かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 92 スペイン④

2024-09-14 10:08:14 | 短歌の鑑賞
 2024年度版馬場あき子の外国詠11(2008年9月)
   【西班牙3オリーブ】『青い夜のことば』(1999年刊)P58~
    参加者:F・I、N・I、T・K、N・S、崎尾廣子、T・S、
       藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:渡部慧子 まとめ:鹿取未放


92 ラ・マンチヤはゆけどもゆけども向日葵の黄の荒寥に陽の照るところ

        (レポート)
 ラ・マンチャはメセタと呼ばれるスペイン中央高地にあり、アラビア語で「乾いた土地」という意味。そこは「ゆけどもゆけども」「向日葵の黄」がひろがっている。黄はあらゆる色の中でももっとも光に近く存在しているとは画家の言葉だ。一方陰陽五行論においては黄を最高の色として讃えている。そういう黄の思想に、また実際の黄の広がりに、精神を深くして向き合ったであろう作者がとらえた「黄の荒寥」とは見事な措辞だ。黄の明るさの背後にひそむものを作者は露わにしてみせた。「ラ・マンチャはゆけどもゆけども」とは、かのドン・キホーテの遍歴を彷彿とさせ、またそれは私達の人生にもかさなるのだが、彼の分別と狂気、夢と絶望等は「黄の荒寥」という抽象概念に帰納されてゆく。一度「黄の荒寥」へ帰納させながら作者は結句において「陽の照るところ」とどんでんがえしとも思える言葉を置いている。何がどうであろうと神のてのひらのようだと言ってはいないか。(慧子)


     (当日発言)
★(慧子さんの評「神のてのひらのようだ」に関して)みなさんが納得できるかどう
 か、私は違うと思う。(崎尾)
★違和感がある。(T・K) 
★向日葵が枯れかかっていて真っ黄色ではないから「荒寥」(N・I)
★「向日葵の黄の荒寥」の語の働きがすごい。(藤本)
★この歌の意図がどこにあるのか分からない。(T・H)


      (まとめ)
 評者の「神のてのひらのようだ」に関して議論が沸騰した。深読みではないかという意見が多かった。また、「黄の荒寥」の解釈を巡って、あるいは「陽の照る」との関係についてさまざまな意見が出た。私自身は、教会の尖塔や遣欧使節、西洋の絵画等を扱った「西班牙の青」の一連と違って、ここでは神にまで思いをはせていないように思う。広大な荒れ地に植えられた向日葵が水不足か枯れかけて、ピュアな黄色が濁ってきた描写ではなかろうか。
 同行した「かりん」の作者達が同じ場所をどう詠んでいるか調べてみた。
  農の子のわれはさびしむ広けれど荒き粒子のラ・マンチャの土地
          松本ノリ子
  しおれ咲くひまわり畑ラ・マンチャの乾期まだまだ続く六月
  広大な向日葵畑にひまわりは皆痩せて立つ雨を待ちつつ
                   田中 穂波
 これらの歌を読むと、向日葵は荒れた土地にしおれ痩せて咲いていたことが分かる。陽光は恵みではなく雨を待ち望む植物にむごく容赦なく照りつけていたわけだ。その情景をなすすべもなく見ながら通り過ぎる旅行者たち。そしてまもなく忘れてしまうのだ。(鹿取)

 
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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 318

2024-09-13 10:24:18 | 短歌の鑑賞
  2024年度版 渡辺松男研究38(2016年5月実施)
    【虚空のズボン】『寒気氾濫』(1997年)128頁~
     参加者:S・I、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、
        Y・N、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:S・I   司会と記録:鹿取 未放


318 断面というもの宙にきらめかせ少女は竹刀振りおろしたり

      (レポート)
 これは少女が力を込めて、思い切り竹刀を振り下ろす瞬間を詠んだ歌である。普通の肉眼では、竹刀が大きく振られる一瞬の動きとしか捉えられないが、もし、一秒間に1000億フレームの撮影が可能なハイスピードカメラでみれば、まさに光の波が空間に断面を生み、宙に光の乱舞がみられるだろう。視覚には瞬間としか思えないものをマクロに引き延ばし、描写する手法は葛飾北斎の『富嶽三十六景』ではみられるが、短歌作品では稀ではないだろうか。(S・I)
  ハイスピードカメラ:1秒間に100枚以上撮影できるカメラを「高速度カメラ = ハ
            イスピードカメラ」と呼んでいる。今のところ、20,000,000
            コマ/秒までの高速度カメラが市販されている。 
                 (Wikipediaその他のネット検索より)        
  富嶽三十六景:波頭が崩れるさまは常人が見る限り、抽象表現としかとれないが、
          ハ イスピードカメラなどで撮影された波と比較すると、それが写
          実的に 優れた静止画であることが確かめられる。(Wikipedia)

【レポートにはここに北斎の絵画2枚が載っていますが、著作権の関係でブログでは省略します。】


     (後日意見)
 レポーターのハイスピードカメラという見方は、とても面白い鑑賞である。しかしそういうものを援用しなくとも、竹刀を振り下ろす動作によって空間がまっぷたつに切れ、その断面が美しい光に輝く様はこの歌を読んだ瞬間に眼前に見えるものである。少なくとも、私には昔からこの歌を読む度に見えていた映像である。いわば科学を先取りするのが詩の力で、渡辺松男はここでその力を見せてくれているのではなかろうか。竹刀を振り下ろすのが少女だという設定がすばらしく、鮮やかな歌である。ところで『蝶』(2011年刊)にはこんな歌がある。〈竹刀ふりくうかんにだんりよく感ぜしはくうかんに亀裂はひるちよくぜん〉(鹿取)


    (後日意見)に対する反論(2016年8月)
(後日意見)では、掲出歌の詩的真実は科学を援用しなくても伝わり、むしろ科学を先取りしているのではないか、ということを述べておられる。たしかに詩は永遠であり、科学は常に上書きされる宿命をもつ、が、人間は「真・善・美」を求めてやまない存在であり、それぞれ次元が異なるだけで、「美」のほうが「真」よりも優位とは言えまい。以前、葛飾北斎の『富嶽三十六景』が、肉眼では見えない瞬間の写実画だというテレビ番組があった。北斎は雨つぶが落ちてゆく様子をじっと眺めていたという。私は北斎が、極小の瞬間を捉えていたという心眼の確かさに感銘した。それは感動したバッハの音楽が美しい数字のハーモニーであったり、『最後の晩餐』の美が計算された構図によるものであることと似ている。印象派の絵が刻々の時間を凝視し拡大したものであるなら、北斎の絵は極小化したものだろうか。絵で描かれた極小の瞬間があるとすれば、詩や短歌にもあるだろうか?
 今回の歌はそのような思いに叶った歌であった。少女が竹刀を振り下ろす「断面が美しい光に輝く様」の詩情は誰でも共感するであろう。レポーターとしては、そのようなわかりきった鑑賞は省略し、なぜ「宙にきらめかせ」という表現がくきやかで美しく感受されるのか、肉眼では見えないハイスピードカメラの瞬時が「宙にきらめかせ」という映像になるということを、一つの根拠として提示した。けして奇を衒ったのではない。ある作品の鑑賞には、様々な分野からの考察は必要であろう。科学というのも、そのような理解の一助である。少なくとも科学的な鑑賞のみを邪道だとして、排除されてはならない。むろん、このような分析や考察がなくとも、この作品のすばらしさ、この歌から受ける感動や共感は変わらないというのは自明の理である。が、それのみだけで終わったのでは、研究する場は成り立たない。研究とは、何故その歌がよいと思ったのか、互いにその根拠を示しあい、議論することによってより一層、作品の理解を深める場でもあるからである。 (S・I)
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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 317

2024-09-12 14:51:20 | 短歌の鑑賞
  2024年度版 渡辺松男研究38(2016年5月実施)
    【虚空のズボン】『寒気氾濫』(1997年)128頁~
     参加者:S・I、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、
        Y・N、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:S・I   司会と記録:鹿取 未放

317 あいまいな部分は風にとびてゆく疾歩にて君はひかる目となる

     (レポート)
 作中の君は性別も年齢も判らない。君は風に疾歩してあいまいな物事には囚われない、なにか人間離れして風の精霊のようでもある。リアルなのは君の目がひかっているということである。風音の「 どっどど どどうど どどうど どどう…」で始まる「風の又三郎」という童話を思い出す。風の又三郎は疾歩して風とともに現れ、去っていく。物の本で読んだのだが、宮沢賢治その人も原野を飄々と疾歩していたという。もしかして君は、宮沢賢治のように現実感の薄く、目を光らせて自然の事物と交感出来る人なのかもしれない。(S・I)


    (当日意見)
★奥さんと歩いている場面。(鈴木)
★ここで「君」と言っているのは作者自身のこと。(慧子)
★君は作者でも解釈はできると思いますが、妻なり恋人なり対象の方が面白い気がしま
 す。「あいまいな部分は風にとびてゆく」はレポーターとは違って、君が「あいまい
 な物事には囚われない」精神性を言っているのではなく、君が速く歩いているので輪
 郭がくっきり〈われ〉から見えなくなって、ただひかる目としてあるということだと
 思う。(鹿取)


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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 316

2024-09-11 15:34:57 | 短歌の鑑賞
  2024年度版 渡辺松男研究38(2016年5月実施)
    【虚空のズボン】『寒気氾濫』(1997年)128頁~
     参加者:S・I、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、
        Y・N、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:S・I   司会と記録:鹿取 未放


316 新しき鉛筆に換え書くときに性善説ははつかあかるむ

      (後日意見)
 「新しき鉛筆に換え書く」という所作の前に必ずしも鬱屈があったとは考えにくい。もちろんあったかもしれないが、なかったかもしれない。私は前提をレポーターより軽い、ニュートラルな位置で考えた。何かがあったからではなく、ふっと新しい鉛筆に換えてものを書いてみた。きっと気持ちよく書けたのであろう。それで性善説などという考えが明るく脳裡に灯った。それまで性悪説を信奉していたとか性善説に疑いを抱いていたとか、そういうことは一切関係がない。そんなふうな理屈で繋げたら全くつまらない歌になってしまう。(鹿取)


      (レポート)
 閉塞感に陥ったとき、いままでにない所作をしたり、新しいものを得たりすることで改善の兆しを得ることがある。作者は様々な事象に性善説か、性悪説といった哲学的命題を思い悩んでいたのであろうか?あるいは、具体的にある人物から信頼感を裏切られた体験をしたのであろうか?新しい鉛筆に変えて書くという行為によって、今まで否定的だった性善説が、作者の閉塞感を打開するものとして意識されたということであろうか?(S・I)




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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 315

2024-09-10 09:34:37 | 短歌の鑑賞
  2024年度版 渡辺松男研究38(2016年5月実施)
     【虚空のズボン】『寒気氾濫』(1997年)128頁~
     参加者:S・I、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、
        Y・N、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:S・I   司会と記録:鹿取 未放


315 乾燥機キコキコと鳴りおおきなるわれのパンツは回りているも

      (レポート)
 男物の大きなパンツが生き物のように、のたうち乾燥機の中で回っている。キコキコという音は物理的には乾燥機の軋む音かもしれないが、まるで回っているパンツが声をあげたかのようだ。「も」という詠嘆の終助詞は効果的で、一首がペーソスを交えたユーモラスな歌として仕上がっている。解釈は以上だが、渡辺氏のことばは、そのような現実の有り様とは異なった現存在の深いところから下りてきているように思える。この連作ではワイシャツ、ズボンがこころを表象するモノとして詠われていたが、それらのモノは作者から遊離した抜け殻ではなく、いわば作者のこころが形象化されたもので、あらゆる場所に偏在する作者自身でもあった。とすると、キコキコというつましい音は、生の根源から聞こえてくるなにか哀愁を帯びた声のようにも思える。(S・I)

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