かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 414

2025-03-03 09:08:15 | 短歌の鑑賞

  2025年度版 渡辺松男研究49(2017年5月実施)
     『寒気氾濫』(1997年)【睫はうごく】P164~
      参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
           レポーター:泉 真帆               司会と記録:鹿取未放 
 

414 抜けし歯のごとく炎天に投げ出されわがうつそみは歩きだしたり

             (レポート)
 これまでの自分が、もう不要になった乳歯か虫歯のように、自然とぽろりと抜けるようにこの炎天へ投げ出されるのだという。そしてこの現し身は歩き出したのだ。氾濫しつづけ、闘いつづけた後、自然と放擲される現し身。ちっぽけな人間枠を脱ぎ捨てて全体と一つになり、しかし意志のある現し身として作者は歩み出したのだ。(真帆)


             (当日意見)
★「ちっぽけな人間枠を脱ぎ捨てて全体と一つになり」のあたりをもう少し丁寧に説明してくれますか。(鹿取)
★この歌集名の寒気氾濫とは自分の枠からどんどん氾濫させてゆく、そして全体と同化して渾沌としてしまうようなテーマがあるのかなと思っていた。なのでちっぽけな人間という殻のようなものを脱ぎ捨てて光りとか自然とかと一体となって生きていく。でもアニミズムのようなものではなくて一人の人間として意識を持っている、そういうものとして歩み出したのだと読んだのです。ただ、413番歌(やわらかき座布団に尾骨沈めつつちちとちちの子われとまむかう)で鹿取さんが読まれたような意味、つまりもし父の子が別にいるとしたら414番歌はよく分かると思った。育ってしまって自分は世に出ることが出来たとリアリティもある歌として読める。(真帆)
★この歌は前の歌とはまったく関連づけずに読んでいました。不安定な、頼りなげな自分が、この世に一人投げ出されて炎天の下を途方に暮れたように歩きだす場面、それをすごく遠くから映像として見ているような感じです。その眺めのなかには自愛のようなものもあるのかなと。いわば生の中に突然投げ出された〈われ〉、古い言葉で言えば「実存」、そんなことを歌っているのかなと思いました。よくは理解できないけど魅力的で好きな歌です。(鹿取)
★私も荒野に一人いるような印象を受けた歌です。(真帆)
    

             (後日意見)
 『寒気氾濫』の歌集名については、作者はどこにも書いていなかったように思うが、直接は次の歌からとられているのだろう。歌集全体に、引き締まった空気感があるようだ。(鹿取)
  シベリアより寒気氾濫しつつきて石の羅漢の目を閉じさせぬ

 

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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 413

2025-03-02 12:24:00 | 短歌の鑑賞

  2025年度版 渡辺松男研究49(2017年5月実施)
     『寒気氾濫』(1997年)【睫はうごく】P164~
      参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター:泉 真帆               司会と記録:鹿取未放 
 

413 やわらかき座布団に尾骨沈めつつちちとちちの子われとまむかう

             (レポート)
 尾骨が沈んでしまうほど柔らかい座布団というのだから、日常使い古したものではなく、ここは客間か、法事の場か、日本旅館かもしれない。下句の「ちち」と「ちちの子われ」と、くどくどと血脈を意識して詠うところにこの歌の眼目があり、父と真向かう息苦しさ、確執が漂う。客体化しようとすれば一層そうできない愛憎のもつれが見え、緊張した気配を生む。尾骨を独楽の軸のようにして双方とも背筋を正しているように見える。(真帆)
 

              (当日意見)
★私は「父と父の子とわれ」と3人いるのだと思っていました。やわらかき座布団だから正に客間で、何か緊張した場面、その居心地の悪い感じを「尾骨沈めつつ」で表している。でも、そう取るとなぜこの一連に唐突にこういう確執のような、ある意味通俗的な歌が挿入されているのか分からなくなりますから、違うのかな。(鹿取)
★鹿取さんの解釈だと次の炎天に投げ出される歌とうまく繋がりますね。(真帆)
★3人いるとすると「ちちとちちの子われ」ではなく「ちちとちちの子とわれ」というふうに「子」の次に「と」が入らないとおかしいと思います。3人だと平凡になってしまうと思います。2人 で充分確執があるし。(T・S)
★なるほどね、松男さんはこういう時、助詞の「と」を抜かすうたい方を良くされますけど、この歌に関しては確かに父とわれ2人で向かい合っていてもフロイトの闇のような緊張感や確執はありますものね。私の読みだと、父が再婚してもうけた子供がもう座布団に座るような年齢かなと。3人だとどろどろして通俗的になるけど、2人だと哲学的な深い意味をもちますね。(鹿取)
★「やわらかき座布団に尾骨沈めつつ」のところに生殖関係のことがらを連想しました。(慧子)
★生殖関係ってセックスですか。なるほど、ますますフロイトに繋がりますね。(鹿取)
★松男さんのお父さんの歌は魅力的でどれも好きです。自分はもの考えてボーとっしているけど、お父さんは世間的な智恵をしっかり持っていて実務的で勤勉であると造型されています。でも内面はわけのわからない闇を抱え持っていて、存在とか生死とかいう地平では自分と同じように苦悩している人。(鹿取)

 

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渡辺松男『寒気氾濫』の一首四一二412

2025-03-01 10:47:18 | 短歌の鑑賞

  2025年度版 渡辺松男研究49(2017年5月実施)
     『寒気氾濫』(1997年)【睫はうごく】P164~
       参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター:泉 真帆               司会と記録:鹿取未放 
 

412 真空へそよろそよろと切られたるひかりの髪は落ちてゆくなり

             (レポート)
 散髪の場面だろうか。「そよろそよろ」という表現から、愛しい君が長い髪をカットしている場面のようにも感じられる。カットされた髪ははらりはらりと柔らかく真空状態のなかへ散ってゆく。君を想う心が、君の髪までも輝かせるのだろう。君をまえにすると「真空」になってしまう、そんな恋心なのではないだろうか。(真帆)


             (当日発言)
★松男さんの初期の相聞歌だと思いました。(真帆)
★レポーターは相聞歌ととられましたが、誰の髪かは歌では言われていない。相聞歌ととっても、切られてつやつやとした髪が光りを帯びて落ちていく先が「真空へ」だとは松男さん以外言わないでしょうね。リアルな相聞歌として読めば真空は絶対あり得ない想定で、その場合は何かの比喩と読むのでしょうか。広辞苑を引くと「真空」は①仏教用語で真実の空、大乗の究極。小乗の涅槃。②物理的に、物質のない空間。圧力の低い空間についてもいう等々と出てきます。前の歌(花蕎麦のしずもれる日よ天体の外側へ消えゆきしはたれか)の関連からいうと、「天体の外側へ消えゆきしはたれか」をもう少し具体的にしたのがこの歌で、光る髪が落ちていくのはや はりあちら側の世界のように私には読めます。イメージとしてはとっても美しいのだけど、「そよろそよろ」はどうかなあという疑問が残りました。普通の空気中なら「そよろそよろ」も分かるけれど、真空ですから。真空では髪の毛も鉄球も同じ速度で落ちるはずなので。(鹿取)

 

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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 411

2025-02-28 16:19:32 | 短歌の鑑賞

  2025年度版 渡辺松男研究49(2017年5月実施)
     『寒気氾濫』(1997年)【睫はうごく】P164~
      参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター:泉 真帆               司会と記録:鹿取未放 
 

411 花蕎麦のしずもれる日よ天体の外側へ消えゆきしはたれか

             (レポート)
 作者の内側から「氾濫」してゆくものをあてどなく感じ怖れているのではないか。「天体の外側へ」と物理的にとらえることで、自己の怖れを俯瞰し、得体の知れない怖れと対峙している作者の強い精神力を感じる。(真帆)


           (当日発言)
★消えていったのは光りではないでしょうか?蕎麦の花が咲いているんですよね。景がすばらしいですね。(A・Y)
★「たれか」で受けるのは普通は人間ですよね、光ではないと思います。(鹿取)
★消えてゆきしは死のことを言ったのではないかなあと思います。(慧子)
★この歌があるから、さっきの410番歌(みずからのひかりのなかにわく涙きみのそとへそとへあふれだす)の「そとへそとへ」が気になって抽象的な読みにも拘ったんですけど。松男さん、裏側とか外側とか拘ってたくさん詠っていますね。(鹿取)
★死ぬことを詠っているのですか?(T・S)
★煎じ詰めればそういうことかもしれないですね。「たれか」ってぼかしていますけど、特定の人を指しているのではないのでしょう。蕎麦の白い花が広がっている静かな光景の中でふっと死の ことを思っている歌かもしれませんね。小さくて地味な花が主役のように前面に出ているのが面 白いですね。(鹿取)

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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 410

2025-02-27 09:17:00 | 短歌の鑑賞

  2025年度版 渡辺松男研究49(2017年5月実施)
     『寒気氾濫』(1997年)【睫はうごく】P164~
      参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
           レポーター:泉 真帆               司会と記録:鹿取未放 
 

410 みずからのひかりのなかにわく涙きみのそとへそとへあふれだす

             (レポート)
 「きみのそとへそとへ」が作者らしい表現だとおもう。前の歌(赤崩(く)えにまひるのひびく光さし山の顫(ふる)えはひそかになさる)を受け、山肌がすこしずつ崩れるように、君の内側から君の涙は外へあふれる。愛しい君の涙は「ひかりのなかにわく涙」と輝いてみえ、作者をもその光と一体になっているようだ。(真帆)


            (当日発言)
★上の句がいいと思いました。光りも涙も切り離せないものなのですね。(慧子)
★このきみはいとしい人なんでしょうかね。(A・Y)
★そうですね、「そとへそとへ」あたりを考えるともう少し抽象的な読みもできるように思うのですが。また、この歌、涙以外すべてひらかなですね。そのひらかなが涙の一粒ひとつぶのようで面白く読みました。(鹿取)
★冷静に考えると主語はひかりなのかなという気がしてきました。ひかりみずからがひかりがひかりを生むように。(真帆)
★みずからは誰ですか? (T・S)
★ひかりです。(慧子)
★408番歌に「地球から遠ざかりゆく月の面君のおでこのようにかがやく」とあって相聞とも読めますから、恋人みずからが内面にたたえているひかりが持ちこたえられないようにいっぱいになる、思いの純真さが涙となってあふれ出すというように読んでもいいのではないでしょうか。また、この一連光りがテーマですから抽象的に読んでもいいと思います。そういう二重性を持たせているのかもしれませんね。(鹿取)

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