かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 2の229 &レポーターの感想

2019-11-30 21:35:04 | 短歌の鑑賞
   ブログ版渡辺松男研究2の29(2019年11月実施)
     Ⅳ〈悪寒〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P145~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉真帆    司会と記録:鹿取未放




229 ひっそりと竹節虫(ななふし)として生きしもの竹節虫として乾きてゆけり


(レポート)
 ナナフシはナナフシとして死んでゆく。しかしそれが叶うのは「ひっそりと」生きたものだという。自分が自分として生きてゆき自分として死んでゆく、このあたりまえのような命の生死が人間には難しい。そこには「ひっそりと」生きてゆけない人間のエゴがあるからではないか。 渡辺松男が昆虫や動物や植物たちを詠うとき、そこには敬意が滲む。エゴのない命への敬意があるのではないだろうか。(泉)


(紙上参加)
 ナナフシは茶色の細い棒のような 目立たない、奇妙な地味な虫。ひっそりと生きて、生きていた時のそのままの形で死んでいる。丁寧な上句にこの虫への敬愛のようなもの、注目されることもなくただその命を全うする小さな生き物の姿、生き方への共感のようなものが感じられる。そして下句にその生と死への哀れみのようなものが感じられる。似たような人の一生への心寄せもあるのかもしれない。じんわりとしたいい歌だと思う。(菅原)


(当日意見)
★お二人とも生きているものに対する敬意と書いていらして共感しました。(A・K)
★この歌は東京歌会に出されて、馬場先生が「ほんとかねっ」て周囲にだけ聞こえるようにおっ
 しゃったのを覚えています。記憶違いだったらごめんなさい。(鹿取)
★ナナフシって季節はいつですか?(慧子)
★先日、鎌倉の古我邸でナナフシを見ました。道の石に張り付いていました。(岡東)
★ネットには11月に繁殖したって記事が出ていますね。(鹿取)
★じゃあ、群馬の人だからナナフシが空っ風で乾いていても不思議じゃないですね。先生は知
 らなかったから「ほんとかねっ」っておっしゃったのじゃないですか。(慧子)
★いや、この歌のつじつまの会わせ方について疑問を提示されたというふうに聞きました。(鹿取)


(後日発言)
 当日発言でうまく言えなかったが、馬場先生の呟きは「そんな都合よくいくかね」って感じに私には聞こえた。もちろん、松男さんはそういう竹節虫の姿を目撃されたことがあったかもしれないが、目撃してないからうたってはいけない訳ではない。それがほんとうであるかないかは問題ではなく、先生はどう表現するかを問うている。ひっそり生きたからひっそり乾いていくとも限らないんだよと。過酷な戦争を潜ってきた人の重い言葉だと思う。(鹿取)


    (レポート全体のまとめ)
 一連を振り返ると220番「鶏と睨みあってはおちつかず天高き日のフランケンシュタイン」から一貫したテーマがあるように思う。それは、人間が人間として生き人間のまま死んでゆく、その尊さや厳しさ、人である存在の寂しさというテーマだ。それらを、フランケンシュタインや鼠の入り込んだ脳などの比喩を使いながら詠ってきた一連だったのではないか。227番「掬いては日溜りをたべ枯れ葉たべ過食症なるやわれ痩せてゆく」は欲望のまま過食症と化す人間がついには心や魂の痩せた生き物となる愚かしさ、消し去りたくも消せないエゴ、そういったものを背負いつつ人は生きて行かなければならないと詠む。その思いに至った時の寂しさが228番「すこしだけ話しかけてもよいでしょうか胡瓜の蔓に巻かれたき今」に詠まれるのではないか。植物の命の尊さに心打たれ、胡瓜に頭を垂れ許しを乞いたくなるほどの謙譲心だ。けれどこういった解釈は文字に書くと作品を面白くなくしてしまうようにも思う。が、しかし、渡辺松男の歌はやはり、単なるオモシロ歌とは全く別物の、作者の世界観に貫かれた深い文学作品であることは間違いない。だからこそ何年も何度も読み返したくなる歌集なのだと思う。(泉)

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渡辺松男の一首鑑賞 2の228

2019-11-29 18:53:09 | 短歌の鑑賞
   ブログ版渡辺松男研究2の29(2019年11月実施)
     Ⅳ〈悪寒〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P145~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉真帆    司会と記録:鹿取未放



228 すこしだけ話しかけてもよいでしょうか胡瓜の蔓に巻かれたき今

(レポート)
  春の畑作業に「胡瓜の蔓降ろし」というのがあるそうだ。実りをよくするために、上まで伸びた子や孫の蔓をカットし、下にある親蔓を生かす作業だという。それほど胡瓜の蔓は伸びやすく巻きつきが良いのだろう。ここでは胡瓜を前にして、「すこしだけ話してもよいでしょうか」と言いながら、胡瓜の蔓にさえ巻かれたいと思う寂しい心境の今を詠っている。なんだっていい、人やペットの猫や犬など体温のあるものでなくてもいい、植物、それもときには邪魔者あつかいされる胡瓜の蔓でも構わない、強く自分に巻きついてきてくれないか、そう思う。勝手に話しかけても何も言わない植物に対してでさえ、「すこしだけ話してもよいでしょうか」と許しを乞う、存在の儚さ、寂しさの極まる歌だ。寂しさの極まる歌ではあるが、読者をキリキリと追い込ようなことはせず、ほんの少しのユーモアを漂わせた一首にしている。
全く違う鑑賞として、一首の主体は「胡瓜の蔓に巻かれたき」心境の今、君へ、「すこしだけ話してもよいでしょうか」と尋ねている相聞歌としての鑑賞もできるのではないか。(泉)


(紙上参加)
 胡瓜の蔓は細くてくるくる巻き付く。そんな蔓に巻き付かれたい気持ちのするのはさみしい時でしょうか。だから、遠慮がちに「話しかけてもよいでしょうか と聞いている。そっとおずおずと細い巻きひげのようなめんどくさい柔らかさが欲しいのは、さみしいというより、臆病な愛の表現かもしれません。優しくてかわいらしい歌です。(菅原)


(当日意見)
★「胡瓜の蔓に巻かれたき今」は寂しい感じが出ている。上手ですね。(岡東)
★恋人に話しかけているのかな?下の句にちょっとひ弱な感じが出ていますね。(鹿取)
★上の句、下の句で切れるんでしょうかね?切れるなら話しかけるのは人。下の句で渡辺さんの
 歌になっている。繊細な感じ。(A・K)
★松男さんはきっと胡瓜を世話したことがあるんでしょうね。だから胡瓜の蔓がどんな風になる
 かよく知っている。そして歌を作るときそれがぱっと思い浮かぶ。そこが凄いと思います。胡
 瓜の蔓にリアリティがあって〈われ〉の切実さもよく出ている。(鹿取)


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渡辺松男の一首鑑賞 2の227

2019-11-28 18:12:09 | 短歌の鑑賞
   ブログ版渡辺松男研究2の29(2019年11月実施)
     Ⅳ〈悪寒〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P145~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉真帆    司会と記録:鹿取未放




227 掬いては日溜りをたべ枯れ葉たべ過食症なるやわれ痩せてゆく

(レポート)
 本当の「過食症」によって痩せてゆくのは大変辛い症状だと聞く。しかしこの一首はそれほど重い意味ではなく、慢性的な食べ過ぎ、くらいにとって良いように思う。短歌の種類に〈なぞなぞ歌〉ってあっただろうか、そんなことを思わせた一首だ。「掬いては日溜まり」を食べ、腐葉土を食べ、痩せていく樹木かもしれない。でも樹木なら大抵は痩せてはいかず肥えてゆくだろう。もっと観念的なことか。繰り返し繰り返し一首を心に歌いつつ、痩せてゆく主体が一体何なのか、年月をかけて問うてゆく楽しみがある。ハッと気づく瞬間が待ち遠しい。(真帆)
  

(紙上参加)
 日溜りや枯れ葉ばかり食べていたら私は痩せていくよ、と。秋の気持ちのいい日溜りや、堪能している感じ透明感があり快い歌。菊の花をたくさん食べた時に仙人のような気分になるのと似ている感じです。(菅原)


(当日意見)
★菅原さんが「美しい落ち葉を味わい」と書かれているけど、枯れ葉をここで作者は美しい物と
 して設定しているかなあと疑問です。「拒食症なるや」と疑問形ですが拒食症は食べても食べて
 も満足できないので苦しい病気ですから快いには繋がらない気がします。川野里子さんがこの 
歌だか先々月鑑賞した「われひとり ひとりであれば蝉を食べいいようのなき午後のしずけさ」
 (原作の蝉の字の旁は、口2つに早)だかについて鑑賞文で「かわいそう」と書かれていたの
 ですが、その文章が見付からないので真意は分からないのですが。(鹿取)
★日溜まりと枯れ葉をどうとるかって事ですよね。日溜まりと落ち葉では駄目だったと思います。
 季節に対するデリケートな反応だけど虚ですよね。そういうものを食べても食べ尽くせない。
 どんなに食べてもそれは虚であって実じゃないから太らないですよね。焦燥感とか飢餓感を言
 っているのかな。(A・K)
★拒食症なるやって、叙情性を排除していると思っていたのですが。日溜まりや枯れ葉は晩秋に
 入る前の季節を表している。(慧子)
★過食症や痩せていくということから心地よい歌だとは思いませんでした。(岡東)
★歌の中に「われ○○」と断りがある歌がありますが、やっぱり断りがなかったら主語はわれっ
 て考えていいのですか?(真帆)
★そうですね。われをわざと計算で入れない場合もあるし、音数が足りなくて入らなかった場合
 もあると思います。書いてなければわれと読んでいいとは思いますが、われ=渡辺松男では決
 してないのでそこは注意が必要だと思います。(鹿取)
★渡辺さんは具体を持ってきているけど抽象的なことを言っている。(A・K)


(後日意見)
 昨日の226番歌「体育の日背高泡立草繁りたべてもたべても食べつくせない」で書くべきだったが、前川佐美雄の『白鳳』に次のような歌がある。(鹿取)
  億万の春のはなばな食べつくし死にたる奴はわれかも知れぬ


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渡辺松男の一首鑑賞 2の226

2019-11-27 19:10:13 | 短歌の鑑賞
  ブログ版渡辺松男研究2の29(2019年11月実施)
     Ⅳ〈悪寒〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P145~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉真帆    司会と記録:鹿取未放




226 体育の日背高泡立草(せいたかあわだちそう)繁りたべてもたべても食べつくせない

(レポート)
  背高泡立草につく害虫、例えばアブラムシになりかわって詠んだ歌のようだ。キク科の背高泡立草の咲き誇る様をひきだす具体として「体育の日」は初句に置かれたのだろう。荒地一面が真っ黄色に見えるほどの風景が、満腹感とともに不思議と実感として伝わってくる。この一首で読者は、人ではない例えばアブラムシになることで、食するという体感を持って、風景をみるという視覚的体感が得られることを知る。(泉)


(紙上参加)
 体育の日、背高泡立草は大繁殖しているので、食べても食べつくせないよ、と。この時代の秋の川辺の風景をうたっている。体育の日は大概晴れている。そんな秋晴れの下で、外来種の背高泡立草は川辺や空き地で大繁殖して、在来種を駆逐しつつある。だから、駆除したいけれど、かなわないということか。けれど、最近は自ら減りつつあるので、心配はいらないかもしれないですね 。(菅原)


(当日意見)
★繰り返しの食べても食べてもがいいなと思いました。(岡東)
★セイタカアワダチソウは菊科の植物だから秋を表すために体育の日を持ってきたのかな。(泉)
★体育の日は220番(鶏と睨みあってはおちつかず天高き日のフランケンシュタイン)の天高
 き日のように読みました。そこに妄想が入り込んでいる。食べているのは妄想。でもアブラム
 シに成り代わってうたっているというのも面白い。(慧子)
★短歌に主語が無いときはわれが主語ですが、この下の句「食べても食べつくせない」はリアリ
 ティがありますね。人がセイタカアワダチソウを食べる訳が無いので、雲になったりするよう
 に虫になったんじゃないかなと思ったのです。慧子さんのお話は妄想の中で自分が背高泡立草
 を食べるんですね。そうかもしれないなあ。(泉)
★まあ、でも、虫とは書いてないので、私はなるべく書いてあるとおりに読もうと思います。そ
 れが松男さんの言う「リアリズムの眼鏡」を掛けない方法かなあと。だから〈われ〉が背高泡
 立草を食べるんですね、やっぱり。次の歌は日溜まりや枯れ葉を食べますから。(鹿取)
★体育の日の設定はものすごく意味があると思います。体育の日は人間も全部生きるということ
 に肯定的で全てが満ちているような感じ、力があふれて。背高泡立草もものすごい勢いで伸び
 てきますよね。だから体育の日の背高泡立草ということで全てが肯定的で勢いがあってエネル
 ギッシュでがーっと全部が伸び合っている。国中、世界中、人間が生きているということにガ
 ーと進んでいくときというのは人間の欲望も満足度がなくて満ちてくるので、「食べても食べて
 も食べつくせない」。体育の日も泡立草も人間の欲望も前に向かって生気に満ちあふれている。
 体育の日というのを意味無く持ってきているのではないと思います。アブラ虫にまでは行かな
 いんじゃないか。設定の仕方について渡辺松男という人はどうなんですか。(A・K)
★A・Kさんの意見だと〈われ〉は体育の日や背高泡立草の生命力に全く溶け込んでいるという
 ように感じられますが、それだと片っ端から食べていくという表現になるんじゃないかなあ。
 最後の「食べ尽くせない」には不全感があるように思います。むしろ、体育の日や外来種の背
 高泡立草に〈われ〉の「個」が浸食されるのが嫌で抵抗しているんだけど相手が手強すぎて「食
 べ尽くせない」。だからたじたじとしている。(鹿取)
★なるほどね。私も同じです。たじたじに説得力があります。渡辺さんは世界の貪欲さに対して
 「食べ尽くせない」というけど食べ尽くせないから素晴らしいではなくて、ちょっと違うんじ
 ゃないかなあと言っていらっしゃる。(A・K)
★体育の日の一斉にならえ、みたいな姿勢が作者にはなじめないのじゃないかな。攻め込んでく
 るような外来種も嫌だ。(鹿取)
★二つセットでエイエイオーという感じですね。分かりました。(A・K)


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渡辺松男の一首鑑賞 2の225

2019-11-26 19:36:12 | 短歌の鑑賞
   ブログ版渡辺松男研究2の29(2019年11月実施)
     Ⅳ〈悪寒〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P145~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉真帆    司会と記録:鹿取未放



225 胡桃の実ねずみの脳のようなれど怖がらないで割ってごらんよ

  (レポート)
 字面のまま読むと、クルミを手に乗せている人がもう一人に、「割ってごらんよ」と言っている場面になる。「怖がらないで」が逆に怖ろしさや不気味さを増幅させる。「割ってごらんよ」の誘いも怖ろしい。(真帆)

(紙上参加)
胡桃を割るとその実は鼠の脳のようだからなんだか気味が悪い。でも割って食べればおいしいよ。ちいさな子に話しかけるような下句が優しくてあたたかくて、でもなんだかちょっと怖い歌。(菅原)

     (当日意見)
★よく分かる歌ですよね。ただ わざわざ似ていると言われると怖い感じはしますね。(鹿取)
★言われると不気味な気がしますね。(岡東)

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