かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 85 スペイン③

2024-08-31 11:13:21 | 短歌の鑑賞
 2024年度版 馬場あき子の外国詠10(2008年7月)
    【西班牙 2 西班牙の青】『青い夜のことば』(1999年刊)P55~
    参加者:N・I、M・S、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、
       T・H、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:T・H まとめ:鹿取未放
          

85 仰ぎみる尖塔は鋭く空を刺し聖なるものは緑青噴けり

      (レポート)
 84番歌(尖塔は碧空に入りて西班牙の深き虚に触れ物思はしむ)と同じく今一度、紺碧の空に鋭く突き刺さっている教会の尖塔を採り上げる。その尖塔は一神教の強さ、信仰心の深さ、精神力の強さを表している。なぜ聖なるものが緑青を噴いているのか、日本の社寺でも古く由緒ある建物には緑青がふいている。2000年の歴史の中で、キリスト教はますます緑青をふき、健全なのか。(T・H)


       (まとめ)
 救い主のいる天に向かって伸び続ける尖塔も、それらが緑青を噴くまでになっているのも、キリスト教というものの過剰さゆえであろうか。あるいは、人々が聖なる者ものを慕ってきた長い長い時間を緑青が噴くという目に見える形で表現しているのだろうか。(鹿取)
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馬場あき子の外国詠 84 スペイン③

2024-08-30 09:55:36 | 短歌の鑑賞
 2024年度版 馬場あき子の外国詠10(2008年7月)
   【西班牙 2 西班牙の青】『青い夜のことば』(1999年刊)P55~
    参加者:N・I、M・S、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、
       T・H、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:T・H まとめ:鹿取未放
          

84 尖塔は碧空に入りて西班牙の深き虚に触れ物思はしむ

      (レポート)
 私は残念ながら、この尖塔がどこの教会のものか分からない。スペインの都市には至る所教会があり、そこには高い尖塔が聳えている。マドリッドのカテドラル、バルセロナのガウディのサグラダ・ファミリア、サンディアゴ・デ・コンポステラのカテドラル、いずれも高い尖塔を持つ。それは少しでも天に近づきたいとのキリスト教の信仰の現れで、ゴシック建築の特徴。今、馬場はその尖塔を仰ぎ見ている。その尖塔はスペインの紺碧の空に吸い込まれているように見える。またその尖塔は「深き虚に触れ」、歴史的な事件や人間の営みなどについて、馬場を深い思いに誘っている。スペインの深き虚とは何か、かつてスペインは、大航海時代には、この地球上に日の沈むところなきまでに植民地を広げた。教会の尖塔を眺めることにより、スペインという国・地域の歴史的な事件や人間の営みなどまでに思いを致す馬場の感性の鋭さに感銘を受ける。 
    (T・H)


      (まとめ)
 「……人間にはとうていはかりしれない宇宙がやどすなにかの感情が、真っ青な幕になって砂漠に垂れおちているようだ。いつくしみでも憐(あわ)れみでも恩寵(おんちょう)でもない、酷薄か虚無か、あるいは意味という意味をすべてろ過しつくした蒼空(そうくう)である。」
          辺見庸(神奈川新聞二〇〇八年七月二八日朝刊)

 82番歌「静かの海のさびしさありてマドリッドのまつさをな虚にもろ手を伸ばす」にもあった「虚」がまた出てきた。直截に言えば「虚空」ということだろう。こちらは「尖塔」だから82番歌の「虚」より物思う内容が絞りやすい。大きくいえば、やはり東洋思想と西洋思想、キリスト教という思想についてであろう。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠 83 スペイン③

2024-08-29 09:14:23 | 短歌の鑑賞
 2024年度版 馬場あき子の外国詠10(2008年7月)
   【西班牙 2 西班牙の青】『青い夜のことば』(1999年刊)P55~
    参加者:N・I、M・S、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、
       T・H、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:T・H まとめ:鹿取未放
          

83 ジパングは感傷深き小さき人マドリッドにアカシアの花浴びてをり

        (レポート)
 「ジパング」はいうまでもなくマルコポーロが『東方見聞録』において、日本を指した言葉。ここでは詠者である馬場を指しているのか、同行者全員を指しているのか。「感傷深き小さき人」日本人は確かにヨーロッパ人、とりわけスペイン人よりは身体的に小さい。今、詠者である馬場はマドリッドの大きなアカシアの木の下で、その花びらを浴びつつ、日本人とヨーロッパ人の精神構造の違い、地理的・風土的な違いを、しみじみと感じている。今回のスペイン旅行詠で、馬場はジパングという言葉を使うことによって、日本とスペインとの歴史的な背景にまで思いを致している。その心のあり方が「感傷深き小さき人」に表現されていると思う。(T・H)


         (まとめ)
 二首前では「ジパングの国より来たる感情の溺れさうなる西班牙の空」と詠ってジパングと空を取り合わせていたが、この歌ではアカシアとの取り合わせ、空の歌よりも感傷が限定できそうだ。「感傷深き小さき人」はここで花を浴びているのだが、「感傷深き」を考えると作者のことと考えたい。「小さき」は日本人の身体的特徴としてしばしば馬場の旅行詠に出てくる。モロッコのスークで「モモタロー」と呼びかけられたという歌も印象に残っているが、自嘲気味とまではいかなくても、やや引け目は感じている表現だろう。ちなみにアカシアは古代イスラエル人には聖木であったそうだ。(鹿取)

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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 310

2024-08-28 15:42:53 | 短歌の鑑賞
  2024年度版 渡辺松男研究37(2016年4月実施)
    【垂直の金】『寒気氾濫』(1997年)124頁~
     参加者:S・I、泉真帆、M・S、鈴木良明、
         曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取 未放

310 銀杏 病気をしたことのないふりをして人仰がせる垂直の金

      (レポート)
(解釈)銀杏の木がある。病気なんかしたことがいなように、垂直に突っ立って、金色に葉を染めている。
(鑑賞)銀杏は東京都の木。霞ヶ関を思う。自分たちには何の病もない風を装い、人を仰がせている。「金」は金権にからむ政界を揶揄しているのか。(真帆)


      (当日発言)
★銀杏で権威を象徴されているのですね。銀杏が病気するとかしないとか、そういう表
 現が凄いなと思います。病気をするしないにかかわらず人は銀杏を見上げますよね。
 病気をしたことのないふりをするってどういうことなのかなあと、この鑑賞ではまだ
 ちょっと分からないのですが。(S・I)
★銀杏は権威だと思いました。それで、自分たちには一点の非の打ち所もないとかそう
 いう感じかと。ほんとうは悪いところを隠していて。(真帆)
★銀杏は単純に丈夫です。葉っぱもしっかりしている。木の性格として病気しないよう
 な。銀杏の葉っぱって何か薬草にもなりますよね。そんな丈夫な木が秋になって垂直
 に立っている。(鈴木)
★「垂直の金」というのが一連の題になっているので、この歌は大事な歌なのでしょ
 う。松男さんが木を歌うときは木そのものを歌っているので、私は何かの象徴とか取
 らない方がよいと思います。もちろん病気をしたことのないふりをするとか擬人化さ
 れているので、いろいろ考えられる余地はあるのですが、少なくともお金とか権力に
 は結びつけない方が豊かな歌になるように思います。たまには病むことのある銀杏の
 木も、秋になって垂直の優美な肢体を保ち金色に輝いている、その銀杏の讃歌。もう
 少し先に「一本のけやきを根から梢まであおぎて足る日あおぎもせぬ日」という歌が
 あって、こちらは自分の心が木に吸い寄せられて見上げながら満足する日とこころが
 木を忘れてしまっている日があるというのですが、主客は違うけど木のすばらしさを
 讃えていますよね。(鹿取)
★前の章のような政治のことが多く歌われていると、この歌を金権とかに結びつけても
 よいと思いますが、ここは病気の話で始まっているので。歌集の構成の中で読まな
 いと。(鈴木)
★ああ、作者は銀杏に寄り添っているんですね。(S・I)


       (後日意見)(2016年5月)
 イチョウ科の樹木は中生代(約2億5千万年前~約6千6百万年前)に最も盛えていたという。恐竜と同時代を生きていた木である。しかしその多くが氷河期に絶滅してしまい、現代に見られる銀杏はその中のたった一種の生き残りで「生きている化石」と呼ばれている。松男さんは木をよく知る人だから、上に書いたようなことがらは知識であるなどと意識もしないで彼の内にあるのだろう。この歌がそんな作者の内面をくぐって紡ぎ出されたことを考えると、銀杏が「病気をしたことのないふりをして」いるとか、「垂直の金」であるという表現も更に深く味わえるだろう。(鹿取)

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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 309

2024-08-27 10:16:03 | 短歌の鑑賞
  2024年度版 渡辺松男研究37(2016年4月実施)
    【垂直の金】『寒気氾濫』(1997年)124頁~
     参加者:S・I、泉真帆、M・S、鈴木良明、
         曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取 未放

309 親戚の皆集まりて撮りしときフラッシュひとつ死を呼ぶごとし

      (レポート)
 親戚がみんな集まって、集合写真をとる場面。一枚の集合写真を撮ると、また誰かが亡くなり、また次の集合写真の場面が来るようだ。(真帆)


     (当日発言)
★これも上手いなあと思います。さっき鈴木さんが言われたように光と影があって人間
 は存在する、これもフラッシュがたかれて、影を失った人が次に死ぬ。年の順に死ぬ
 とは限らないけど誰かが次に死ぬわけですから。(慧子)
★死と生って連続性があるんですね。日常性の中に死があるとそういうことをうたって
 いらっしゃる。親戚が集まるのは死者を悼むそういう場なんですけど。そこに写真と
 いうものを登場させて異質なものを詠んでいる。(S・I)
★この「ひとつ」はどちらに掛かるんですか?フラッシュが「ひとつ」か?「ひとつ」
 の死を呼ぶのか?(真帆)
★両方に掛かるんじゃないですか。フラッシュが「ひとつ」たかれると「ひとつ」の死
 を呼ぶ。私はこの歌を読むと小高賢さんの次の歌を思い出します。〈一族がレンズに
 並ぶ墓石のかたわらに立つ母を囲みて〉『耳の伝説』(1984年)お父さんのお墓
 の傍にお母さんが立って、そのお母さんを囲んで一族が写真を撮っている。墓石には
 お母さんの名前が赤い文字で入っている。そしてこの歌では次の死とは言っていな
 いけど、次にお母さんの死が来ると充分想像させる。わりと似た状況の歌ですが、小
 高さんのはあくまで現実に即してリアル。松男さんのは下の句でぱっと次元が移動す
 る感じですね。(鹿取)

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