かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 404 中欧⑦

2023-12-31 11:01:16 | 短歌の鑑賞
 2023年度版 馬場あき子の外国詠56(2012年9月)
     【中欧を行く カレル橋】『世紀』(2001年刊)P116~
      参加者:K・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:N・I(欠席、レポートのみ)
      司会と記録:鹿取 未放


404 聖なるもの観光として見ることに疲れゐつ荘厳(しやうごん)のビート聖堂

     (レポート)
 素直に観光客の心境を表していると思います。時間があったらその荘厳なるものと対峙したいとの思いが隠されている。(N・I)


      (当日発言)
★荘厳なるものの目の前にいるのだから、N・Iさんの評はおかしい。自分の思想とは
 かけ離れているビート聖堂ということだと思うが。自分が担当した「マリアはこちら
 を見ない」という意味の歌に通じる。(藤本)
★「観光としてわが見るマリアわれを見ず初秋のやうにさびしきその瞳(め)」です
 ね。見るこちら側の人間の質を問うている。信仰というものを突き詰めて考え(とい
 って信者になるということではないが)もっと裸の人間として向き合いたいが慌ただ
 しく観光で来ている今はそれができない。聖なる対象との間にどうにもならない距離
 を感じていてじれったく、そのことが作者を疲れさせているのだろう。自分自身が変
 革されたかたちでしか荘厳なるものとの本質的な対峙はできないというのだろう。時
 間があればというN・Iさんの評もそこを補うとよかった。(鹿取)
★でも実際は観光として見る以外になくて、こちらが疲れ果ててしまうような重々しい
 聖堂だったのだろう。(K・I)
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馬場あき子『寒気氾濫』の一首鑑賞 403 中欧⑦

2023-12-30 11:08:44 | 短歌の鑑賞
 2023年度版 馬場あき子の外国詠56(2012年9月)
     【中欧を行く カレル橋】『世紀』(2001年刊)P116~
      参加者:K・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:N・I(欠席、レポートのみ)
      司会と記録:鹿取 未放


403 ビート聖堂にミュシャの光と影ありて聖者さびしげに瞑目したり

        (当日発言)
★前回の402番歌(ステンドグラスの絵図に悲しみの祈りあれどミュシャの光をわれ
 は見てゐる)ではミュシャの光を、この歌ではミュシャの光と影を見ている。聖者は
 前回曽我さんが調べてくれたキリルとメトディウスで、チェコにキリスト教を伝えた
 二人。彼らが寂しそうに目をつぶっているという意味。(藤本)
★前回のまとめにステンドグラスの一部を拡大した図を入れた。拡大するとミュシャの
 特色がよく見て取れる。ステンドグラスが大きすぎて聖者が瞑目している部分はよく
 分からないが、現地では見えたのだろう。(鹿取)
★この歌はビート聖堂とミュシャに頼っている。「さびしげに」も私たちが使ったらア
 ウトではないか。(慧子)
★でもビート聖堂とミュシャのステンドグラスは目の前にある事実だから頼っていると
 はいえない。「さびしげに」が活きているかどうかの判断は鑑賞者によるかもしれな
 いが、私は活きていると思う。また「さびしげに」は作者の感情を直接表現したもの
 ではない。(鹿取)
★ステンドグラスそのものも陽光を受けて美しく輝いているだろうが、絵そのものに光
 と影があって、影の部分の一つに目を瞑った聖者がいる。光と影はもちろん精神のそ
 れでもあるのだろう。(鹿取)
★キリスト教そのものが変遷している。時には迫害されたりもする。そういう哀しさを
 秘めて聖者は瞑目しているのかもしれない。(藤本)
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馬場あき子の外国詠 402 中欧⑥

2023-12-29 10:12:53 | 短歌の鑑賞
 2023年度版 馬場あき子の外国詠55(2012年8月)
     【中欧を行く カレル橋】『世紀』(2001年刊)P113
     参加者:K・I、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、
         藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:曽我 亮子 司会と記録:鹿取 未放
       

402 ステンドグラスの絵図に悲しみの祈りあれどミュシャの光をわれは見てゐる

      (レポート)
 プラハ城にある聖ヴィート大聖堂に描かれたミュシャのステンドグラス「聖キリルと聖メトディウス」は王家の洗礼を主題にしたものであり、祈りの心が込められている。しかし私はこの絵に、ミュシャの生国モラヴィア特有の鮮やかな色彩とのびやかな彼の心を見たのである。
 ■作者の確かな「目」に脱帽です…。(曽我)
 □聖ヴィート大聖堂のステンドグラス「聖キリルと聖メトディウス」
  キリルとメトディウスはギリシャ出身の兄弟で、863年チェコにキリスト教を伝
  え、プラハのプシェミスル王家の人々の洗礼を行った聖者である。ミュシャのこの
 ステンドグラスにはアール・ヌーボーの官能的傾向は見られず、スラブ的要素の強い
 晩年の作である。
□アルフォンス・ムハ(ミュシャはフランス読み)
 1860年南モラヴィアに生まれる。1894年フランスの大女優サラ・ベルナー
 ルに出逢うことによりアール・ヌーボーの旗手として華やかにヨーロッパ各地で活躍
 する。しかし1910年故郷チェコに戻ったムハは大連作「スラヴ叙事詩」「運命」
 などを長い年月かけて製作する。これらはムハの愛国心から描かれたもので、スラヴ
 民族の戦いと希望が表現されている。ムハは晩年もはや官能的絵画は描かず、鋭い目
 差しで対象を見据えるスラヴの女性を描いたのである。後、ナチスに退廃芸術家とし
 て捕らわれたが釈放され、間もなく1939年7月78歳で没した。
         出典  フリー百科事典ウィキペディア
         日経BPプラハ・チェコ(中世の面影を残す中欧の町々) 


      (当日発言)
★聖ヴィート大聖堂はプラハ城の中にある。古い建物でステンドグラスの一部を改装し
 たもの。(藤本)
★この歌を読むと、401番歌(かへりみるプラハ城はればれと静かなり歴史はいまに
 よりてかがやく)を納得させられる。(鈴木)


       (後日意見)
 ミュシャはモラヴィア(現在のチェコ)生まれ。聖ヴィート大聖堂は1344年から600年 をかけて建築されたという。ステンドグラスの一部を1931年ミュシャがデザインして制作した。全体はチェコへのキリス教布教の様子が描かれている。次にその一部を拡大したものを掲載したが、ミュシャらしさがよく分かる。ただ、ここにはチェコの民族衣装を着た女性が登場し、「スラヴ叙事詩」に繋がる部分である。ミュシャはこの頃、民族への思いを深めていたが、1939年ナチスのチェコ侵略後は厳しい尋問を受けることとなった。
 そんなミュシャの生涯を思い浮かべながら、このステンドグラスには「悲しみの祈り」が描かれているけれど、今〈われ〉は眼前のステンドグラスの美しい光の面を見ているよ、という事ではなかろうか。この「カレル橋」は光と影がテーマのようだ。
  (鹿取) 
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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 168

2023-12-28 15:21:03 | 短歌の鑑賞
 2023年版 渡辺松男研究 21 2014年10月 
   【音符】『寒気氾濫』(1997年)70頁~
    参加者:S・I、泉真帆、鈴木良明、曽我亮子、N・F、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放


168 白き気配廊下よこぎりゆく見えてするすると喪はあけてゆくなり

        (レポート)
 この歌では、「白き気配」と詠んでいるが、前の歌で詠まれた「魂」の「古来多く肉体を離れても存在するとした」死後の魂の行方を詠んでいるのだろう。身内の葬儀のあと喪が明けるまでは「魂」はそこに留まっていたが、その時が来て解放されて外に出ていった。日本の風習のなかで暮らしていると、死後の魂の存在を認める認めないに関わらず、このような感じは良く分かる。(鈴木)


     (当日意見)(2014年10月)
★気配というのは魂が昇天する気配だと思うのですが、するするって普通は言えない。
 でも全然違和感がなくて。変わった表現をされますね。(曽我)
★渡辺さんって自分と周りの境がない人だと思います。廊下というのは時間の経過を表
 していると思います。時間は有限ですから、喪に服す思いもやがて消えていくんです
 ね。それのひとつの合図が白き気配じゃないですか。時間はピリオド。喪に服する気
 持ちが終わってしまったのが、「白 き気配」なのかな。(S・I)
★私はこの気配には尻尾のようなものがあって、だからするするかなあって。それが廊
 下を去っていくことで喪が終わる。人間の気持ちから見ているのではなくて、時間の
 方に主導権があって去っていくような。廊下はリアルな方が面白い気がする。
   (鹿取)
★これ、相対性理論でしょう。時間と空間が関数になっているんでしょう。(S・I)
★私の住んでいる所は古い土地だから、親しい人が亡くなると必ず兆候がある。白い鳩
 とかの形で。渡辺さんが住んでいらっしゃる群馬にはもっとそういう話があると思
 う。だから白くもあーと廊下を抜けるものがあると、ああ死者が去って喪が明けたの
 かと、そういう言い伝えも背景にあって詠まれたのではないか。(N・F)
★私もそういう白い鳩のたぐいの話は昔から聞いています。でも、本当かどうか確かめ
 ようがないですよね。(鈴木)
★昔のシャーマニズムがどこか奥底にあるのかなと。(N・F)
★でも、そういうこといっさい私は信じられない人だから、渡辺さんの表現のすばらし
 さとして味わいたいと思います。(曽我)

※田村広志さんから後日、「2、3句の句跨りが面白い」という評をいただいた。
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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 167

2023-12-27 17:57:42 | 短歌の鑑賞
 2023年版 渡辺松男研究 21 2014年10月 
    【音符】『寒気氾濫』(1997年)70頁~
     参加者:S・I、泉真帆、鈴木良明、曽我亮子、N・F、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放


167 寒林のなかに日当たるところあり抜けやすきわが魂はよろこぶ

      (レポート)
 辞書によれば、「寒林」には、「冬枯れの林」のほかに、「屍を葬る所、墓地」という意味もある。冬枯れの林であれ、墓地であれ、そのような中に明るい冬の日ざしが射していると、誰しもその場所に魅かれ、曳かれる気持ちになるだろう。歌ではそれを「抜けやすきわが魂はよろこぶ」と詠んでいる。「魂」は、辞書によると「肉体に宿って心のはたらきをつかさどると考えられるもの。古来多く肉体を離れても存在するとした」とある。歌もこれを念頭に詠んでいると思われる。(鈴木)


     (当日意見)
★下の句が面白い。魂が体から抜け出してつい憑依とかしやすい私にとって、私の魂は
 日だまりを好むと言っていて、魂が集まっているのは愉快なもの、楽しいものとそも
 そもが思っておられる。(真帆)
★和泉式部は蛍を私からあくがれて出ていった魂だって詠んでいますね。また、掲出歌
 の後の方の頁に、雪の野原に一本の樹があって、魂が集まっている、みたいな歌があ
 ったと思うのですが、それも抜け出していく魂だったのかな。日だまりを好む魂っ
 て、懐かしい感じがします。(鹿取)
★私は真帆さんとも鹿取さんとも魂の捉え方が違って、体の中にあって直感も含めて感
 じるものととらえている。それは体の外に出て行くものじゃなくて、体の中に留まっ
 ていて、気持ちが冬の日だまりに行っちゃうと言うのは誰にも有るんじゃないです
 か。惹かれる気持ちを魂は喜ぶと言っているだけで、体から離れて行くまで言わなく
 ていいと思う。(鈴木)


      (まとめ)
鹿取の発言にある和泉式部の歌は〈物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂かとぞみる〉で、この歌の「あくがる」は普通「魂が肉体からさ迷い出る」意味と考えられている。また、雪の野原の歌云々というのは、『寒気氾濫』78頁の〈ひとつ死のあるたび遠き一本の雪原の樹にあつまるひかり〉を念頭に置いていたが、この167番歌との関連は薄いようだ。(鹿取)

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