ブログ版渡辺松男研究2の29(2019年11月実施)
Ⅳ〈悪寒〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P145~
参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:泉真帆 司会と記録:鹿取未放
229 ひっそりと竹節虫(ななふし)として生きしもの竹節虫として乾きてゆけり
(レポート)
ナナフシはナナフシとして死んでゆく。しかしそれが叶うのは「ひっそりと」生きたものだという。自分が自分として生きてゆき自分として死んでゆく、このあたりまえのような命の生死が人間には難しい。そこには「ひっそりと」生きてゆけない人間のエゴがあるからではないか。 渡辺松男が昆虫や動物や植物たちを詠うとき、そこには敬意が滲む。エゴのない命への敬意があるのではないだろうか。(泉)
(紙上参加)
ナナフシは茶色の細い棒のような 目立たない、奇妙な地味な虫。ひっそりと生きて、生きていた時のそのままの形で死んでいる。丁寧な上句にこの虫への敬愛のようなもの、注目されることもなくただその命を全うする小さな生き物の姿、生き方への共感のようなものが感じられる。そして下句にその生と死への哀れみのようなものが感じられる。似たような人の一生への心寄せもあるのかもしれない。じんわりとしたいい歌だと思う。(菅原)
(当日意見)
★お二人とも生きているものに対する敬意と書いていらして共感しました。(A・K)
★この歌は東京歌会に出されて、馬場先生が「ほんとかねっ」て周囲にだけ聞こえるようにおっ
しゃったのを覚えています。記憶違いだったらごめんなさい。(鹿取)
★ナナフシって季節はいつですか?(慧子)
★先日、鎌倉の古我邸でナナフシを見ました。道の石に張り付いていました。(岡東)
★ネットには11月に繁殖したって記事が出ていますね。(鹿取)
★じゃあ、群馬の人だからナナフシが空っ風で乾いていても不思議じゃないですね。先生は知
らなかったから「ほんとかねっ」っておっしゃったのじゃないですか。(慧子)
★いや、この歌のつじつまの会わせ方について疑問を提示されたというふうに聞きました。(鹿取)
(後日発言)
当日発言でうまく言えなかったが、馬場先生の呟きは「そんな都合よくいくかね」って感じに私には聞こえた。もちろん、松男さんはそういう竹節虫の姿を目撃されたことがあったかもしれないが、目撃してないからうたってはいけない訳ではない。それがほんとうであるかないかは問題ではなく、先生はどう表現するかを問うている。ひっそり生きたからひっそり乾いていくとも限らないんだよと。過酷な戦争を潜ってきた人の重い言葉だと思う。(鹿取)
(レポート全体のまとめ)
一連を振り返ると220番「鶏と睨みあってはおちつかず天高き日のフランケンシュタイン」から一貫したテーマがあるように思う。それは、人間が人間として生き人間のまま死んでゆく、その尊さや厳しさ、人である存在の寂しさというテーマだ。それらを、フランケンシュタインや鼠の入り込んだ脳などの比喩を使いながら詠ってきた一連だったのではないか。227番「掬いては日溜りをたべ枯れ葉たべ過食症なるやわれ痩せてゆく」は欲望のまま過食症と化す人間がついには心や魂の痩せた生き物となる愚かしさ、消し去りたくも消せないエゴ、そういったものを背負いつつ人は生きて行かなければならないと詠む。その思いに至った時の寂しさが228番「すこしだけ話しかけてもよいでしょうか胡瓜の蔓に巻かれたき今」に詠まれるのではないか。植物の命の尊さに心打たれ、胡瓜に頭を垂れ許しを乞いたくなるほどの謙譲心だ。けれどこういった解釈は文字に書くと作品を面白くなくしてしまうようにも思う。が、しかし、渡辺松男の歌はやはり、単なるオモシロ歌とは全く別物の、作者の世界観に貫かれた深い文学作品であることは間違いない。だからこそ何年も何度も読み返したくなる歌集なのだと思う。(泉)
Ⅳ〈悪寒〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P145~
参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:泉真帆 司会と記録:鹿取未放
229 ひっそりと竹節虫(ななふし)として生きしもの竹節虫として乾きてゆけり
(レポート)
ナナフシはナナフシとして死んでゆく。しかしそれが叶うのは「ひっそりと」生きたものだという。自分が自分として生きてゆき自分として死んでゆく、このあたりまえのような命の生死が人間には難しい。そこには「ひっそりと」生きてゆけない人間のエゴがあるからではないか。 渡辺松男が昆虫や動物や植物たちを詠うとき、そこには敬意が滲む。エゴのない命への敬意があるのではないだろうか。(泉)
(紙上参加)
ナナフシは茶色の細い棒のような 目立たない、奇妙な地味な虫。ひっそりと生きて、生きていた時のそのままの形で死んでいる。丁寧な上句にこの虫への敬愛のようなもの、注目されることもなくただその命を全うする小さな生き物の姿、生き方への共感のようなものが感じられる。そして下句にその生と死への哀れみのようなものが感じられる。似たような人の一生への心寄せもあるのかもしれない。じんわりとしたいい歌だと思う。(菅原)
(当日意見)
★お二人とも生きているものに対する敬意と書いていらして共感しました。(A・K)
★この歌は東京歌会に出されて、馬場先生が「ほんとかねっ」て周囲にだけ聞こえるようにおっ
しゃったのを覚えています。記憶違いだったらごめんなさい。(鹿取)
★ナナフシって季節はいつですか?(慧子)
★先日、鎌倉の古我邸でナナフシを見ました。道の石に張り付いていました。(岡東)
★ネットには11月に繁殖したって記事が出ていますね。(鹿取)
★じゃあ、群馬の人だからナナフシが空っ風で乾いていても不思議じゃないですね。先生は知
らなかったから「ほんとかねっ」っておっしゃったのじゃないですか。(慧子)
★いや、この歌のつじつまの会わせ方について疑問を提示されたというふうに聞きました。(鹿取)
(後日発言)
当日発言でうまく言えなかったが、馬場先生の呟きは「そんな都合よくいくかね」って感じに私には聞こえた。もちろん、松男さんはそういう竹節虫の姿を目撃されたことがあったかもしれないが、目撃してないからうたってはいけない訳ではない。それがほんとうであるかないかは問題ではなく、先生はどう表現するかを問うている。ひっそり生きたからひっそり乾いていくとも限らないんだよと。過酷な戦争を潜ってきた人の重い言葉だと思う。(鹿取)
(レポート全体のまとめ)
一連を振り返ると220番「鶏と睨みあってはおちつかず天高き日のフランケンシュタイン」から一貫したテーマがあるように思う。それは、人間が人間として生き人間のまま死んでゆく、その尊さや厳しさ、人である存在の寂しさというテーマだ。それらを、フランケンシュタインや鼠の入り込んだ脳などの比喩を使いながら詠ってきた一連だったのではないか。227番「掬いては日溜りをたべ枯れ葉たべ過食症なるやわれ痩せてゆく」は欲望のまま過食症と化す人間がついには心や魂の痩せた生き物となる愚かしさ、消し去りたくも消せないエゴ、そういったものを背負いつつ人は生きて行かなければならないと詠む。その思いに至った時の寂しさが228番「すこしだけ話しかけてもよいでしょうか胡瓜の蔓に巻かれたき今」に詠まれるのではないか。植物の命の尊さに心打たれ、胡瓜に頭を垂れ許しを乞いたくなるほどの謙譲心だ。けれどこういった解釈は文字に書くと作品を面白くなくしてしまうようにも思う。が、しかし、渡辺松男の歌はやはり、単なるオモシロ歌とは全く別物の、作者の世界観に貫かれた深い文学作品であることは間違いない。だからこそ何年も何度も読み返したくなる歌集なのだと思う。(泉)