かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 2の205

2019-09-30 20:08:30 | 短歌の鑑賞
   ブログ用渡辺松男研究2の27(2019年9月実施)
     Ⅳ〈蟬とてのひら〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P133~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉真帆、渡部慧子    司会と記録:鹿取未放

  ◆5年以上の長きにわたって共に学んできたT・Sさんが
   9月5日急逝されました。感謝してご冥福をお祈りします。
  ◆秋田の菅原あつ子さんが、紙上参加で加わってくれました。


205 われひとり ひとりであれば蟬を食べいいようのなき午後のしずけさ

      (レポート①)
 初句「われひとり」の次の一字空けは何なのだろう。この一字空けから異界へゆくように、妄想をここから広げる。そのような意図だろうか。ちょうど今一人で居て蟬を食べる。食べると蟬声は絶える。結果いいようのない午後のしずけさとなる。ここにものの善し悪しをこえた何か根源性につながるような静けさを感じる。世界にたったひとりでいるような、吞まれてしまうような圧倒的な夏の午後の静けさを詠っていよう。(慧子)

          (レポート②)
 今回ネットで検索してみて初めて知ったのだか、蟬は食べられるのだそう。唐揚げにしたり、幼虫は味付けをして燻製にしたりするらしい。作者は一人の時にこっそり蟬を食べてみた(心で食べたのかもしれないが)、そうしたらいいようのないしづけさがあたりを包んだという。「午後のしずけさ」には蟬を食べてしまったという単純な悲しみなどではない、もっと深くて厳かな寂しさがあるように思う。(真帆)

     (レポート③)(紙上参加意見)
  本当に「蝉を食べ」たかどうかはわからない。たぶん、食べてはいないだろう。けれど、確かにシャリシャリと乾いた音がしそうで、その音は午後の静けさを際立たせるだろうし、蝉という殻ばかりで実態のないような軽いものを食べればむなしく孤独感は強まるだろうから、「蝉を食べ」がぴったりなのだ。(菅原)


      (当日意見)
★存在の根源的な寂しさを詠った名歌だと思います。蟬をほんとうに食べたかどうかは追
 求しなくていい。われはこの世に一人で存在している、絶対的な孤独です。(A・K)
★もう少し先に枯れ葉や日溜まりを食べる歌があって、確か川野里子さんがどこかでその
 歌について書いていらしたのですが、見つけられなくて。たぶんA・Kさんの今の意見
 のようなことだったと思うのですが。(鹿取)
★枯れ葉とか日溜まりは叙情的ですね。でも、ここは蟬でもっと即物的ですから怖い。人
 間は意識していなくても他の命を食べて生きている。食べたのは魚や鶏だったかもしれ
 ないけど、この人は蟬と言った。蟬は弱いですから人間に抵抗できない。それにはっと
 気が付いたとき、自分が世界に存在すること自体の絶対的な寂寥のようなものを感じた。
 善悪を超えたところにある孤独と寂寥だと思います。普通われわれは「蟬食べて」とは
 言えなくて茄子とかになっちゃうけど、蟬が出たからこそ深い歌になった。(A・K)
★イナゴなどでなく蟬だからいいですね。イナゴ食べても静かにはならないけど、蟬だか
 ら食べられると鳴き声が消えて静かになる。(岡東)
★しずかさをそう解釈すると歌が浅くなります。私はいかに読者を自分の歌に引き込むか
 が大切と教えられてきました。迎合することとは違いますが。蟬を食べるって読者はび
 っくりしますよね。(A・K)

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渡辺松男の一首鑑賞 2の204

2019-09-29 22:33:08 | 短歌の鑑賞
   ブログ用渡辺松男研究2の27(2019年9月実施)
     Ⅳ〈蟬とてのひら〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P133~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉真帆、渡部慧子    司会と記録:鹿取未放

  ◆5年以上の長きにわたって共に学んできたT・Sさんが
   9月5日急逝されました。感謝してご冥福をお祈りします。
  ◆秋田の菅原あつ子さんが、紙上参加で加わってくれました。


204 風痩せて引出しにありわれの風かつて神社におみな泣かせき

      (レポート①)
 一首中に風が二度使われている。同じ意味なのか、どうなのか。臆病風が吹くや役人風を吹かせるなどという例があるので第3句のわれの風はまさしく個人的な女への風だろう。しかし、冒頭の風は3句以下のわれの風のなりゆきを暗示はしていよう。しかしそれのみではないだろう。初句は風という大きな自在な動きをしていたものを想像したい。それがなんであろうと「引出にあり」と作者にひきつけていて、秀逸だと思う。「風痩せて引出にあり」という新鮮さをもって序詞のようでもあり、魅力的な一首。(慧子)

          (レポート②)
 こどもの頃を思い出している歌だろう。豊かな風とはいうが、ここではそれを逆手にとって、反対の表現をし「風が痩せている」と言った。子供時代の、思い出すだけでも恥ずかしくなるようなことはきっと誰にでもあるだろう。作者は、思い出の引出しを開けると、ピューっと痩せた風がふいてくるように、神社で女の子を泣かせたことを思い出すのだという。好きな女の子だからつい意地悪してしまったのだろう。「風痩せて」や「われの風」と「風」の抒情詩にしたところが印象的だ。(真帆)

      (レポート③)(紙上参加意見)
 若いころ、神社で女性を泣かせてしまったことがあり、引出を開けたらふわっとその時の事が思い出されたのだろう。私たちは引出にいろいろなものをしまい込む。他人にはどうでもいいような子供っぽい思い出や秘密の品を。だから、引出を開けると忘れかけていたことを思い出したりする。若さゆえの衝動を「風」とたとえたのか、「風痩せて」がきれいで上手。それにしても、優しそうな作者にもこんな若い日があったのですね。(菅原)


      (当日意見)
★「風痩せて」と引出にありが上手だなと思います。(岡東)
★馬場あき子は「風死にし」とか使っていますよね。(鹿取)
★対象が慧子さんは女、真帆さんは女の子、菅原さんは女性、それぞれ全く解釈が違いま
 すね。好みとしては少女です。神社で女を泣かせたなんて三文小説みたいで嫌ですよね。
   (A・K)
★おみなってもとは「をみな」で古語では若くて美しい女性ですよね。(鹿取)

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渡辺松男の一首鑑賞 2の203

2019-09-28 21:14:04 | 短歌の鑑賞
   ブログ用渡辺松男研究2の27(2019年9月実施)
     Ⅳ〈蟬とてのひら〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P133~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉真帆、渡部慧子    司会と記録:鹿取未放

  ◆5年以上の長きにわたって共に学んできたT・Sさんが
   9月5日急逝されました。感謝してご冥福をお祈りします。
  ◆秋田の菅原あつ子さんが、紙上参加で加わってくれました。


203 わが内に墓掘るおとこ墓を掘り墓穴ふかく夏日をそそぐ

     (レポート①)
 「墓掘るおとこ墓を掘り」という繰り返しのあるフレーズから墓掘りを当たり前のこととしてひたすら墓を掘っているらしい様子がうかがえる。そして下の句の「墓穴ふかく夏日をそそぐ」の行為の主体が上の句と同じでこれが不思議だ。おそらく「ひたすら墓を掘っているともう没我のような状態になり、対称性を抜けるのだろう。それもこれも自身のうちのこととなる。これが表現上の律にも及び2句3句と4句5句とが主体を同じくする並列表現となって美しい。ところでわがうちに墓掘るおとこがいるというこの設定は、作者にとって生と死とはひとつづき、いや生は死をはらんでいる、そのような死生観のゆえだろう。(慧子)

          (レポート②)
 自分にもいつか死神がやってくる。それは日々着々と進められている。「墓を掘り墓穴ふかく」と文字に詠まれると、暗く深い穴に突き落とさせれるような恐怖を感じる。そこへ作者は「夏日をそそぐ」と締めくくる。「夏日をそそぐ」から喚起されるのは、万緑に燦々とふりそそぐ生命力や、命への賛歌といった肯定的なニュアンスだ。いづれ作者の入るであろう墓穴を掘っている男が、その墓穴へ夏日を注いでいる。陽に満たされた墓穴は、墓穴の土の湿り気も蒸発させるような感触があり、死は逃れられないごく自然の掟なのだとという作者のおおらかな諦観を思う。(真帆)

      (レポート③)(紙上参加意見)
 誰の墓だろう。たぶんその墓は親しい人の墓で、何度もともに楽しい夏を過ごしたのかもしれない。その人の死を、その人の思い出とともに、大切にあたためながら受入れようとしているのだろう。「夏日をそそぐ」がいい。こんな明るくてあたたかな墓穴に葬られる人は幸せだなと思う。(菅原)
    
     (当日意見)
★墓を掘っているのは作者自身なんでしょうか。全く他者なんでしょうかね。それによ
  って解釈が違ってきますよね。自分が掘っている方がわかりやすいでしょうかね。でも、
 生の中に死があるでは誰もがそう思っていてあまりに当たり前ですよね。それから「夏
 日がそそぐ」ではなく「夏日をそそぐ」で受け身じゃないんですよね。墓を掘るのが 
 自分だと、自分は同時にその墓穴に夏日をそそいでいるんですね。夏日をそそぐをど
 う解釈するかですよね。(A・K)
★私は死に神みたいな時間のようなものがあって、夏日をそそそいでいるのは大いなる
 もののような気がしましたけど。(真帆)
★「夏日がそそぐ」だったらそれでいいんです。「夏日をそそぐ」だから難しいですね。
 私は分からないのでものすごく単純に死から遠い感覚かと解釈してみました。秋風や
 凩が吹きすぎるのでもなく、霜や雪を降らせるのでもなく夏日の乾いた感じ。(鹿取)
★人間というのは通常は自分の死をどこかで意識しているけど実感としては感じていな 
 い。死が遠い感覚という鹿取さんのおっしゃるようなことかな。(A・K)

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渡辺松男の一首鑑賞 2の202

2019-09-27 18:35:06 | 短歌の鑑賞
   ブログ用渡辺松男研究2の27(2019年9月実施)
     Ⅳ〈蟬とてのひら〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P133~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉真帆、渡部慧子    司会と記録:鹿取未放

  ◆5年以上の長きにわたって共に学んできたT・Sさんが
   9月5日急逝されました。感謝してご冥福をお祈りします。
  ◆秋田の菅原あつ子さんが、紙上参加で加わってくれました。


202 いとこ死にまたいとこ死に真夜中の廊下廊下に歯をみがく音

     (レポート①)
 たとえば、音楽の豊かさは聴く人のそれぞれのたのしさ、切なさを呼び起こし、過ぎ去った時と今を重ね、今をさらに深くすることにあろう。ここでは映画の一場面のように鮮やかに死者と歯を磨く音をひきよせて、死者への懐かしさと哀しさをこめた感情がみえる。そしてこちらとあちらをつなぐような今と昔(従兄弟達と遊んだ幼いころ)をゆききできるようなそんな場としての廊下であろう。(慧子)

          (レポート②)
  一人のいとこが死に、またもう一人いとこが死んだという、あるいは「またいとこ」の部分は「またいとこ/又従兄弟(又従姉妹)」かもしれない。(またいとことは親がいとこである子どうしの関係、ふたいとこともいう)。通夜に集まったのか、病院でなくなったのか、親戚たちの歯を磨く音が廊下廊下に響いているという。静まりかえった廊下に、誰もが力尽きたように歯を磨く音だけが響いている。まだ生きているものの歯を磨く行為が、余計に寂しく感じられる。(真帆)

      (レポート③)(紙上参加意見)
 年齢の近い近親者が相次いで死んでしまい、不意を突かれたような驚きが、「真夜中の廊下廊下に歯をみがく音」という学校の怪談めいた表現によって、妙な生々しさで伝わってくる。実際に、作者はいとこたちと一緒に泊まって仲良く歯を磨いたことがあるのかもしれない。(菅原)

      (当日意見)
★岡東さん、この歌の歯を磨いているのは生者ですか?死者ですか?(鹿取)
★私はごく平凡にお葬式に来た人が磨いているんだと思ったのですが。(岡東)
★私は死者達だと思っていました。廊下廊下だから一つの廊下ではないんですよね。まあ
 大邸宅なら沢山の廊下があるでしょうが、ここはそういう光景を幻視・幻聴している。
 ほんとうは幻視・幻聴なんていう必要も無くてありありと見ている。状況は全く違いま
 すが渡辺白泉の「戦争が廊下の奥に立ってゐた」の象徴性を思いました。(鹿取)
★当然死者ですよね。同時に死ぬってことはまあないので次々にいとこが死んだ。複数の
 死者ですね。そういう死者達が夜中に歯を磨く音がしているようだ。現実ではないです
 ね。一つ一つは普通の言葉なんだけど組み合わされると全く違う複雑な情景が生まれて
 いますよね。幻影であるし幻聴であるし、深くて淋しいもの。(A・K)
★歯を磨くということが余りに鮮やかすぎて死者の行為のようには思えなかったんです。
 話し声とか笑っているとかだったら違うけど、具体的な行為だから。(真帆)
★歯を磨く音がリアルだから幻聴としての説得力があるように思います。(A・K)
★私は入眠時幻覚というのをよく見て、死者だと分かっているいる人がベッドのそばにや
 ってきて話しかけたりするんだけど、衣擦れの音とか息づかいとかとってもリアルに聞
 こえるので、死者が歯を磨く音は全く違和感がないのですが。これは歌ですから実際の
 経験を詠う必要は全く無いので、松男さんは自由に創作されていると思いますが。
  (鹿取)

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渡辺松男の一首鑑賞 2の201

2019-09-26 17:52:20 | 短歌の鑑賞
   ブログ用渡辺松男研究2の27(2019年9月実施)
     Ⅳ〈蟬とてのひら〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P133~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉真帆、渡部慧子    司会と記録:鹿取未放

  ◆5年以上の長きにわたって共に学んできたT・Sさんが
   9月5日急逝されました。感謝してご冥福をお祈りします。
  ◆秋田の菅原あつ子さんが、紙上参加で加わってくれました。

201 われひそと糞石(ふんせき)つぶしおりたればなにごとならん遠きやまの火

     (レポート①)
 糞石(ふんせき)とは生物の排泄物が化石になったもので、それをひっそり潰していたとき、遠き山の火を見たという内容。意外な二つを感性によってとりあわせ、詠う手法があるが、掲出歌では4句に「なにごとならん」とつないでいる。遠き山の火を見ながら自分の行為に立ち止まって何かを思ったのだろう。いやしくもかつての生物の命にかかわったものをつぶしていて山のしずかな怒りにふれたのかもしれないと。(慧子)

      (レポート②)
 「糞石」は人間や動物の糞の化石。作者は一九八六年から四年間、群馬県庁林務部保護対策室に在席し、自然保護のための調査をしたという。山林に落ちている石の塊を見て「糞石」だと思える人は少ないだろう。歌のモチーフとして新鮮で、踏みつぶすと、カシャっと音が立つような気さえして、妙なリアリティーも伝わる。そんなとき、何事なのか、遠くの山に火が見えるという。結句で一気に不穏な気配が立ち上る。糞石と山の火の取り合わせの意外性といい、視線と心情を、地面から遠くの山の「火」にすっと持って行かせ、不穏な「火」に集中させるてゆくところも巧みだ。(真帆)

      (レポート③)(紙上参加意見)
 「ひそと」がポイントだろう。作者は生態観察か研究の為に、糞石をつぶしている。そしてそのことに後ろめたさか恐れのようなものを感じている。だから、その時に遠くの山で火事が起きたらしいことに何か因縁めいた感じを抱いたのだろう。人間が他の生き物や自然の世界へ無遠慮に踏み込んでゆくことへの恐れの感覚は、今や多くの人々から失われていて、作者はそのことにも心を痛めているのではないかと感じさせられた。(菅原)


     (当日意見)
★菅原さんの意見に近いですが、糞石をつぶす行為にちょっと後ろめたい気持ちを持って
 いて、だから「ひそと」。足で踏み潰すのではなく「ひそと」だから手で細々と砕いて
 いる。火は聖性を象徴しているような気がします。(鹿取)
★私も手で潰していると思う。糞石には時間の堆積があります。永遠の時間を思いました。
 そして遠い火と両方の時間があるように思います。(A・K)
★この火は山火事かどうかわからない。浅間山の噴火かもしれないし。二つの違うものを
 詠んでいるようで糞石と火は時間において繋がっている。(岡東)
★山火事でも噴火の火でもいいと思うのですが、どちらにしても聖性というか浄化を感じ
 ます。冒瀆しているような自分の行為に対して、許しって言ったら言いすぎだけど。
  (鹿取)
★こういう素材で歌を作るかと思いますね。摑み方が他の人と全く違いますね。(A・K)
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