ブログ用渡辺松男研究2の27(2019年9月実施)
Ⅳ〈蟬とてのひら〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P133~
参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
渡部慧子、鹿取未放
レポーター:泉真帆、渡部慧子 司会と記録:鹿取未放
◆5年以上の長きにわたって共に学んできたT・Sさんが
9月5日急逝されました。感謝してご冥福をお祈りします。
◆秋田の菅原あつ子さんが、紙上参加で加わってくれました。
205 われひとり ひとりであれば蟬を食べいいようのなき午後のしずけさ
(レポート①)
初句「われひとり」の次の一字空けは何なのだろう。この一字空けから異界へゆくように、妄想をここから広げる。そのような意図だろうか。ちょうど今一人で居て蟬を食べる。食べると蟬声は絶える。結果いいようのない午後のしずけさとなる。ここにものの善し悪しをこえた何か根源性につながるような静けさを感じる。世界にたったひとりでいるような、吞まれてしまうような圧倒的な夏の午後の静けさを詠っていよう。(慧子)
(レポート②)
今回ネットで検索してみて初めて知ったのだか、蟬は食べられるのだそう。唐揚げにしたり、幼虫は味付けをして燻製にしたりするらしい。作者は一人の時にこっそり蟬を食べてみた(心で食べたのかもしれないが)、そうしたらいいようのないしづけさがあたりを包んだという。「午後のしずけさ」には蟬を食べてしまったという単純な悲しみなどではない、もっと深くて厳かな寂しさがあるように思う。(真帆)
(レポート③)(紙上参加意見)
本当に「蝉を食べ」たかどうかはわからない。たぶん、食べてはいないだろう。けれど、確かにシャリシャリと乾いた音がしそうで、その音は午後の静けさを際立たせるだろうし、蝉という殻ばかりで実態のないような軽いものを食べればむなしく孤独感は強まるだろうから、「蝉を食べ」がぴったりなのだ。(菅原)
(当日意見)
★存在の根源的な寂しさを詠った名歌だと思います。蟬をほんとうに食べたかどうかは追
求しなくていい。われはこの世に一人で存在している、絶対的な孤独です。(A・K)
★もう少し先に枯れ葉や日溜まりを食べる歌があって、確か川野里子さんがどこかでその
歌について書いていらしたのですが、見つけられなくて。たぶんA・Kさんの今の意見
のようなことだったと思うのですが。(鹿取)
★枯れ葉とか日溜まりは叙情的ですね。でも、ここは蟬でもっと即物的ですから怖い。人
間は意識していなくても他の命を食べて生きている。食べたのは魚や鶏だったかもしれ
ないけど、この人は蟬と言った。蟬は弱いですから人間に抵抗できない。それにはっと
気が付いたとき、自分が世界に存在すること自体の絶対的な寂寥のようなものを感じた。
善悪を超えたところにある孤独と寂寥だと思います。普通われわれは「蟬食べて」とは
言えなくて茄子とかになっちゃうけど、蟬が出たからこそ深い歌になった。(A・K)
★イナゴなどでなく蟬だからいいですね。イナゴ食べても静かにはならないけど、蟬だか
ら食べられると鳴き声が消えて静かになる。(岡東)
★しずかさをそう解釈すると歌が浅くなります。私はいかに読者を自分の歌に引き込むか
が大切と教えられてきました。迎合することとは違いますが。蟬を食べるって読者はび
っくりしますよね。(A・K)
Ⅳ〈蟬とてのひら〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P133~
参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
渡部慧子、鹿取未放
レポーター:泉真帆、渡部慧子 司会と記録:鹿取未放
◆5年以上の長きにわたって共に学んできたT・Sさんが
9月5日急逝されました。感謝してご冥福をお祈りします。
◆秋田の菅原あつ子さんが、紙上参加で加わってくれました。
205 われひとり ひとりであれば蟬を食べいいようのなき午後のしずけさ
(レポート①)
初句「われひとり」の次の一字空けは何なのだろう。この一字空けから異界へゆくように、妄想をここから広げる。そのような意図だろうか。ちょうど今一人で居て蟬を食べる。食べると蟬声は絶える。結果いいようのない午後のしずけさとなる。ここにものの善し悪しをこえた何か根源性につながるような静けさを感じる。世界にたったひとりでいるような、吞まれてしまうような圧倒的な夏の午後の静けさを詠っていよう。(慧子)
(レポート②)
今回ネットで検索してみて初めて知ったのだか、蟬は食べられるのだそう。唐揚げにしたり、幼虫は味付けをして燻製にしたりするらしい。作者は一人の時にこっそり蟬を食べてみた(心で食べたのかもしれないが)、そうしたらいいようのないしづけさがあたりを包んだという。「午後のしずけさ」には蟬を食べてしまったという単純な悲しみなどではない、もっと深くて厳かな寂しさがあるように思う。(真帆)
(レポート③)(紙上参加意見)
本当に「蝉を食べ」たかどうかはわからない。たぶん、食べてはいないだろう。けれど、確かにシャリシャリと乾いた音がしそうで、その音は午後の静けさを際立たせるだろうし、蝉という殻ばかりで実態のないような軽いものを食べればむなしく孤独感は強まるだろうから、「蝉を食べ」がぴったりなのだ。(菅原)
(当日意見)
★存在の根源的な寂しさを詠った名歌だと思います。蟬をほんとうに食べたかどうかは追
求しなくていい。われはこの世に一人で存在している、絶対的な孤独です。(A・K)
★もう少し先に枯れ葉や日溜まりを食べる歌があって、確か川野里子さんがどこかでその
歌について書いていらしたのですが、見つけられなくて。たぶんA・Kさんの今の意見
のようなことだったと思うのですが。(鹿取)
★枯れ葉とか日溜まりは叙情的ですね。でも、ここは蟬でもっと即物的ですから怖い。人
間は意識していなくても他の命を食べて生きている。食べたのは魚や鶏だったかもしれ
ないけど、この人は蟬と言った。蟬は弱いですから人間に抵抗できない。それにはっと
気が付いたとき、自分が世界に存在すること自体の絶対的な寂寥のようなものを感じた。
善悪を超えたところにある孤独と寂寥だと思います。普通われわれは「蟬食べて」とは
言えなくて茄子とかになっちゃうけど、蟬が出たからこそ深い歌になった。(A・K)
★イナゴなどでなく蟬だからいいですね。イナゴ食べても静かにはならないけど、蟬だか
ら食べられると鳴き声が消えて静かになる。(岡東)
★しずかさをそう解釈すると歌が浅くなります。私はいかに読者を自分の歌に引き込むか
が大切と教えられてきました。迎合することとは違いますが。蟬を食べるって読者はび
っくりしますよね。(A・K)