2024年度版 馬場あき子の外国詠14(2009年3月)改訂版
【西班牙 4 葡萄牙まで】『青い夜のことば』(1999年刊)P68~
参加者:N・I、T・K、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:T・K まとめ:鹿取未放
※この一連のまとめは、『戦国乱世から太平の世へ』(シリーズ日本近世史①藤井譲治) のほか、『支倉常長』(大泉光一)・講談社『日本全史』等を参照した。
119 飫肥(おび)城の資料館に天正の資料なし孤独なりき十三歳の伊東満所像
(レポート)
飫肥城は宮崎県日南市にある城でその城跡にある天正遣欧使節団の正使であった伊東満所の像を「孤独なりき」と詠まれている。
※天正使節:1582(天正10)年キリシタン大名大友宗麟・木村純忠は宣教師ワリヤー
ノの提議を受け入れローマ法王並びに欧州諸王侯に敬意を表し、同時に日本伝導の援助を
求めるために少年使節を遣わした。使節には長途の航海を考え、又新鮮な感受性を重んじ
て12~13歳の少年が選ばれた。(4名)
※天正遣欧使節
正使 伊東マンショ 1612年司祭として長崎で病死
直使 千々岩ミゲル 修道院を去り信仰を捨て迫害者の味方となり消息不明
副使 中浦ジュリアン 迫害の吹きつのる中、必死に努めたが吊首の刑で死
副使 原マルチノ マカオに流され1629(寛永6)年その地で死
その正使が伊東満所である。時の権力者の在り方でいつの世も空しい生涯を終える人たちの例にもれずこの4人の少年達の生涯も無惨であった。このことを知り、この一首を読む時「天正の資料なし孤独なりき」が胸を打つ。(T・K)
(当日発言)
★「飫肥城の城跡にある伊東満所の像」とレポーターは書かれているが、どうもこの城
には伊東満所の像は無いようですね。(鹿取)
★5・11・5・11・8と大幅な字余りだが、5・5・8と要所が締められているの
で全体は引き締まっている。(鹿取)
★固有名詞が多いから字余りになるのは当然。(藤本)
(まとめ)(2015年12月加筆)
◆この項、レポートと重複する部分もあるが、重複する部分だけ省略すると理解しにくくな
るので、あえて重複部分も載せています。
天正遣欧少年使節団は4人、正使の伊藤マンショほか中浦ジュリアン、原マルチノ、千々
岩ミゲルである。その顛末はおよそ以下のとおり。
1582年2月 天正遣欧少年使節団、サンチャゴ号で長崎を出航
1584年8月 難行苦行の末、2年8ヶ月ぶりにリスボン着
1584年10月 スペインの首都マドリードで国王フェリペ二世に謁見
1585年3月 ローマ教皇グレゴリア一三世に謁見
1586年4月 金銀財宝を積んだサン・フェリベ号がリスボンを出航
28艘の船団を組んだ
1587年 秀吉、バテレン追放令を出す。
1590年6月 使節団一行は、途中インド・ゴアに1年3ヶ月滞在するなどして
日本を出てから8年5ヶ月ぶりに長崎に入港。入国の許可を待っ
てマカオに2年も滞在していたという説もある
1591年3月 帰国後半年以上経て、聚楽第で秀吉に謁見。秀吉の前で持ち帰っ
た楽器で西洋音楽を奏でた
1612年 江戸幕府がキリスト教禁止令を出す
1614年 原マルチノを含む宣教師、信者、計148人をマカオに追放
使節団が出航した時はバテレンを保護した信長時代だったが帰国したときは秀吉の時代になっていた。金銀財宝を積んで意気揚々と帰国した彼らは、すでに時代に歓迎されない存在だった。使節団一行のその後を以下に記す。
▼正使・伊藤マンショは、修道士としてはやく中国マカオに派遣され、数年後長崎に戻って
きたが、1612年43歳で病没。
▼原マルチノは、追放先のマカオで1629年に没。
▼中浦ジュリアンは、国内に潜伏、布教活動を続けていたが、1632年小倉で捕らえられ
長崎に送られ、翌33年穴吊りの刑に処せられた。享年64歳。
穴吊りの刑……汚物を満たした穴の中に体をぐるぐる巻きにして逆さまに吊るし、頭
蓋に小さな穴を開け、そこから血を流れさせる刑。できるだけ苦しみ
を長引かせるためで、ジュリアン処刑の際にも3人が一緒に吊るされ
たが一人の神父はあまりの苦しさに処刑中に棄教、ジュリアンは4日
目に死亡したという。
▼千々岩ミゲルは、1605年棄教。葛藤の生涯を送った。棄教の理由はキリスト教会の一
部に日本侵略の考えがあることを見抜いた為という説もある。
飫肥(おび)城(現宮崎県日南市)の資料館に彼らの資料が無いのはキリスト禁教の後、難を恐れてのことであろう。ところでこの歌の伊東満所像はどこにあるのだろうか。歌をみて飫肥城と思いこんでいたが、調べたところどうも飫肥城には満所像は無いようだ。都於郡(とのこおり)城跡(現宮崎県西都市)・日南駅前広場・大分市遊歩公園には銅像がある。いずれかの伊東満所像に向かって、飫肥城の資料館に天正遣欧使節の資料が無いことを思っている歌なのかもしれない。
伊東満所の本名は祐益、日向の国主であった伊東義祐の孫にあたる。飫肥城を巡って島津家と伊東家で確執が続いたそうだが、義祐は1567年に飫肥城を奪取した。満所が生まれたのは飫肥城奪取のおよそ2年後ということになる。そういういわれのある城の資料館に彼等の功績を記す何ものも残されていないことに作者は感慨を抱いている。それは為政者に対する怒りか、為政者におもねる伊東家の保身に対する嘆きか、人間という存在に対するかなしみか、それらがない交ぜになったものなのだろうか。迫害されて失意の中で死に至った満所の産土の地からも見放されているような扱われ方に対して「孤独なりき」と嘆いている。わがことのように「き」を使って回想しているところが哀切である。
余談であるが、天正遣欧少年使節団は帰国の折グーテンベルグ印刷機を持ち帰り、以後日本語の活版印刷が行われるようになったとのことである。これは派遣当初からの目的の一つで、使節団の随員として印刷技術習得要員の少年二名が同道した。もう一つ、蛇足だが、伊東満所の銅像が建っている都於郡(とのこおり)城跡では、2012年、伊東満所没後400年ということで大々的に満所を顕彰する記念行事が行われたようである。(鹿取)
【西班牙 4 葡萄牙まで】『青い夜のことば』(1999年刊)P68~
参加者:N・I、T・K、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:T・K まとめ:鹿取未放
※この一連のまとめは、『戦国乱世から太平の世へ』(シリーズ日本近世史①藤井譲治) のほか、『支倉常長』(大泉光一)・講談社『日本全史』等を参照した。
119 飫肥(おび)城の資料館に天正の資料なし孤独なりき十三歳の伊東満所像
(レポート)
飫肥城は宮崎県日南市にある城でその城跡にある天正遣欧使節団の正使であった伊東満所の像を「孤独なりき」と詠まれている。
※天正使節:1582(天正10)年キリシタン大名大友宗麟・木村純忠は宣教師ワリヤー
ノの提議を受け入れローマ法王並びに欧州諸王侯に敬意を表し、同時に日本伝導の援助を
求めるために少年使節を遣わした。使節には長途の航海を考え、又新鮮な感受性を重んじ
て12~13歳の少年が選ばれた。(4名)
※天正遣欧使節
正使 伊東マンショ 1612年司祭として長崎で病死
直使 千々岩ミゲル 修道院を去り信仰を捨て迫害者の味方となり消息不明
副使 中浦ジュリアン 迫害の吹きつのる中、必死に努めたが吊首の刑で死
副使 原マルチノ マカオに流され1629(寛永6)年その地で死
その正使が伊東満所である。時の権力者の在り方でいつの世も空しい生涯を終える人たちの例にもれずこの4人の少年達の生涯も無惨であった。このことを知り、この一首を読む時「天正の資料なし孤独なりき」が胸を打つ。(T・K)
(当日発言)
★「飫肥城の城跡にある伊東満所の像」とレポーターは書かれているが、どうもこの城
には伊東満所の像は無いようですね。(鹿取)
★5・11・5・11・8と大幅な字余りだが、5・5・8と要所が締められているの
で全体は引き締まっている。(鹿取)
★固有名詞が多いから字余りになるのは当然。(藤本)
(まとめ)(2015年12月加筆)
◆この項、レポートと重複する部分もあるが、重複する部分だけ省略すると理解しにくくな
るので、あえて重複部分も載せています。
天正遣欧少年使節団は4人、正使の伊藤マンショほか中浦ジュリアン、原マルチノ、千々
岩ミゲルである。その顛末はおよそ以下のとおり。
1582年2月 天正遣欧少年使節団、サンチャゴ号で長崎を出航
1584年8月 難行苦行の末、2年8ヶ月ぶりにリスボン着
1584年10月 スペインの首都マドリードで国王フェリペ二世に謁見
1585年3月 ローマ教皇グレゴリア一三世に謁見
1586年4月 金銀財宝を積んだサン・フェリベ号がリスボンを出航
28艘の船団を組んだ
1587年 秀吉、バテレン追放令を出す。
1590年6月 使節団一行は、途中インド・ゴアに1年3ヶ月滞在するなどして
日本を出てから8年5ヶ月ぶりに長崎に入港。入国の許可を待っ
てマカオに2年も滞在していたという説もある
1591年3月 帰国後半年以上経て、聚楽第で秀吉に謁見。秀吉の前で持ち帰っ
た楽器で西洋音楽を奏でた
1612年 江戸幕府がキリスト教禁止令を出す
1614年 原マルチノを含む宣教師、信者、計148人をマカオに追放
使節団が出航した時はバテレンを保護した信長時代だったが帰国したときは秀吉の時代になっていた。金銀財宝を積んで意気揚々と帰国した彼らは、すでに時代に歓迎されない存在だった。使節団一行のその後を以下に記す。
▼正使・伊藤マンショは、修道士としてはやく中国マカオに派遣され、数年後長崎に戻って
きたが、1612年43歳で病没。
▼原マルチノは、追放先のマカオで1629年に没。
▼中浦ジュリアンは、国内に潜伏、布教活動を続けていたが、1632年小倉で捕らえられ
長崎に送られ、翌33年穴吊りの刑に処せられた。享年64歳。
穴吊りの刑……汚物を満たした穴の中に体をぐるぐる巻きにして逆さまに吊るし、頭
蓋に小さな穴を開け、そこから血を流れさせる刑。できるだけ苦しみ
を長引かせるためで、ジュリアン処刑の際にも3人が一緒に吊るされ
たが一人の神父はあまりの苦しさに処刑中に棄教、ジュリアンは4日
目に死亡したという。
▼千々岩ミゲルは、1605年棄教。葛藤の生涯を送った。棄教の理由はキリスト教会の一
部に日本侵略の考えがあることを見抜いた為という説もある。
飫肥(おび)城(現宮崎県日南市)の資料館に彼らの資料が無いのはキリスト禁教の後、難を恐れてのことであろう。ところでこの歌の伊東満所像はどこにあるのだろうか。歌をみて飫肥城と思いこんでいたが、調べたところどうも飫肥城には満所像は無いようだ。都於郡(とのこおり)城跡(現宮崎県西都市)・日南駅前広場・大分市遊歩公園には銅像がある。いずれかの伊東満所像に向かって、飫肥城の資料館に天正遣欧使節の資料が無いことを思っている歌なのかもしれない。
伊東満所の本名は祐益、日向の国主であった伊東義祐の孫にあたる。飫肥城を巡って島津家と伊東家で確執が続いたそうだが、義祐は1567年に飫肥城を奪取した。満所が生まれたのは飫肥城奪取のおよそ2年後ということになる。そういういわれのある城の資料館に彼等の功績を記す何ものも残されていないことに作者は感慨を抱いている。それは為政者に対する怒りか、為政者におもねる伊東家の保身に対する嘆きか、人間という存在に対するかなしみか、それらがない交ぜになったものなのだろうか。迫害されて失意の中で死に至った満所の産土の地からも見放されているような扱われ方に対して「孤独なりき」と嘆いている。わがことのように「き」を使って回想しているところが哀切である。
余談であるが、天正遣欧少年使節団は帰国の折グーテンベルグ印刷機を持ち帰り、以後日本語の活版印刷が行われるようになったとのことである。これは派遣当初からの目的の一つで、使節団の随員として印刷技術習得要員の少年二名が同道した。もう一つ、蛇足だが、伊東満所の銅像が建っている都於郡(とのこおり)城跡では、2012年、伊東満所没後400年ということで大々的に満所を顕彰する記念行事が行われたようである。(鹿取)