かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

清見糺の短歌鑑賞 175  176

2021-11-30 19:33:16 | 短歌の鑑賞
   ブログ版清見糺鑑賞 25回  罪と罰   
                      鎌倉なぎさの会   報告 鹿取 未放

175 何を着ても似合うと思えぬひとなれど試着しているコムデギャルソン
176 何を着ても似合うと思えるひとなれど試着しているコムデギャルソン
                    「かりん」2001年12月号

 青山あたりのおしゃれなブティックでの属目詠だろう。
二首は一音しか違わないので一緒に論じる。違うのは「思えぬ」の「ぬ」と「思える」の「る」。つまり美人でスタイルがよくて若い女性(ここは男性ではないだろう)は何を着ても似合うと思えるし、何を着ても似合うとは思えない女性もいる。そしてどちらもコムデギャルソンの試着をしている。コムデギャルソンはフランス語で「少年のような」という意味、デエザイナー川久保玲のブランド名である。ごてごてしない少年のようにシャープな洋服をつくる。この歌は、一音違いでこんなに意味が違うよと遊んでいるのだ。
 
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清見糺の一首鑑賞  174

2021-11-29 17:10:28 | 短歌の鑑賞
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                  鎌倉なぎさの会   報告 鹿取 未放

174 父と子が吹くしゃぼんだまそれぞれに父と子がいるズーラシアの午後
               「かりん」2001年12月号

 ズーラシアは横浜の動物園。父と子が楽しそうにしゃぼんだまを吹いている姿を見かけた。それでなくともそれぞれに父と子がいて楽しそうに動物園を巡っている。休日なのだろうか。父と子はきっと人間だけでなく、象もキリンも鳥たちの父子も含んでいるのだろう。それでどう思ったのかは書かれていないが、優しかった亡き父を思ったのか、あるいはしっくりいかない成人した息子との関係を思っているのだろうか。
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清見糺の一首鑑賞  173

2021-11-28 17:32:50 | 短歌の鑑賞
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173 美濃の秋あきの尾張をおもうどちなずさいゆけばうれしくもあるか
「かりん」2001年11月号

 172番歌(川とともに人のくらしがありし日の窈窕として河口堰見ゆ)を提出した短歌の全国大会を終え、歌友二〇人ほどと連れだって明治村に遊んだ。その折の歌で、「おもうどち」は「思う同士」だが、ここでは気のあった仲間、くらいの意味。「なずさう」はなじむ。大会の余韻さめやらぬ仲間達と一緒にそぞろ歩く楽しさを歌う。美濃の秋の「ア」、あきの尾張の「ア」、うれしくもあるかの「ア」、尾張のの「オ」とおもうどちの「オ」というようにア音、オ音を連ねて弾んだリズムを作っている。
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清見糺の一首鑑賞  172

2021-11-27 17:28:45 | 短歌の鑑賞
   ブログ版清見糺鑑賞 25回  罪と罰   
                       鎌倉なぎさの会   報告 鹿取 未放

172 川とともに人のくらしがありし日の窈窕として河口堰見ゆ
           かりん2001年全国大会

 この歌は、一転、日本の川である。しかし、七月にロシアへ行って、八月の大会に出した歌だから、ヴォルガ河やモスクワ川を見た体験からの思索から導かれた歌だろう。野菜を洗う、種籾を浸ける、鍋や農具を洗う、洗濯をする、水浴びをする、日本の川もかつてはそんなふうであった。それが今ははるか昔のことになってしまって、河口付近は無機質な堰が連なているばかり。もう、人々の生活の中に欠かせなかった親しみある川の顔は見えなくなった。それを惜しんでの「窈窕として」であろう。
 この後、鶴見川の源流を尋ねて山の中を分け入ったり、上流から下流まで川に沿って歩いたり、何度も繰り返していた。ロシアの川に触発された、人間の暮らしと川にたいする哲学的考察の歌。
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清見糺の一首鑑賞  171

2021-11-26 18:28:17 | 短歌の鑑賞
   ブログ版清見糺鑑賞 25回  罪と罰   
                 鎌倉なぎさの会   報告 鹿取 未放

171 シャリアピンのレコード聴いては浮かべいし大河ヴォルガの水踏みてゆく
                       「かりん」2001年10月号

 かつてシャリアピンのレコードを聴いて、想像し、憧れていた大河ヴォルガ。そこに今自分が立って、その水を踏んでいるよろこびが、ゆったりと歌われている。
 シャリアピンのレコードで聴いていたのは「ヴォルガの舟唄」だろうか?オペラ歌手志望だった作者は、レコードがすり切れるほど聴き、真似して大声で唄っていたそうだ。また、歌声喫茶でも大声を張りあげていたらしい。
 二泊した「ホテルボルガ」から河畔までは歩いて五~六分だった。昼間はヴォルガ川をクルーズもしたが、近いので夜散歩に出た。白夜は過ぎたとはいえ、九時半になってもまだ明るく、日曜日の銀座通りのように賑わっていた。折から三十四度という猛暑で、大勢の人が水浴を楽しんでいた。砂浜もボール遊びをする人やねそべる人、絨毯を洗って岸に干す人などでいっぱいだった。作者はスニーカーも靴下も脱ぎ捨てて、そのヴォルガの浅瀬を歩いていた。ちなみに、一連の中には次の歌もある。

   ゆたかなるシャリアピンの声真似いたる少年の日も昨日のごとし
ヴォルガ河畔の夕日にからだひからせてロシア娘が水を浴びおり
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