かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

清見糺の一首鑑賞  136

2021-07-31 18:35:21 | 短歌の鑑賞
  ブログ版清見糺短歌鑑賞21 99年   鎌倉なぎさの会 鹿取 未放


136 わたくしの脳が死んでもよれよれの臓物だれにもあげられません
        かりん99年全国大会

 大会で馬場あき子に「肉体の老いの悲しみを歌った、臓器提供を題材として衰えの自覚を歌ったうまい歌」と評された。
 ちなみに、岡井隆は「臓器論」を同年「未来」の五月号に、「臓器移植への一瞥」を「短歌朝日」同年七・八月号に発表し、臓器移植に関する歌を披露している。

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清見糺の一首鑑賞  135

2021-07-30 19:19:56 | 短歌の鑑賞
  ブログ版清見糺短歌鑑賞21 99年   鎌倉なぎさの会 鹿取 未放


135 みずがね色の雨降る夢にうからいてわれを見ぬ父もの言わぬ母
          「かりん」99年1月号

 「うから」といっているが、父母以外にいるとは思われない、うら寂しい光景だ。父はいるけれども自分を見てはくれないし、母も無言である。そのうえ折からみずがね色の冷たい雨が降っている。孤独な心象風景である。


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渡辺松男の一首鑑賞  274

2021-07-29 19:42:47 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究33(15年12月実施)
   【全力蛇行】『寒気氾濫』(1997年)112頁~
    参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、藤本満須子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取 未放


274 堂内のうすらあかりに伏し目なる観音菩薩は男とぞいう      

       (レポート)
【鑑賞】くわんのん の しろき ひたひ に やうらくの
    かげ うごかして かぜ わたる みゆ   『鹿鳴集』一九四〇年刊
 会津八一の歌に奈良の法輪寺の十一面観音菩薩立像を詠んだこんな歌があった。この観音菩薩も男性なのだろうか。「観音のサンスクリット名は男性名詞である」という。が、観音に種々の変化身があるため、オリエント(イランを含む)母神信仰的要素がこれを通じて仏教に入り込み、〈准胝観音〉〈馬郎観音〉〈多羅尊観音〉などを生み出した」という。(世界大百科事典より)そもそもは男性だったということか。性別がどちらともつかないというのは却って今日的で興味深い。連作「全力蛇行」の最後に据えられたこの一首は、ここに観音菩薩という新たなる男性性が出現し、同志を得、おおいに意気を挙げている作者が表れているのではないだろうか。はるかなる自己の男性性への探求が一層深められる予感がした。(真帆)   


     (当日意見)
★作者は観音菩薩って女ばかりと思っていたのでしょうかねえ。男だったという発見をう
 たっている。よく分かる歌だと思うんですけど。(藤本)
★どういうふうによくわかるんですか?わたし、あんまりよくわからないのですけど。観
 音像ってわりとなよやかな女性的な肢体をしていますよね。それなのに男なんだって、
 …それは分かりますが、その先です、分からないのは。何をいいたいのかな。(鹿取)
★彫り方で男性に彫っているか女性に彫っているか想像がつくじゃないですか。(藤本)
★彫り方によって観音様の性って変わるんですか?するとこの作者の前の像は男性的に彫
 られていたんですか?それだったら、さっき藤本さんが男だったんだという発見とおっ
 しゃったけど、発見するまでもない気がしますが。(鹿取)
★会津八一の歌なんかはとても女性的な観音様ですよね。伏し目がちな像を女性だ
 と思っていらしたのに男性だったと。「ぞ」で強調していらっしゃいますから。
   (曽我)
★では、角度を少し変えて、真帆さんが「はるかなる自己の男性性への探求が一層
 深められる」と書いていらして卓見だと思うのですが、この一連、抹香鯨の射精
 や求愛の為に声を張り上げて鳴く葦切とか、ふぐりが膨らむとか男性性に拘って
 いますよね。その締めくくりに観音菩薩は男ぞと言っている訳だから、へええ、
 男だったのかと驚いただけではないはずです。何か含みがあるはずなんです。
   (鹿取)
★うすらあかりに伏し目だったから女性的にも見えたということでしょうかねえ。
   (藤本)
★いや、さっきから私が聞いているのはその先です。男性性に拘っているこの一連
 を統べているものは何でしょうね。(鹿取)
★渡辺さんの歌集を読んできて、自分という生、生きものがなぜか男に生まれてき
 たということに対して、ずっと考え続けてきたけど、ここで観音様に遇って、あ
 あここにも男がいるのかと。(真帆)
★自分の中の男性性の発見、たまたま自分が男なのはどういうことかと探求してき
 た自分の前に、男である観音が現れたと。その新鮮さですか。(鹿取)
★男性という概念がひろがった。(真帆)
★いやあ、それは面白いですね。伏し目して女っぽいけど、実は男性なんだという
 単純な発見ではなくて、もっと哲学的な発見。一連の最後に置いた歌で男性という
 概念の領域を広げたわけね。(鹿取)
★話を聞いているとなるほどと思うけど、一人ではとてもそこまで考えられないわ。
    (藤本)
★集まって話し合うって大切ですよね。何かもう死語みたいだけど、いわゆる「ア
 ウフヘーベン」できる。他の人の話につられて自分で思ってもみなかった考えが
 引き出されたりする。それがみんなでやる意義ですよね。(鹿取)   
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渡辺松男の一首鑑賞 273

2021-07-28 18:23:11 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究33(15年12月実施)
   【全力蛇行】『寒気氾濫』(1997年)112頁~
    参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、藤本満須子、鹿取未放
レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取 未放


73 立ったまま枯れているなんてわりあいにぼんやりとしているんだな木は

       (レポート)
【解釈】(地に根をはり、天に枝をひろげ、朝の光も夜の闇も、黙だし見続けている長老のような樹木だと常々思っていたが、してみると)木というヤツはあんがいぼんやりとしているなんだなあ、という歌か。
【鑑賞】このうたの新味の源泉に、詠う対象物のうちがわに入り、そのものになって抒情してゆける渡辺松男の才能がみてとれる。なんど読んでも滋味深いうただなあと思う。(真帆)


         (当日意見)
★からかっているようでいて木のことを慈しんでいる。(曽我)
★木を枯れていると思ったことはないので、どんなに裸になっても生きていると思ってい
 るから、ぼんやりとしているとはどういうことでしょう?恥ずかしげもなく裸になって
 いるということでしょうか?(M・S)
★この歌の「枯れている」は皆さんと解釈が違って、ほんとに枯れている、立ち枯れて
  いる、もう死んじゃっている、そういう木のことをうたっている歌だと思ってきたし、
 今もそう思います。春になったらまた芽吹いてくる、そういう木じゃないんです。立っ
 たまま枯れている木って、高い山なんかにあるじゃないですか。だから自分が死んでい
 ることにも気がつかない、そういう木に向かって感慨を述べている訳です。ぼんやり
 したままで自分の死をやりすごしてしまうすごさっていうようなものに、むしろ敬
 愛のようなものを感じているのでしょう。ひらかなの多い表記で口語調のとぼけた
 言いまわしが、慈しみにみちて優しいと思います。また春に再生する木に向かって、
「わりあいにぼんやりとしているんだな」って言わないと思います。(鹿取)
★落葉しきって針のようになっている木を私は想像していたんだけど、枯れていてもまた
 再生するから「わりあいにぼんやりとしているんだな」って思っているのだと。鑑
 賞が浅かったですかね。(藤本)
★葉を落としきって枝だけになっている木を、枯れているとはいわないと思いますが。私
 は立ち枯れて死んでいる木が対象と思いますが、作者の意図は知りません。まあ、様々
 な鑑賞があっていいんじゃないですか。私は大好きな歌です
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渡辺松男の一首鑑賞  272

2021-07-27 18:12:13 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究33(15年12月実施)
   【全力蛇行】『寒気氾濫』(1997年)112頁~
    参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、藤本満須子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取 未放


272 われらふぐりが膨らんでゆき綿雲のああふんわりと浮くあきの空

       (レポート)
【解釈】僕らのふぐりは膨らんでゆきふんわりする、まるで秋空に浮かんでいる綿雲の心地だ。
【もう一つの解釈】作者の心はいま「ふぐり」と同化しているのだろう。綿雲がふんわりふんわり浮く秋空。みているとその綿雲もふぐりのように見えてくる。(真帆)


       (当日意見)
★「われらふぐりが膨らんでゆき」で切れる2句切れだと思います。それから評者が 
 悩まれた初句は「われら」=「ふぐり」ではなく、われら「の」ふぐりという所有
 格の「の」が省略された形だと思います。われのふぐりが、と単数だったら分かり
 やすいんだけど、複数になっているからどういう場面を想像したらいいのか、難し
 いですね。少年期の男の子の歌って読めばまあ分かるけど、たぶんそういう解釈で
 はないと思うし。(鹿取)
★ふぐりから秋の空に繋げるところが詩的で面白いですね。そんな難しく考える歌ではな
 いと思います。(曽我)
★すると、われらのふぐりが膨らんでいく身体感覚と、空にはふぐりに似た雲がふわふわ
 と浮いているなあという感慨。それだけ?(鹿取)


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