かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 81

2020-08-31 19:40:04 | 短歌の鑑賞
  ブログ版渡辺松男研究⑨(13年10月)
       【からーん】『寒気氾濫』(1997年)33頁~
        参加者:崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター 鈴木 良明    司会と記録:鹿取 未放


81 ドッペルゲンガー花木祭に光(かげ)を曳き知らざれば笑みてすれちがいたり

      (レポート)
 ドッペルゲンガー(二重身)には、次の三つがあるそうだ。①自分とそっくりの分身、②自分がもうひとりの自分を見る自己像幻視、③同一人物が同時に複数の場所にあらわれる現象。芥川龍之介は、帝劇と銀座で自分を見かけたと言っているから、たぶんこれは①のケースだろう。それに対して本歌では「知らざれば」とある。すれ違った人をもうひとりの自分(姿かたちが似ていないので知らない人だが確実に自分だ)のように幻視した②のケースだろうか。あるいは二重身の存在はありそうだがまだ出会ったことがないという意味か。いずれにしても「光を曳き」すれちがう映像的なシーンが、ドッペルゲンガーをより一層リアルに感じさせる。(鈴木)


      (意見)
 ★渡辺さんが芥川龍之介のようにドッペルゲンガーを体験したかどうかは分からないけ
  れど、ドッペルゲンガーそのものを歌にしたかったんだろう。(鈴木)
 ★賑やかな花木祭ですれちがった人が、あああれは自分だったっていうのかなあ。その
  時は自分と知らなかったからほほえんですれちがったんだけどと。何でその時分から
  なくて後でわかったんだろう?(鹿取)
 ★どの程度ドッペルゲンガーとして思ったのか、よく分からない。自分とそっくりだっ
  たら出会ったとき分かるよねえ。(鈴木)
 ★不思議な歌で、魅力的な歌ですねえ。精神の病気で見えるということはないんですか?
   (鹿取)
 ★レビー小体が侵されると幻視が起こることがあるらしい。もちろん自分ではなく、知
  らない人が部屋にいるというような。でもなぜ見えるか本人が納得すれば見えても気
  にならなくなるらしい。(鈴木)
 ★まあ、ドッペルゲンガーを作者が体験したかどうかはどっちでもよくて、この歌謎は
  あるけど明るいですよね。花木祭でさまざまな色がイメージできるし。(鹿取)


        (追記)
 渡辺さんには、掲出歌の他にもドッペルゲンガーを扱った歌がある。
わたしはわたしと擦れ違ったから明日死ぬ 空中にある青い眼球 『歩く仏像』
 そこで不確かな情報源ではあるが、ネットでドッペルゲンガーを調べてみた。レポーターのあげている3種類に分類すると、渡辺さんの歌は2首とも「自分がもうひとりの自分を見る現象」(=自己像幻視)のタイプか。自己像幻視はボディーイメージを司る脳の分野に腫瘍ができると起こることがあるらしい。古くから「自分に出会ったらまもなく死ぬ」と恐れられていたが、死因は脳腫瘍だったのかもしれない。また偏頭痛でも自己像幻視は起きるそうなので、必ずしも自分に会ったら死ぬわけでもない。芥川は頭痛持ちだったからドッペルゲンガーが起きたのではないかと考えられているようだ。しかし19世紀のフランス人の教師サジェという人は、教室と外の花壇に同時にいるのを40人以上もの生徒によって目撃されたそうなので、脳腫瘍や偏頭痛では説明がつかないケースもまれにあるらしい。
 ちなみに私もかつて入眠時幻覚を毎日経験したし、今でも頭が疲れたり、眠る時間が遅く(およそ午前2時以降)になると入眠時幻覚をみることがある。自分の寝ている枕元へ、だいたい人間が来るのだが、来るのは気配で分かるし、締め切ったドアや窓からすーと入ってくる。そういう時は息づかいから衣擦れの音までものすごくリアルに聞こえる。
 目が覚めている時にも、まれに幻覚を見ることがある。去年(2012年)のお正月の4日、自宅近くのバス停の椅子に腰掛けていた。バスを待っているのは私ひとりだった。しばらくすると椅子ががたがた動き始め、椅子に置いた荷物が上下し、地面が波打った。立ち上がって側のポールに掴まった。震度5くらいはあると思った。友人と食事の約束をしていて都心に出る予定だったが、これでは交通機関も麻痺するだろうし引き返そうかなと考えているとき、バスがやってきた。乗り込んでも誰も動揺している様子がない。最寄りの電車駅に着いても平常通り電車は動いている。都心に出て友人に会い、1時間ほど前強い地震があったわねえ、と言ったが地震なんってなかったよと言われた。恐くてもう他の人には言えなかった。脳ドックを年1回受診しているが、その後も異状はない。あまりにもリアルで鮮明だった〈幻覚〉はどうして起こったのだろう。東日本大地震の余震が頻発していた頃で、〈幻覚〉の2日ほど前にもデパートで買い物中に震度4の揺れを経験した。また起こるのではという恐れが〈幻覚〉をみさせたのだろうか。でも確かにがたがたと椅子の揺れる音を聞いたし、地面が波打っているのをしっかり見たのに。
 幻覚ではないが、二十歳の頃、死んでいる自分を他の家族と一緒に眺めている夢をみた。夢の中でそれほど恐いとは思わなかった。目覚めて考えてみると夢の家も、出てきた家族の顔も見たことのないものだった。四十年以上経ったがこの夢はまだ覚えている。でも、渡辺松男の歌のように生きている自分自身にはまだ会ったことがない。(鹿取)
   床(とこ)の間(ま)に祭られてあるわが首をうつつならねば泣いて見てゐし
                     『植物祭』前川佐美雄


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渡辺松男の一首鑑賞 80

2020-08-30 18:13:06 | 短歌の鑑賞
  ブログ版渡辺松男研究⑨(13年10月)
       【からーん】『寒気氾濫』(1997年)33頁~
        参加者:崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター 鈴木 良明    司会と記録:鹿取 未放


80 松の葉のふるえこまかき昼さがり手を洗わざる不安にいたり

      (レポート)
 何かをきっかけに手の汚れが気になりだすと、いつまでも手を洗い続けないと気がすまない不潔恐怖症がある。症状に至らないまでも、誰でもこれに近い気分になることはある。それは心のとらわれであり、心の影を掃いているようなものであるから、行為を繰り返せば繰り返すほど、現実から遊離して常に不全感にとらわれる。この不全感を実感させる上句は、実に巧みだ。松の葉は、わずかな風や光にもいつもちりちりと震えている。その様は、不全感にとらわれた心のふるえのようだ。(鈴木)


         (意見)
 ★普通だと心配な気持ちもありながら何とかやりすごすんだけど。誰でも神経症の症状
  が出る可能性はありますよね。渡辺さんが不潔恐怖症というのではなくて、不全感を
  持っている人なのかな。逆にその不全感があるから渡辺さんの歌はいい歌になってい
  る。これでいいというのがない。どんどん新しいところに出ていく。これで上手いだ
  ろうという人には進歩がない。歌人の中ではこういう資質はすばらしい。「松の葉の
  ふるえこまかき」ってリアルですね。病院か何かに行く時、松の葉があってふるえて
  いたような気がしてくる。きっと体験しているんですよね。(鈴木)
 ★手水鉢のあたりから庭の松の木を見ているような感じですよね。あの松の長細い葉の
  一本一本が細かく震えているって、言われてみればそのとおりですけど、的確な把握
  ですよね。(鹿取)
 ★やっぱり見ているんですよね。想像では書けない。(鈴木)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渡辺松男の一首鑑賞 79

2020-08-29 20:49:24 | 短歌の鑑賞
  ブログ版渡辺松男研究⑨(13年10月)
       【からーん】『寒気氾濫』(1997年)33頁~
        参加者:崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター 鈴木 良明    司会と記録:鹿取 未放


79 空間へ踏みいりて出られなくなりし一世(ひとよ)にてあらん  紙を切る音

      (レポート)
 結句の「紙を切る音」がこの歌を深遠なものにしている。「紙を切る音」は、誰かが、その空間の一角を切り開いていく音として暗示されており、その音によってこの空間の存在、その外側の存在、紙を切ったものの存在が強く意識されてくる。そして、この空間とは、単に、大気圏といった狭い意味ではなく、ビッグバンによって拡がった宇宙全体に及ぶものであり、その誕生の謎にまで思いを馳せさせる。(鈴木)


           (意見)
 ★「紙を切る音」が効いていますよね。(鹿取)
 ★ただ、この空間といった場合、宇宙全体を思い起こすのではなく、もっと形而上的に
  別の空間というのかなあ、それを考えた方が面白いのかなあという感じもしている。
  空間というひとつの閉ざされた形而上的なもの。そこから紙を切る音が出てくるので。
  それが精神的なものなのか認識の問題か分からないけど。科学的な空間よりもそうい
  った認識の壁って考える方がおもしろいのかな。ある人はもう紙を切っているかもし
  れないんですよ、認識の空間を飛び越えて。でも自分を超えるなんってその一つの空
  間を超えていることになるし。まあとにかくレポートなので一応分かりやすい形で書
  いてみたんですけど。(鈴木)
 ★空間から出ちゃった人というのは、鈴木さんの今の話では悟りとかそういうことなん
  ですか?(鹿取)
 ★そうでもなくて、ひかりの向こう側というのと同じような。でもこの歌、実感として
  分かる。紙を切らないと閉じこめられているという意識は出てこないんですよね。
    (鈴木)
 ★そうですよね。閉じこめられて出られない一世というのはある程度の人が言えそうだ
  けど「紙を切る音」は渡辺さんにしか出てこない。そしてここが言えないと深い歌に
  ならない。でもこれは難しい歌ですよね。(鹿取)
 ★先に紙を切った人の存在を暗示する歌ではないですかね。(曽我)
 ★後先とかはあまり関係ないように思います。誰が紙を切って真っ先に空間を出るか、
  というような競争ではないと思います。現実には奥さんが紙を切る鋭い音が響いてき
  たのかもしれない。そこからはっとなって、一字空きより上の部分の認識が瞬間に脳
  裡をかすめた。ダリの夢の絵みたいに遡って。(渡辺さん、ダリは嫌いみたいですけ
  ど。)でも、できあがった歌では、「紙を切る音」は形而上的なものとして鋭く作用し
  ている。また、「踏みいり」と自発ですから、生み落とされて否応なくどの人間も閉
  じこめられている、そういう空間でもなさそうですね。(鹿取)

 (追記)
 「絶叫をだれにも聞いてもらえずにビールの瓶の中にいる男」(『寒気氾濫』)という歌もあったが、これはまた全く違う種類の歌。次の歌の紙をやぶることと動作の上だけではない79番歌との共通項がありそうだ。(鹿取)
  紙やぶる音ぴっとして冬ふかし配偶者すこし哲学をする  『泡宇宙の蛙』

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渡辺松男の一首鑑賞 78

2020-08-28 18:46:07 | 短歌の鑑賞
  ブログ版渡辺松男研究⑨(13年10月)
       【からーん】『寒気氾濫』(1997年)33頁~
        参加者:崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター 鈴木 良明    司会と記録:鹿取 未放


78 父は酔いて帰りてゆけり寒々と罅われし樹のごとき銀河よ

      (レポート)
 作者の家に父が訪れ、酒食をともにした。日もすっかり暮れて、酔った父が自宅へ帰ろうとする。見送りながら戸外にでてみると、「寒々と罅われし樹のごとき銀河」が展かれている。「冷え冷え」ではなく、「寒々と」とあるから、季節は、初冬であろうか。星空だけが煌々と照り輝き、罅われた樹皮のような銀河に、まるで呑み込まれるかのように、父は帰っていったのである。 (鈴木)


      (意見)
 ★「寒々と罅われし樹のごとき銀河」というのがお父さんの比喩でもあるんだろうと思
  ったけど。まあ、景と重なっているんだろうけど。(鹿取)
 ★人間の体は宇宙っていうことがあるから、下の句はお父さんのことだと思っていまし
  た。(慧子)
 ★直接には「罅われし樹のごとき」は銀河を形容しているのよね。でもその「罅われ」
  がお父さんの精神の亀裂のようにも感じられます。まあ、戸外に出たとき見た景であ
 っても、お父さんの精神の象徴であっても、結局は同じ事ですね。(鹿取)
                           


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渡辺松男の一首鑑賞 77

2020-08-27 19:57:15 | 短歌の鑑賞
  ブログ版渡辺松男研究⑨(13年10月)
       【からーん】『寒気氾濫』(1997年)33頁~
        参加者:崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター 鈴木 良明    司会と記録:鹿取 未放


77 彫像の国定忠治の首を立てたいらなる地は霧這いてくる

     (レポート)
 国定忠治の彫像はいくつも作られており、上州長脇差の典型的人物として、地元でも永く語り継がれてきた。この歌からは、忠治の首から上だけの彫像が強くイメージされるが、(そのような彫像はたぶん野外にはなく、)平坦な地を這ってくる霧によって首より下が隠されていると読むのが至当だろう。風土の中に置かれた忠治のこのような姿こそ、義賊・侠客として磔刑にあい、英雄化された者にふさわしい。(鈴木)
 ※国定忠次(国定忠治とも書く) 江戸末期の侠客。上州国定村の富農の子として生ま
     れ、二十一歳で博徒の親分になる。罪を重ね、磔刑。歌舞伎・新国劇などで
     義賊・侠客として英雄化される。


           (意見)
 ★国定忠治の歌、この作者は何首か作っていますよね。レポーターが言われるように首 
  だけの像はなくて、霧で胴体の部分は隠れているのでしょうね。私もネットで調べて
  みましたけど。二宮金次郎の彫像が首だけだったら意味がないように、忠治の首だけ
  って意味がない気がします。写真で顔知っている訳じゃないし。ただ「首を立て」に
  は、どこまでも平らな土地に垂直に立つ像の存在感というか強さがあります。(鹿取)
 ★生首のような効果をねらっているのかなあ、まともな死に方じゃなかったし。とても
  力強さがある。(鈴木)
 ★霧が巻いてくるのが、音もなく追っ手が迫ってくるようなイメージもあるし。この頃
  の侠客というのはそれなりの哲学を持っていたから。(崎尾)
 ★そういうところに渡辺さんの思いがあるんでしょうね、忠治を何回も歌っているんだ
  から、単なる郷土の英雄として見てるわけではない。(鹿取)
 ★でも、風土性がありますね。(鈴木)
 
         (追記)
 作者は部分を注視する。ヤンバルクイナは脚、首の歌も既に一首鑑賞した。(鹿取)
  62 乳白色の湯船に首を浮かばせて首はただよいゆくにもあらず
  69 敗走の途中のわれは濡れてゆくヤンバルクイナの脚をおもいぬ




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする