かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『寒気氾濫』の鑑賞 108,109

2023-08-31 10:22:47 | 短歌の鑑賞
 2023年版渡辺松男研究⑫ 【愁嘆声】(14年2月)まとめ
      『寒気氾濫』(1997年)44頁~
     参加者:渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
      レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取 未放
       

108 上州は黄のからっ風父の耳母の耳砂塵のなかにあらわる

      (意見)
 上州のからっ風は、昔から定番である。その風が砂塵を巻き上げると、黄の紗がかかったようになって、視界が遮られる。どこに誰が居るのかを声や音で確認するほかはない。そういう中で、ともに何かの作業をしていたのだろう、父と母の耳が見えてきて、少し安堵したのである。(鈴木)


      (当日発言)
★鈴木さんの解釈、何かの作業をしていたのだろうまではいいけど、父と母の耳が見え
 てきてはいきなりの感があります。この間に何かの思いが欲しい。(慧子)
★そうですか、私は鈴木さんの解釈よく分かります。視界が狭い中で見えなかった父母
 の姿が耳から見えてきた、何か懐かしい気分がしますが、安堵したまではどうかなと
 思います。作者のお母さんは作者23歳の時に亡くなってい ますけれど、思い出の中
 の話とすれば耳が印象的だし、作者の実生活と関連付ける必要も無い。この歌は書い
 てある通りに読めばいいと思います。(鹿取)


109 上州はひねもす風の荒れしあと沈黙にあり寒の夕焼け

      (意見)
 これもからっ風だろう。ひもすがら続いた強い風が夕方には止み、寒々とした夕焼けが西の空に広がり、上州に沈黙が訪れたのである。終日続いたはげしい風の音がやんだあとの沈黙の深さが感じられる。 (鈴木)
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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 107

2023-08-30 14:23:37 | 短歌の鑑賞
 2023年版渡辺松男研究⑫ 【愁嘆声】(14年2月)まとめ
     『寒気氾濫』(1997年)44頁~
      参加者:渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
       レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取 未放
       

107  鴉A影をおおきく羽ばたけり冬のたんぼに涙はいらぬ

     (意見)
 「鴉A」という言い方は、何匹かいる鴉のなかに差異をみて、「おおきく羽ばたく」鴉の存在を強調しているのである。春から秋にかけてのたんぼは、鴉をはじめ大小さまざまな命が生息する、弱肉強食の世界であり、生き物にとっての涙の季節でもあるのだ。ところが米の刈り入れを終えた冬ざれのたんぼは、閑散としてさばさばとしている。生き物たちは、それぞれの種ごとに冬眠や来春の次世代へむけた準備にとりかかっている。下句の「冬のたんぼに涙はいらぬ」は、そのようなことを物語っている。
  (鈴木)


        (当日発言)
★上下の切れがいろいろな読みを誘うんです。私は鴉と影の逆転と読みました。たとえ
 ば影が実の存在を危うくさせたり、魂を抜き取るような力を持つ等。だがここは「冬
 のたんぼ」、鴉とその影が逆の関係になろうとも、悲惨はなく「涙はいらぬ」との表
 現になったのではないか。(慧子)
★鴉であっても影と逆転したらとても怖いことで、人間ではなく鴉のことだから涙はい
 らないというのは渡辺さんの発想ではない。そんなふうに人間と動物を区別しない人
 だから。鴉AというからにはB、C、D、E……と鴉はN羽いるわけだけど、なぜ鴉
 一羽とか一羽の鴉ではなく鴉Aなんだろう。巷では少年Aとか少女Aというのは犯罪
 を犯した少年少女を匿名にする為に使われることが多いけど、悪い鴉ではなさそうだ
 し。鴉Aが悠然と飛び立った、そして跡には抒情も何も無い即物的な冬の田んぼが残
 った。そういうことかなあ。(鹿取)
★小池さんが鳥に甲だとか乙だとか付けていなかった?知らない?(慧子)
    *慧子さん発言の小池光の歌は次のもの。
       甲の鳥杭の上(へ)にをり 乙の鳥その杭にゐる一年ののち
           小池 光 『時のめぐりに』(2004年)

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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 106

2023-08-29 11:47:51 | 短歌の鑑賞
 2023年版渡辺松男研究⑫ 【愁嘆声】(14年2月)まとめ
     『寒気氾濫』(1997年)44頁~
     参加者:渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
      レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取 未放
       

106  背中のみ見せて先行く人があり容赦なくわれはその背中見る

      (レポート)
 見られていることさえ知らない無防備な背中を容赦なく見るという。行きずりの人への無礼講的行為か、あるいは軋轢のある知人への作者の真理を表しているのか、いずれであろう。 (慧子)


      (意見)
 人の顔や背中にその人の来歴がよく現れる。相手の顔を見ることは逆に相手から見られることでもあり、なかなかまじまじとは見ることはできない。特に日本人は、相手から見られることを強く意識する国民であり、相手の目を見ずに伏し目がちに接する人は多いだろう。〈われ〉もそのひとりで、背中であれば、見られることはないので、安心して人を観察できる。それだからこそ容赦なく背中を穿鑿してしまう人でもあるのだ。(鈴木)


      (当日発言)
★私、何となくお父さんの背中かと思っていたけど、そうでもないのかな。次の次の歌
 「上州は黄のからっ風父の耳母の耳砂塵のなかにあらわる」にお父さんが登場するの
 で、そう思ったのかな。行きずりの人なのか、ある特定の人なのか、どうなんでしょ
 うね。慧子さんの言うように軋轢のある人、父とか上司とかなのか、どうもこの歌だ
 けでは特定できないように思う。(鹿取)

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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 105

2023-08-28 16:24:23 | 短歌の鑑賞
 2023年版渡辺松男研究⑫ 【愁嘆声】(14年2月)まとめ
        『寒気氾濫』(1997年)44頁~
       参加者:渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
        レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取 未放
       

105  しんぶんに軍というものめだつなり愁嘆声(しゅうたんしょう)はなに色なるや

     (レポート)
 掲出歌がいつの時点で詠われ、「しんぶん」にみえる「軍」とは、どこのどのような状態を指すのかつぶさにわからないのは、作者の意図するところだろう。それによって、普遍性に繋がり、説明ではなくとらえられている。人々にすれば、震撼させられ「愁嘆声」をもらすであろう。それを「なに色なるや」と問う。声の色を問うとは、生きている命の層を観念ではなく、とらえようとしている。(慧子)


      (意見)
 本歌集をまとめたのが九十七年であるから、その前に新聞に「軍」という文字が目立つとしたら、九十一年の湾岸戦争やソ連邦の解放をめぐる各国の軍隊や我が国の自衛隊の動き、のことだろうか。いずれにしても、そこから「愁嘆声」、人々の愁い嘆く声が聞え、それは何色なのだろうか、と飛躍する。(鈴木)


     (当日発言)
★直接には日本が戦争に巻き込まれる事に対する危惧をうたっているのかもしれません
 が、この歌が作られた頃、湾岸戦争とかは実際に行われていたわけで、日本の新聞に
 外国の軍隊のことも書くわけですよね。当然そこでも愁嘆声はあったのですね。「愁
 嘆声」って造語だと思いますが、いやはや、よく思いつくねという感じです。慧子さ
 んがレポートの最後で触れていますが、嘆きの声が何色かと問うところ、声という肉
 体に引きつけているのが歌い方として面白 いです。(鹿取)


      (後日発言)  
 *2014年2月のブログ掲載後、読者から以下のような、表記の線から迫った優れ
  たコメントをいただきました。

 ひらがなの中に軍一字を際立たせて目にとびこませています。幼稚にさえ見えるような書きぶりをわざと選択した、と受けとります。しんぶん(メディア)も、顔の無いひらがなのわらわらとした羅列として表されているのかもしれません。

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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 104

2023-08-27 11:36:26 | 短歌の鑑賞
 2023年版渡辺松男研究⑫ 【愁嘆声】(14年2月)まとめ
     『寒気氾濫』(1997年)44頁~
     参加者:渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
      レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取 未放
       

104  三十五万回「狂」という字を思いみよ入院者三十五万人の「狂」

       (レポート)
 「三十五万回『狂』という字を思いみよ」とは、そのことごとくの精神や暮らしぶりを思い、寄り添ってみよというのであろう。「思いみよ」となげかけたものを、「入院者三十五万人の『狂』」と下の句では作者のふところに回収しているように思う。正と狂の境は何であろうか。(慧子)


       (意見)
 数は大きくとも小さくとも、その数値自体はなかなか実感しにくい。そこで現実に存在するものとの比較でその大きさを実感する方法が用いられる。たとえば、あるものの大きさを実感するために、その隣に「たばこの箱」を置いてみるなどである。本歌では、入院者三十五万人の
「狂」を実感するために、「狂という字」を思ってみよ、というのである。「狂」という字を三十五万回も。ただただ、圧倒されるが、そもそもこの数字は何なのだろう。最近の障害者白書(平成23年版)によれば、全国で精神疾患患者数約三二三万人、そのうちの10.3%が入院者数とのことであるから、本歌の数に近い。(鈴木)


       (当日発言)
★私はわりとこの歌は分かりやすかったです。どこかで精神疾患による入院患者数の統
 計を見ましたが、毎年34万から35万の数で推移しているんですね。そして鈴木さ
 んも書いているように35万という数だけ言っても実感できないので、ひとりひとり
 の病んでいる人の顔は見えないんだけど、苦しんでいる人がいるんだよと、35万回
 「狂」という字を思い浮かべてみてください、って言っているのよね。そうしてもま
 あ届かないんだけどね。 (鹿取)
★「思いみよ」と命令形で言っていますけど、別に他人に命令している訳ではなく、自
 戒かもしれないですね。あんまり実生活に照らし合わせて考えたくないですが、公表
 されている作者の年譜によると25歳で精神病院に通い始めたとあるし、公務員とし
 て精神病院関係の仕事もされていたようなので、精神を病んで苦しんでいる人を見て
 の実感なんだと思います。私も身近に心を病む人がいるので、そ の苦しみが分から
 ないもどかしさをいつも感じていて、この歌はわりとすっと心に入ってきます。
   (鹿取)
★そういうことなのですか。やっと分かりました。(慧子)
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