かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 422 ドイツ

2024-11-21 15:23:28 | 短歌の鑑賞
2024年度版 馬場あき子の外国詠58(2012年11月実施)
    【ラインのビール】『世紀』(2001年刊)213頁
     参加者:K・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子(紙上参加)、
        T・H、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:渡部 慧子 司会とまとめ:鹿取 未放
     

422 ライン川の地ビールが酔はせてくれた夜を誰か小声の敦盛の歌

      (レポート)
 「ライン川の地ビールが酔はせてくれた」とは直接にはビールだが、誰か土地の神のような介在が思われて、それが「酔はせてくれた」と解したくなる。そんな時、「誰か」「小声の敦盛の歌」をききとめたのだ。この作者にして「誰か」とは気配のようなものと思うことしばしばだが、この「誰か」に誰を当て嵌めれば深い味わいになるのだろう。作者の旅の「夜」に、幻が出入りして、「酔はせてくれた」り「敦盛の歌」を聞かせてくれたりしたと想像する。「敦盛の歌」を残念ながら知らないのだが、一首の魅力は十分味わえる。(慧子)
   

      (紙上参加意見)
 ドイツの地ビールをみんなで飲んでいる。少し酔いが回ってきたのか、しかし大声で唄ったり騒いだりはしない。誰かが敦盛の歌をうたっている。「誰か小声の敦盛の歌」がこの一首の抒情を深めている。お能でも歌舞伎にも題材になっている平敦盛。お能幸若舞の敦盛の一節であろう。半歌仙、敦盛、熊谷直実に討たれた悲劇、この一連、ライン川を観光しながら作者の本来の姿というか作者自身の思想というか、旅にいながらもその姿が見えてくるような一連である。(藤本)


      (当日意見)
★これは謡曲ではないか。(曽我)
★レポーターのいうように敦盛の歌を幻で聞くよりも実際に聞こえる方が面白い。昼間
 は歌わなかった日本人も夜になってだいぶん酔ってきて、ふっと小声で誰かが歌い出
 したのではないか。あるいは自分が歌ったことをぼかして誰かと表現しているのかも
 しれない。こういう「誰か」は作者の歌によく登場する。もう自分たちだけで小部屋
 にでもいるのかもしれない。(鹿取)
★敦盛の歌というより詩吟なのではないか。(T・H)
★「青葉の笛」って敦盛を歌った歌ではないか。一の谷の軍(いくさ)破れって。
   (崎尾)
★詩吟だと小声では感じが出ない。「青葉の笛」は哀調のある歌ですから、この場にふ
 さわしいかもしれないですね。(鹿取)


     (まとめ)
 旅の終わりに酔って敦盛の歌を歌うところが唐突だが面白い。ドイツにあってローレライではなく日本の、しかも古い歌を歌うところがいかにもありそうな気がする。作者自身もそうだし、周囲に謡曲をたしなむ人は多いから謡曲でも好いし、哀調のある「青葉の笛」(一の谷の軍(いくさ)破れ討たれし平家の公達(きんだち)あわれ)でもいいだろう。また、作者が一人の部屋に戻った夜中、自分で敦盛の歌をうたっているととってもいいだろう。ドイツの旅の終わりに敦盛という悲劇の貴公子を出してくるところに日本人の根っこのようなものが感じられて興味深い。(鹿取)
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馬場あき子の外国詠 421 ドイツ

2024-11-20 10:30:16 | 短歌の鑑賞
2024年度版 馬場あき子の外国詠58(2012年11月実施)
    【ラインのビール】『世紀』(2001年刊)213頁
     参加者:K・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子(紙上参加)、
        T・H、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:渡部 慧子 司会とまとめ:鹿取 未放
     

421 マーラーの曲高まれる窓の外(と)の闇に物食む猫の音する

   (レポート)(慧子)
*マーラー:西洋のクラシック音楽の大作曲家達の中で故郷を持たない唯一の存在だ。ドイ
 ツ 語圏の外れ、オーストリア帝国の三重文化地域(ドイツ、ユダヤ、スラブ)に生ま
 れ、民族主義的な時代にあって、国家的なところに根を下ろしていないと言われる。彼の
 交響曲に代表的な「大地の歌」があり、壮大で類例がないほど語りか ける力を持ってい
 る。            『ソルフュージュ選書 マーラー』(白水社)


     (紙上参加意見)
 ホテルに泊まっている時の歌だろう。外ではマーラーの曲が高らかに鳴り、きこえてくる。そんななかで猫が何かを食べる音がしている。猫はすぐ窓の近くにいるのだろう。静まりかえった夜の闇を想う。ラインのほとりで、夜のホテルで、マーラーの曲が鳴っている。といってもマーラーのたくさんあるどの曲を思い浮かべたらいいのか。初期の歌曲なのか、それともたくさんある交響曲の一つか、その中のアリアなのか……と想像してみる。
 ユダヤ系のマーラー、キリスト教に改宗したマーラー、作曲家として二十世紀に入りその業績が認められた偉大なマーラー、マーラーと聞くだけでわが胸は高まるのだが……。妻に去られ、娘は病死という悲運の中で、自らも病に倒れ、最後の「交響曲10番」は未完に終わる。作者はマーラーへ強い思いがあったのだろうか。生誕百五十年、二年前はマーラーイヤーだった。(藤本)


      (当日意見)
★先生は部屋の中にいた。窓の外を覗いたら、マーラーの曲とは対照的に猫がものを
 食べていた。(曽我)
★面白い取り合わせで、こういう発想は考えられない。マーラーの曲も猫の食べる音も
 両方聞こえているというところがユニーク。(T・H)
★作者は猫のそばにいるのではないか。(慧子)
★いや、室内にいてマーラーの曲に耳を傾けていたけれど、何か気配を感じて窓を開け
 てみたら、すぐ下に猫が何か食べていて、食べる音が聞こえた、というんじゃない。
 藤本さんの意見は、窓の外にマーラーが鳴っているということですが。(鹿取)


        (まとめ)
 マーラーの曲はどこで鳴っていたのか、内か外か両方の意見があった。しかし「窓の外の闇」だから、闇の中でマーラーが鳴っているとは考えにくい。闇の向こうの遠くから聞こえるとすると「高まる」とまではいえないだろう。ということは室内でマーラーが演奏されていて、その外の闇に猫がいるという構図になる。楽曲の高まりの中で猫がものを食む音が聞こえる(もしくは気配が感じられる)としたらよほど窓際にいたことになる。それとも窓は開いていたのだろうか?ロビーのような場所で生演奏を聴いていたのだろうか。(鹿取)

※後日藤本さんより、レポーターのマーラーについての解説の件で「一冊の本をこんなふうに抜粋すると正確さを欠き、誤解を招く。筆者が誰かも書いてほしい。」という意見が寄せられた。筆者はマルク・ヴィニヤルだそうだ。(鹿取・注)

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馬場あき子の外国詠 420

2024-11-19 10:07:51 | 短歌の鑑賞
2024年度版 馬場あき子の外国詠58(2012年11月実施)
    【ラインのビール】『世紀』(2001年刊)213頁
     参加者:K・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子(紙上参加)、
        T・H、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:渡部 慧子 司会とまとめ:鹿取 未放
     

420 ローレライの岩は絶壁でその上にバス止めて菩提樹の疎林に遊ぶ

        (まとめ)
★「ローレライの岩は絶壁でその上にバス止めて」までの措辞はかなりの字余りである
 し、かなり散文的な歌だ。「ローレライの岩は絶壁(で)その上にバス止め(て)」な
 どと( )部分の助詞を省けば少しは定型に近くなるのに、わざとなのだろう、それ
 をしない。なるほど古歌の通りローレライの伝説の岩は絶壁だった。その岩の上は平
 らで広場のようになっていた。そこにバスを止め、しかしライン川の絶景を眺めるの
 ではなく、岩や川とは反対方向に広がる菩提樹の疎林を散策した。さまざまな文学作
 品を思わせて疎林も魅力的ではあるが、敢えて川の方向に背を向けたのはなぜなの
 か。ライン川に沿って長くバスが走ったので、その風景は十分見たとうことか。ある
 いは菩提樹の疎林がよほど魅力的だったのかもしれない。(鹿取) 
  
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馬場あき子の外国詠 419

2024-11-18 18:01:00 | 短歌の鑑賞
2024年度版 馬場あき子の外国詠58(2012年11月実施)
    【ラインのビール】『世紀』(2001年刊)213頁
     参加者:K・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子(紙上参加)、
        T・H、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:渡部 慧子 司会とまとめ:鹿取 未放
     
  
419 ゆきてかへる心こひしき夕暮の半歌仙速しドイツの秋を

   (レポート)
 旅の地は「ドイツ」そして「秋」そこで「半歌仙」を巻いた。歌仙は懐紙を折りたたんでしたためてゆくのが元々の起こりで、旅やある場での即興にふさわしい座の遊び(文芸)であった。36句の形式を半分の18句に収めるのだから「半歌仙速し」となろう。下の句から読み始めたが、上の句「ゆきてかへる心こひしき夕暮の」とは下の句の為の序詞の働きをしていよう。「半歌仙」が速く終わってしまったそのはかない感じへみちびくべく、上の句から下の句への流れである。(慧子)


     (当日意見)
★いつも外国旅行の終わりの方で半歌仙をやるんです。半歌仙だから速いのではなく、
 旅の途中だから時間が無くてあわただしく巻くのです。でも現地でやるのは気分が高
 揚しているから面白いんです。(鹿取)
★「ゆきてかへる心こひしき」が分からない。里心がついたことか。(T・H)
★日本からやって来て帰ってゆく、そういういっときのはかない気分を愛しんでいる
 のでしょう。(鹿取)


     (まとめ)
 「読者と行く吟行の旅」であるから、作者は旅の終盤に講師として半歌仙のとりまとめをする。旅の途上だから正式ではなく、月の座、花の座、ここは恋を詠むなど簡単な決まりを設けて行う。36句続ける時間は無いので半分の18句ですませるのだが、旅の終わりに巻く半歌仙の慌ただしさとはかなさ、速く終わるのが惜しい気分を詠んでいる。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠 418

2024-11-17 14:20:39 | 短歌の鑑賞

        「短歌と書」展より馬場あき子の歌。書は竹内久晶
       夢殿に雪降るころのつめたさの凍て鶴われはほとけをしらず


2024年度版 馬場あき子の外国詠58(2012年11月実施)
    【ラインのビール】『世紀』(2001年刊)213頁
     参加者:K・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子(紙上参加)、
        T・H、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:渡部 慧子 司会とまとめ:鹿取 未放
     
  
418 嘆きなくうたはぬ日本の女らがビールに眺めるラインの流れ

      (まとめ)
 417番歌に「一生を陽灼けしてきたアメリカの年寄ツアー飲まずうたへり」とあるように、目の前のアメリカの労働者たちには、長い年月労働に携わってきた共有の苦労があり、その分厚い感情がほとばしって彼等をうたわせていると作者は感じていたのだろう。それに比較して2000年前後の日本人はバブルが弾けたとはいえある程度余裕があった。一致団結してことにあたるとか心を一つにして戦う対象もなかった。あからさまな共通の歎きをもっていないゆえに、個々人が軽い旅情にひたりながら、いくぶん倦怠の気分を抱えてぼんやりとラインの流れをながめているのである。(鹿取)

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