かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 339 スイス③

2024-12-31 10:45:27 | 短歌の鑑賞

 2024年度版 馬場あき子旅の歌47(2012年1月実施)
      【アルプスの兎】『太鼓の空間』(2008年刊)170頁~
     参加者:N・I、K・I、井上久美子、崎尾廣子、鈴木良明、
              T・S、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:藤本満須子         司会とまとめ:鹿取 未放    
               
    
339 クールといふ街は週末の夜の深さ月下の美人咲かんと動く

               (レポート)
 「かりん」2006年9月号に次の7首が載っている。参考までに挙げる。
   雨深き一夜さかのぼる闇の中月下美人の白きところあり
   月下美人二つ咲きたり床の辺に寝ななといへど匂ひて寝(い)ねず
   一夜花咲くを見てをりゆるやかに咲ききりたれば心乱るる
   一夜見てきぬぎぬのごとしをれなばいかにかせまし月下の美人
   月下の美人こよひ床の辺にかをれるを明けなばひとりわが寝ねてあらん
   対きあひて酌むゆたけさもさびしけれ人去りてわれと月下の美人
   アンデルセンの夢にもなかりし月下美人咲かんとゆらぐ白に觸れたり

 スイスは国土の半分以上が山岳地、四千メートルを超える峰峰と切り立った深い谷、鉄道路線が網の目のように広がり、登山電車が繋いでいる。ここはスイス最古の町クールだ。オーストリアに接するこの町は歩いてまわるのにちょうどいい大きさという。小さい町の小さいホテルに作者は一泊した。作者は今まさに咲こうとしている月下美人を夜のしじまにじっと待っているという情景だろう。結句の「咲かんと動く」の終止形が今まさに咲こうとしている月下美人、その瞬間をじっと待っている作者の期待と興奮を伝えている。臨場感あふれる一首。(藤本)


          (まとめ)
★冒頭に挙げられた7首の歌を読むと、3首めに「床の辺に」とあるので、ホテルの個室なのだろう。それぞれの部屋に月下美人があったのか、作者は先生の立場だったので特別置かれたものかは分からないが。たとえ、他の部屋から賑やかな声が聞こえていたとしても、この歌では捨象されているのだろう。「動く」という動詞によってスローモーション画像のように花弁が開いていく様子をよく伝えている。(鹿取)

 

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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 370

2024-12-30 16:13:28 | 短歌の鑑賞

 2024年度版 渡辺松男研究44(2016年12月実施)
     『寒気氾濫』(1997年)【半眼】P148~
      参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター:渡部 慧子       司会と記録:鹿取 未放          

 

370 悲しみは深すぎるときしずかにて風なかの樹の揺れぬ一本


              (当日意見)
★ざわめいている樹の中で一本だけ揺れない樹を見た時に、その悲しみは深すぎるほど静かなんだと思ったと思います。先に光景を見ていると。(M・S)
★私は悲しみが深すぎて動くことさえできない無力な状態と取りました。風の中で動かない樹を見て自分の気持ちを投影していると思いました。(真帆)
★私は書いてあるとおりに読もうとしているので、樹の歌は樹の歌として読みました。揺れない一本を見て悲しみは深すぎると静かなんだなあ、あの樹もそれで揺れていないんだと〈われ〉が見ている。M・Sさんが「ざわめいている樹の中で」とおっしゃったので以前に鑑賞した「単独者」の中の次の歌を思いだしました。「俺はいわゆる木ではないぞと言い張れる一本があり森がざわめく」。この俺とは対称的な木ですね。(鹿取)

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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 369

2024-12-29 12:41:01 | 短歌の鑑賞

 2024年度版 渡辺松男研究44(2016年12月実施)
     『寒気氾濫』(1997年)【半眼】P148~
      参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター:渡部 慧子       司会と記録:鹿取 未放          

 

369 ちぢまりえぬ距離など思いあいながら半眼となる夕暮れの樹々

               (レポート)
 夕暮れになると私達は家に帰ったり、恋人と会ったりするものだが、樹と樹はちぢまりえぬ距離のまま思いあいながら半眼となると詠う。かなわないことを秘めていて夕暮れの頃の樹には崇高さがたちあがる。(慧子)
           

            (当日意見)
★私はうたってあるとおりに樹には目があって、それが夕暮れになると半眼になるというように解釈しました。13頁「恍惚と樹が目を閉じてゆく月夜樹に目があると誰に告げまし」。樹と樹というのは動けないわけで、だから自分から距離をちぢめてくっつくことは出来ないけど、いろいろ感じてはいるのでしょう。隣にある樹が心地よいとか、あの樹のお蔭で陽が当たらないから邪魔だなあとか感じているはずですよね。細胞同士だって分化の過程で君が肺になるなら、僕は心臓になるよとか感応し合っているらしいですから(福岡伸一説)。松男さんの歌を読む時、「吹けばかまきりの子は飛びちりあなたはりありずむのめがねをかけているだけ」(『〈空き部屋〉』)の歌がいつも思い浮 かびます。だから私は書いてあるとおりに読もうと思っています。でも歌の読み方は自由ですから、いろんな解釈があっていいとは思います。(鹿取)
★河野裕子さんに木には耳があるという歌がありましたね。(慧子)
★レポーターは崇高ということを言っておられますが、仏像のよううな、悟りのようなことを感じられたのでしょうか?(真帆)
★はい、それを感じたと同時に、夕暮れと半眼をもっとよくみて鑑賞して、夕暮れの薄闇の力をレポートに書き込むべきだったなあと思っています。だけど、半眼って仏像によく使いますよね。その感じって夕方に通うものがありますよね。でも、半眼って仏教だけに限らないですよね。(慧子)


         (後日意見)
 当日意見の慧子発言にある河野裕子の「木には耳があるという歌」とは「捨てばちになりてしまへず眸(め)のしづかな耳のよい木がわが庭にあり」のことだろうか。これは眸も耳もありますね。また、当日意見の中で引用した13頁「恍惚と樹が目を閉じてゆく月夜樹に目があると誰に告げまし」の他にも松男さんには木に目がある歌が何首かある。これも既に鑑賞した「木を嚙みてわれ遁走すおもむろに木は薄き目を開けて見ていん」もその一首だし、『蝶』のこの歌も鑑賞した。「木のやうに目をあけてをり目をあけてゐることはたれのじやまにもならず」。「樹に目があると誰に告げまし」の 歌は、樹に目があると誰に告げようか、誰に告げてもきっと信じてはもらえないだろうなという気分。「樹に目がある」ということは日常的には誰にでも納得してもらえることではないので、「誰に告げまし」となっている。この歌の鑑賞の時、私も少しとまどった発言をしているが、月夜の美しさにうっとりと目を閉じてゆく樹の様子を素直に感じ取ればよかった。(鹿取)
 ※「恍惚と樹が目を閉じてゆく月夜樹に目があると誰に告げまし」の鑑賞は、下記のURLから御覧になれます。
  http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=eb50007a4e35863d5b1334900  ffeb557&p=136&disp=10 

 

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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 368

2024-12-28 14:02:11 | 短歌の鑑賞

 2024年度版 渡辺松男研究44(2016年12月実施)
     『寒気氾濫』(1997年)【半眼】P148~
      参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター:渡部 慧子       司会と記録:鹿取 未放          


368 泣きくずれそうなる幹をやわらかく樹皮は包みて立たせておれり

            (当日意見)
★作者がこの歌をどういう時に着想したのかなと思う。樹を見ていて泣き出しそうな樹だと思ったのかな。それを樹皮が支えているというんだけど、やわらかくという言葉がとても効いている。泣きくずれそうだというのと、うすい樹皮がやさしく包んでいる。(真帆)
★私、こういう樹を見たことがあります。下の方が洞穴になっていて、それでもしっかり立っている樹。でもそういう樹にやわらかさは感じないで外の強さを感じていました。樹皮ががっちり包んでいると私は見ていたのに、この人はやさしく包んでいると捉えている。わあ、違う視点で見ていらっしゃるんだと。(M・S)
★この松男研究で何回も引用して言っているけど、松男さんのエッセーで樹は、内側の大部分は死んでいて、生きているのは表層のほんの一部だけというような事を書いています。ここも幹の内側はぐちゃぐちゃとなっていて駄目なんだけど、樹皮がそういうものを包み込み支えて一本の樹として立っている。樹はそういうものという認識が根底にある。でも、泣きくずれそうなる幹とか、情感が ある仕立てになっている。(鹿取)
★泣きくずれそうなる幹って情ともとれますが、音を立てて崩れそうになっている樹の姿の実景ともとれますね。(真帆)
★樹の外側の方が若い訳ですね。(曽我)
★そうですね。樹皮が光っているという歌も鑑賞したことがありますが、あれも若いから生きて輝いているというのでしょうね。(鹿取)
         

              (後日意見)  
 たびたび引用しているが、この歌と関連のありそうな渡辺松男のエッセー「樹木と『私』との距離をどう詠うか」(「短歌朝日」2000年3,4月号)よりほんの一部を引用します。

 つまり木は表層の薄い生を内側の厚い死が支える構造で立ち続けている。死という大きな棒状の
塊に薄い生の皮を被せて存在しているのが木の実態である。     ( 中略 )
 木の内側の大部分が死んでいるということは木の不動性と垂直性とに関連している。木は生き方として不動性を選択したときに垂直性を宿命づけられた。一所に生き続けるためには上に伸びなければならないからだ。伸びることを、内側の死という塊が支え、そして塊は年々太っていくのである。

 引用していて私はこれまで誤解をしていたことに気がついた。内側の大部分の死を表層の薄い生が支えているのではなく、逆であった。つまり木を支えているのは「内側の厚い死」の方なのだ。しかし、掲出歌の場合はその関係が逆転している。「内側の厚い死」が泣きくずれそうになっていて、表皮の方がそれを支えている。「内側の厚い死」だって、時にはそんなふうに弱みを晒すこともあるのだろう。(鹿取)

 

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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 367

2024-12-27 12:10:08 | 短歌の鑑賞

 2024年度版 渡辺松男研究44(2016年12月実施)
     『寒気氾濫』(1997年)【半眼】P148~
      参加者:泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター:渡部 慧子       司会と記録:鹿取 未放          


367 星のふる冷たき夜ゆえ冷たさを触れあいている籠の林檎は

             (レポート)
 林檎は「冷たさを触れあいて」いる。林檎それぞれの秘め持つ大切なものは冷たさであってそれを触れあっているということだろう。冷たいということの神秘性が一首にひびく。林檎は星へも感応していよう。(慧子)

           
          (当日意見)
★レポートの「冷たいということの神秘性が一首にひびく」がほんとうにそうだなと思いました。触れあったら普通は温もりとか考えるんだけど。しかも、冷たさは感情についてではなくて、星の降る夜だからと状況を説明してある。だから、無理なく入ってくる。(真帆)
★「星のふる」夜って、歌謡曲のようで通俗の極みのようだけど、「冷たさをふれあいている」で 引き締まった。林檎の表面同士の冷たさによって歌全体の甘さが抑えられている。(鹿取)

 

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