければ定型に収めることが可能だ。定型を破ってでも「吾」を入れたい強い思いがあったことは一連全体に掛かる詞書を読むとよく分かる。この歌は序歌としての機能をしっかり果たしていて、次の歌からあふれるように思いが展開される。歌集のあとがきを読むとさらによく分かるが、長くなったのであとがきの引用は次回に延ばす。
   (鹿取)

 
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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 268

2024-05-27 15:55:59 | 短歌の鑑賞
  2024年度版 渡辺松男研究32(15年10月)
    【全力蛇行】『寒気氾濫』(1997年)110頁~
     参加者:S・I、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、N・F、
        藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放
       



268 法師蟬づくづくと気が遠くなり いやだわ 天の深みへ落ちる

      (レポート)
 オスの法師蟬は、夏の終わりから秋にかけて鳴くが、鳴き方に特徴があって、「ツクツクボーシ」や「オオシイツクツク」などと聞える。メスはその愛の告白「~ツクツク」を繰返し聞いていると「づくづくと気が遠くなり」「いやだわ」秋の「天の深みへ落ちる」ような気がしてくるのである。(鈴木)

     (当日意見)
★女性になって詠うのが渡辺さんの歌にはたくさんあるけど、それほど深く意味を考え
 なくていいと思います。(藤本)
★天へ落ちるというのが渡辺さんらしい。天なら普通は登るなんだけど。落ちるだから
 歌の深みを増していると思うけど。一字空きで艶っぽい場面を入れていらっしゃるの
 かなと思います。レポーターの雌だという解釈が面白いと思います。(S・I)
★天の深みに落ちるのが艶っぽい感じです。「いやだわ」なんっていうのも。法師蟬とい
 うのが「づくづく」を出すための前提として使われています。(M・S)
★なんとなく気持ちがうずくというのが作者が女性になっているから。(藤本)
★私は季節の終わりでもう弱ってきている蟬が鳴きながら気が遠くなって落ちていく。
 雄なんだけどこういう女言葉で詠っていると読みました。鈴木さんの解釈だと鳴いて
 いる雄は背景において、一首全体の主体は雌蟬で求愛の鳴き声を聞いているってこと
 ですよね。
  天なのに落ちるというのは渡辺さんの歌にはたくさんあります。裏側にというのも
 あります。彼の思考の特徴だと思います。これまでに天に落ちるについては何度か例
 歌を引いたりしたので、ここではもう触れません。この歌のもう一つの特徴は女性言
 葉ですね。もう4年ほど前ですが、東京歌会の勉強会で渡辺松男の歌のレポーターを
 やったのですが、その時に女性性、女言葉の問題に少し触れました。渡辺さんの歌の
 女性言葉については何本もの評論が書ける重要な事項だと思うのですが、私の知る範
 囲では未だ渡辺松男の女性言葉に絞った評論というのを見たことがないです。(坂井修
 一さんや川野里子さんの評論で、女性言葉を部分的に論じていらっしゃるものはあり
 ます。)私自身も興味深い視点だと思いながら、まだそれに絞った勉強はしていないで
 す。追求してみる価値は充分にあると思いますが。
  たとえば、女性言葉の例として第3歌集の『歩く仏像』に「きもちのよいことで
 しょうか 死 いやですわ たくさんの蝶が舞うんですって」などがあります。これ
 は性愛の中の死という読み方もできますが、今まで見てきたところでは不安感とか恐
 怖感、特に死など危機に直面した場面で女性言葉(あるいは幼児言葉)が多く使われ
 ているようです。そうすると歌としては危機感は表に出ないで、柔らかでユーモラス
 な感じに仕上がる。読む方が気持ち悪いという人もいますが。(鹿取)
★渡辺さんの中にある女性性とか男性性とかあって、場面に応じて使っている。パンを
 産みたいという歌があったけど、男の中にもそういう女性性はある。この歌も「いや
 だわ」って何かわざとらしい気がした。セミは鳴くのは雄だけだから鳴いている方は
 気が遠くなんかなっていられない。聞いている雌の方が気が遠くなっていくととった
 方が作者の意図に合っているのじゃないか。(鈴木)
★優れた詩人はみな両性具有ですね。でもこの歌では雌蟬が「いやだわ」と言っていて
 も面白くないので、やはり気が遠くなった雄蟬が「いやだわ」と言っているのだと思
 います。(鹿取)
★さっきのパンの歌は「夢にわれ妊娠をしてパンなればふっくらとしたパンの子を産
 む」です。(真帆) 
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