かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 2の117

2018-12-31 18:55:25 | 短歌の鑑賞
  ブログ版渡辺松男研究2の16(2018年11月実施)
    【樹上会議】『泡宇宙の蛙』(1999年)P80~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、T・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:泉真帆   司会と記録:鹿取未放


117 ネクタイをつけたままでも翔びたちて樹の梢にて会議をやろう

      (レポート)
 この連作は、机上会議をもじっての〈樹上会議〉だろうか。渡辺松男短歌のファンならばこのタイトルに、これから始まる松男ワールドへと心ときめくだろう。とるものとりあえず職場から戸外へ飛び出そうということを、「ネクタイ」という具体で表現するところが松男短歌の妙味。いま職場で働いている人間達がそのまま樹木の上へと飛び立ち、ネクタイをしたまま鳥人間に移り変わってゆくような幻想をたのしめる一首だ。深読みすれば閉塞感を詠む社会詠とも鑑賞できよう。しかし描かれたファンタジー短歌の世界に入って行くときめきの方がそれをまさる。目に動きの楽しめる一首だ。(真帆)


     (当日意見)
★私は今回全くわからなくて。レポートをとってもいい解釈だと思いました。導入の歌としてよく
 わかります。渡辺松男という人は深くものを考えていらっしゃる人ですが、こういう独特のファ
 ンタジーの世界があるんですね。ただ「まま」とか「でも」というのはどういう感じなのでしょ
 うか?(A・K)
★ネクタイをつけたままでもいいから、という感じです。とるものとりあえずとにかく戸外へ翔び
 たとうよということを説明ではなく、ネクタイという具体で言っているところがいい。渡辺さん
 は背景に思想や哲学があるけれど、それを説明せずにファンタジーという手法で表している。で
 もそれをあんまり言っちゃうと面白くなくて、作品的にはこのままで楽しむ のがいいかなあと。
   (真帆)
★真帆さんのレポートを読んで、そうかファンタジーと取るのかと思いましたが、私はこの一連は
あまりよくわからなくて、特に前半は何か全体にザラッとした感触があるような気がして。『寒
 気氾濫』にも職場の歌があって、それは何か純じゃないというか濁りが入り込んでいるようで好
 きじゃなかったです。それは私の勝手な理想の押しつけで、現代に働く人間がピュアでいられる
 はずないということはよくわかっているのですけど。あんまり考えすぎないで、素直にファンタ
 ジーと読んでたのしめばいいのか、と今聞いていて思いましたが。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠 36(アフリカ)

2018-12-30 18:36:41 | 短歌の鑑賞
  馬場あき子の外国詠4(2008年1月実施)
  【阿弗利加 2 金いろのばつた】『青い夜のことば』(1999年刊)P162~
  参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、T・S、高村典子、
       藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
  レポーター:渡部慧子      司会とまとめ:鹿取 未放
 
36 人間は大きくあれば蠅などとたたかはずゆつたりと羊頭を吊る

     (まとめ)
 上句がゆったりとしていておおらかで魅力的なうたである。レポーターのいう羊頭狗肉はこの歌では関係ないし、蠅をマスコミ報道などに見立てるのは穿ちすぎだ。ユーモアを含んだ上句は面白く、下の句は事実そのままの情景ととって十分よい歌に思われる。
 なお、先月鑑賞した中にも蠅の歌があった。(鹿取)
ベルベル族のテントに入りてミントティ飲む朝の顔蠅まみれなり  馬場あき子
         

      (レポート)
 〈羊頭狗肉〉つまり〈羊頭を掲げて狗肉を売る〉ということわざがある。狗肉とは犬の肉で下等なものとされているので、看板に偽りありという意味。さて掲出歌、実際に羊頭を吊りそこへ蠅もたかっている現場へ作者は来合わせた。このスーク内の肉屋は看板どおりの商いをしているのであろうが、吊られているものから〈羊頭狗肉〉という言葉を連想し、蠅をマスコミ報道などにみたてたとも思える。今も昔も、世の東西を問わず、食品偽装という想像も可能な一首なのだが、掲出歌の冒頭に注目したい。「人間は大きくあれば」と詠うとおり、この肉屋は蠅を追うでもなく泰然と商いをし、それに対し不潔などとさかしらにつぶやかない作者の面構えのみえる一首だ。(慧子)
                                       
     (当日意見)
★面白がっている。文明に対する批評の思いがある。(藤本)


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馬場あき子の外国詠 35(アフリカ)

2018-12-29 21:34:58 | 短歌の鑑賞
  馬場あき子の外国詠4(2008年1月実施)
  【阿弗利加 2 金いろのばつた】『青い夜のことば』(1999年刊)P162~
  参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、T・S、高村典子、
       藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
  レポーター:渡部慧子      司会とまとめ:鹿取 未放
 

35 潰れたやうな時間の澱みスークには売らるる鶏(とり)の眠れるにほひ

     (まとめ)
 上句、感覚的だが雑多でとらえどころのないスークの本質がよく捉えられている。下句の「鶏の眠れるにほひ」は映像と臭覚を伴ってスークの雰囲気をよく伝えている。(鹿取)


(レポート)
 その場スークを詠いおこすため「潰れたやうな時間の澱み」とまず言い切る。旧街区として保存の意味もあろうが、時代からとりのこされたようなスークを理屈抜きで感じさせるうまい比喩である。同時に結句「鶏の眠れるにほひ」と実によく照応しており、このフレーズが一首全体によく働いている。そして下の句「鶏の眠れるにほひ」とは、言えそうで言えない実に端的で上手い表現だ。スークは業務ごとにまとまって営業していていろいろな場所があるらしいが「鶏の眠れるにほひ」のする所とは、何か虚無に支配されているようだ。そんな一区画に踏み込んだのであろう。
  売られたる鶏は水見てゐたるかな二丁艪に漕ぐ蘇州運河に  馬場あき子
                                       (慧子)







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馬場あき子の外国詠 34(アフリカ)

2018-12-28 20:00:50 | 短歌の鑑賞
  馬場あき子の外国詠4(2008年1月実施)
  【阿弗利加 2 金いろのばつた】『青い夜のことば』(1999年刊)P162~
  参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、T・S、高村典子、
       藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
  レポーター:渡部慧子      司会とまとめ:鹿取 未放
 

34 モロッコのスークにモモタローと呼ばれたり吾等小さき品種の女

     (まとめ)
 「モモタロー」のカタカナ表記がいかにも外国人の発音のようである。モモタローはモロッコの人々がなじんだ数少ない日本のイメージなのだろう。彼等が「モモタロー」と呼ぶ由来は童話からかトマトの品種名からか不明だが、トマトの「モモタロー」に限れば大玉の品種なので下の句の「小さき品種」に繋がるところがちょっと困るが、トマトだから大きいといってもたかがしれている。作者は「モモタロー」と呼ばれて一瞬ひるんだが、それを跳ね返す気分で「小さき品種」なのだと開き直っている。
 レポーターは「ちいさいけれど鬼退治をし侮れないものとして『モモタロー』と呼ばれた」と書いているが、モロッコの人々は桃太郎の話を詳細に知っているとは思えない。
 外国へ行くと、知っているかぎりの日本語で話しかけられることが多い。それらはたいてい親しみをこめた呼びかけによってものを売ろうとしているのだ。どこの国の観光地でだったか、日本人に向けて「貧乏プライス」という客引きの言葉がかかっているのをテレビで見た。「貧乏」の語の持つニュアンスを詳しくは知らない客引き達にとって、それは軽蔑ではなく単純に「安くしておくよ」くらいの意味で使っていたのだろう。
 しかし、レポーターが引いているジャップの歌を考えるとまてよ、とも思う。「吾等小さき品種の女」と受けるからにはやはり「ジャップ」というほどひどい差別意識はなくとも、小さな東洋人をあなどる気分が潜んでいる言い方だったのだろうか。
 ※ルール違反だが、後日作者に直接伺ったところ、「明るい揶揄」の気分だろうとおっしゃって  いた。「蔑称とは感じなかった」そうだ。(2009年2月 追記)
(鹿取)
    
      (レポート)
 各国の旅行者が行き交い人種の見本市のようなスークにおいて、日本人女性が「モモタローと呼ばれたり」と詠っている。桃から生まれた者の裔としての小ささからそう呼ばれたと読めるがひそかな他の意図が感じられる。ちいさいけれど鬼退治をし侮れないものとして「モモタロー」と呼ばれたのだよ、鬼の研究者ならではの心の動きと、更に結句「吾等小さき品種の女」に、旅における自分の異形めいたものとして仮定しているような気分があり、「品種」の語にそれが強く感じられ、フィクション性の高い一首である。
 同行した清見糺の一首。 (慧子)
   背中からジャップという語に狙撃されメディナでわずかな買物をする 


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馬場あき子の外国詠 33(アフリカ)

2018-12-27 21:13:48 | 短歌の鑑賞
  馬場あき子の外国詠4(2008年1月実施)
  【阿弗利加 2 金いろのばつた】『青い夜のことば』(1999年刊)P162~
  参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、T・S、高村典子、
       藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
  レポーター:渡部慧子      司会とまとめ:鹿取 未放
 
33 鞄ごと跳ねて喜々たる少女ふと迷路に消えてここより自由市場(スーク)

     (まとめ)
 レポーターはこの少女に若き日の作者を重ねる解釈にこだわっているが、その必要はないだろう。初句の描写にいかにも楽しげな少女の様子が見えるようだ。こういう元気の良い少女はどこにもいるものでかわいいなあと見ていたら、外国人には迷路のように見える路地に入っていってしまった。ここからはスークと呼ばれる野外市場である。すこし恐いが好奇心いっぱいな作者が思われる。T・Hのは穿った意見だが、この歌に少女の悪意を見てしまうとこの歌の弾んだ気分を害してしまう。謎程度でとどめた方がいいだろう。(鹿取)
                    

     (レポート)
 旅のつれづれ、作者の前を行く少女に目がとまる。持っている鞄は少女の夢や未来を象徴していて、いい小道具である。作者は幼子、少女、乙女にすずやかであたたかい目差しを送る人。「鞄ごと跳ねて」にもそれが感じられる。
 作者が自身を言う懐かしみぐせもあり、旅の感傷もあり、その少女に若き日の自分を見ていた。すると迷路に少女が消え、そこはスーク。鮮やかな場面転換があり、作者は現実に立ち返る。このような鑑賞が成り立つのは、一首に自然な構成のうまさがあるからだが、それは作者の在り方に裏打ちされたうまさである。行きずりの少女に自分を見、スークに来れば現実にかえるという、自由闊達さ。それは今という時に渾身であれば、その場の感慨に対して、それと知らず、すがすがしい断念を伴っていると言えないだろうか。そんなことが思われて味わい深い一首である。(慧子)


           (当日意見)
★実はこの少女は観光客をおびき寄せる役割をしているのかもしれない。(T・H)

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