2024年度版 馬場あき子の外国詠59(2013年12月実施)
【発光 武寧王陵にて】『南島』(1991年刊)P90~
参加者:K・I、崎尾廣子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:崎尾 廣子 司会とまとめ:鹿取 未放
427 宋山里(そうさんり)の神に購ひし買地券武寧王残せり墳墓の闇に
(レポート)(崎尾)
■買地券
土地の売買証明書をいうが、中国考古学では墓地を購入したことを証明する文書に限っていい、しばしば墓の副葬品として発見される。後漢以降、近世まで長く行われた。石、塼、鉛、玉、鉄などの板に記したもので、内容は年月日、被葬者の住所・氏名・性別・年齢、墓の所在地、土地の値段、土地の範囲などからなる。漢代のものは実際の状況を記したらしいものもあるが、後には冥界での架空の状況を記すようになる。つまり天地から土地を購入し、もし土地争いが起これば地下の神である〈土伯〉や天上の神である〈天帝〉のところへ訴えよという道教的な内容である。中国以外の例としては韓国の百済武寧王陵から出土した買地券が著名である。日本では1979年に福岡県太宰府市の宮ノ本遺跡で、平安時代と見られる火葬墓から、長さ35.21㎝、幅9.5㎝、厚さ2㎜の鉛板に刻んだ買地券が発見され、この買地券は赤外線テレビカメラにより、方一丈の土地を〈銭25文、くわ1口、絹5夫、調布5口、白綿1目(斤)〉で買ったことが解読された。 (世界大百科事典 平凡社)
※レポートは手書きであり、終わりから2行目の「くわ」は漢字で、「秋」の下に「金」と書く一文字。ネットから「世界大百科事典」の引用部分をコピーしてみたが、「くわ」の文字は反映できなかった。
(当日発言)
★「宋山里の神」というのは何なんですか?(鹿取)
★買地券の説明に書いてあるように、天地の神から買うんだけど、ここでは宋山里とい
う土地の神に作者が限定しているところが面白い。(崎尾)
★天地の神から買うってお金は誰に払うの?(鹿取)
★神様だからお金は払わない。(崎尾)
(追記)(13年12月)
レポーターの引用と重なる部分もありますが、以下の説明の方が分かりやすいので「邪馬台国大研究H・P」より引用させていただきます。
【羨道にあった誌石(墓碑)。墓地を神から買い取るための「買地券」として残っていた。(買地券は、同じものが太宰府などでも発掘されている。)その誌石に、「斯麻王」(しまおう)と文字が刻まれていたため、この墓は百済第二十五代武寧王(在位502~523)の陵墓と確定した。誌石からみて、武寧王は523年5月に死亡して525年8月に王陵に安置され、王妃は526年11月に死亡して529年2月に安置された。そして閉塞用の塼のうち「士壬辰年作」の銘文磚は、王のなくなる11年前である512年に、既に築造準備がなされていたことを示している。誌石は2枚の長方形の石版である。横41.5cm、縦35cm、厚さ5cmの青灰色閃緑岩に、楷書体で文字を刻んだ。武寧王が523年に亡くなると、3年葬を行うために2年3ケ月の間、仮埋葬をして、王陵に安置する時に王の墓誌と千支図、買地券をつくったものと理解される。その後、526年に王妃が亡くなると、3年葬を行って529年に葬るときに、買地券を上下逆にして、裏側に王妃の墓誌を刻んだ。墓室は塼(せん)を積み上げて作ってあり、アーチ型の天井である。ここに、槙の木でできた王と王妃の柩が安置されていた。】
上記引用文から分かるように、武寧王の「買地券」は石版に彫られている。誰の墓か明記するためのものらしい。上記H・Pにあるように「買地券」とは要するに「墓碑」「墓石」である。
ところで、王と王妃の棺は槙の木とあるが、同H・Pによると、後年、これは日本にしかない高野槙という種類で、当時の半島と日本の密接な交流が伺えるそうだ。(鹿取)
【発光 武寧王陵にて】『南島』(1991年刊)P90~
参加者:K・I、崎尾廣子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:崎尾 廣子 司会とまとめ:鹿取 未放
427 宋山里(そうさんり)の神に購ひし買地券武寧王残せり墳墓の闇に
(レポート)(崎尾)
■買地券
土地の売買証明書をいうが、中国考古学では墓地を購入したことを証明する文書に限っていい、しばしば墓の副葬品として発見される。後漢以降、近世まで長く行われた。石、塼、鉛、玉、鉄などの板に記したもので、内容は年月日、被葬者の住所・氏名・性別・年齢、墓の所在地、土地の値段、土地の範囲などからなる。漢代のものは実際の状況を記したらしいものもあるが、後には冥界での架空の状況を記すようになる。つまり天地から土地を購入し、もし土地争いが起これば地下の神である〈土伯〉や天上の神である〈天帝〉のところへ訴えよという道教的な内容である。中国以外の例としては韓国の百済武寧王陵から出土した買地券が著名である。日本では1979年に福岡県太宰府市の宮ノ本遺跡で、平安時代と見られる火葬墓から、長さ35.21㎝、幅9.5㎝、厚さ2㎜の鉛板に刻んだ買地券が発見され、この買地券は赤外線テレビカメラにより、方一丈の土地を〈銭25文、くわ1口、絹5夫、調布5口、白綿1目(斤)〉で買ったことが解読された。 (世界大百科事典 平凡社)
※レポートは手書きであり、終わりから2行目の「くわ」は漢字で、「秋」の下に「金」と書く一文字。ネットから「世界大百科事典」の引用部分をコピーしてみたが、「くわ」の文字は反映できなかった。
(当日発言)
★「宋山里の神」というのは何なんですか?(鹿取)
★買地券の説明に書いてあるように、天地の神から買うんだけど、ここでは宋山里とい
う土地の神に作者が限定しているところが面白い。(崎尾)
★天地の神から買うってお金は誰に払うの?(鹿取)
★神様だからお金は払わない。(崎尾)
(追記)(13年12月)
レポーターの引用と重なる部分もありますが、以下の説明の方が分かりやすいので「邪馬台国大研究H・P」より引用させていただきます。
【羨道にあった誌石(墓碑)。墓地を神から買い取るための「買地券」として残っていた。(買地券は、同じものが太宰府などでも発掘されている。)その誌石に、「斯麻王」(しまおう)と文字が刻まれていたため、この墓は百済第二十五代武寧王(在位502~523)の陵墓と確定した。誌石からみて、武寧王は523年5月に死亡して525年8月に王陵に安置され、王妃は526年11月に死亡して529年2月に安置された。そして閉塞用の塼のうち「士壬辰年作」の銘文磚は、王のなくなる11年前である512年に、既に築造準備がなされていたことを示している。誌石は2枚の長方形の石版である。横41.5cm、縦35cm、厚さ5cmの青灰色閃緑岩に、楷書体で文字を刻んだ。武寧王が523年に亡くなると、3年葬を行うために2年3ケ月の間、仮埋葬をして、王陵に安置する時に王の墓誌と千支図、買地券をつくったものと理解される。その後、526年に王妃が亡くなると、3年葬を行って529年に葬るときに、買地券を上下逆にして、裏側に王妃の墓誌を刻んだ。墓室は塼(せん)を積み上げて作ってあり、アーチ型の天井である。ここに、槙の木でできた王と王妃の柩が安置されていた。】
上記引用文から分かるように、武寧王の「買地券」は石版に彫られている。誰の墓か明記するためのものらしい。上記H・Pにあるように「買地券」とは要するに「墓碑」「墓石」である。
ところで、王と王妃の棺は槙の木とあるが、同H・Pによると、後年、これは日本にしかない高野槙という種類で、当時の半島と日本の密接な交流が伺えるそうだ。(鹿取)