かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 

2024-10-31 19:51:18 | 短歌の鑑賞
  2024年度版 馬場あき子の外国詠14(2009年3月)改訂版
    【西班牙 4 葡萄牙まで】『青い夜のことば』(1999年刊)P68~
    参加者:N・I、T・K、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:T・K       まとめ:鹿取未放

※この一連のまとめは、『戦国乱世から太平の世へ』(シリーズ日本近世史①藤井譲治)      のほか、『支倉常長』(大泉光一)・講談社『日本全史』等を参照した。


119 飫肥(おび)城の資料館に天正の資料なし孤独なりき十三歳の伊東満所像

       (レポート)
 飫肥城は宮崎県日南市にある城でその城跡にある天正遣欧使節団の正使であった伊東満所の像を「孤独なりき」と詠まれている。

※天正使節:1582(天正10)年キリシタン大名大友宗麟・木村純忠は宣教師ワリヤー
 ノの提議を受け入れローマ法王並びに欧州諸王侯に敬意を表し、同時に日本伝導の援助を
 求めるために少年使節を遣わした。使節には長途の航海を考え、又新鮮な感受性を重んじ
 て12~13歳の少年が選ばれた。(4名)
※天正遣欧使節
    正使  伊東マンショ  1612年司祭として長崎で病死
    直使  千々岩ミゲル  修道院を去り信仰を捨て迫害者の味方となり消息不明
    副使  中浦ジュリアン 迫害の吹きつのる中、必死に努めたが吊首の刑で死
    副使  原マルチノ   マカオに流され1629(寛永6)年その地で死
 その正使が伊東満所である。時の権力者の在り方でいつの世も空しい生涯を終える人たちの例にもれずこの4人の少年達の生涯も無惨であった。このことを知り、この一首を読む時「天正の資料なし孤独なりき」が胸を打つ。(T・K)


     (当日発言)
★「飫肥城の城跡にある伊東満所の像」とレポーターは書かれているが、どうもこの城
 には伊東満所の像は無いようですね。(鹿取)
★5・11・5・11・8と大幅な字余りだが、5・5・8と要所が締められているの
 で全体は引き締まっている。(鹿取)
★固有名詞が多いから字余りになるのは当然。(藤本)


       (まとめ)(2015年12月加筆)
◆この項、レポートと重複する部分もあるが、重複する部分だけ省略すると理解しにくくな
 るので、あえて重複部分も載せています。

 天正遣欧少年使節団は4人、正使の伊藤マンショほか中浦ジュリアン、原マルチノ、千々
岩ミゲルである。その顛末はおよそ以下のとおり。
 1582年2月  天正遣欧少年使節団、サンチャゴ号で長崎を出航
 1584年8月  難行苦行の末、2年8ヶ月ぶりにリスボン着
 1584年10月 スペインの首都マドリードで国王フェリペ二世に謁見
 1585年3月  ローマ教皇グレゴリア一三世に謁見
 1586年4月  金銀財宝を積んだサン・フェリベ号がリスボンを出航
          28艘の船団を組んだ
 1587年    秀吉、バテレン追放令を出す。
 1590年6月  使節団一行は、途中インド・ゴアに1年3ヶ月滞在するなどして
          日本を出てから8年5ヶ月ぶりに長崎に入港。入国の許可を待っ
          てマカオに2年も滞在していたという説もある
 1591年3月  帰国後半年以上経て、聚楽第で秀吉に謁見。秀吉の前で持ち帰っ
          た楽器で西洋音楽を奏でた
 1612年    江戸幕府がキリスト教禁止令を出す
 1614年    原マルチノを含む宣教師、信者、計148人をマカオに追放
 使節団が出航した時はバテレンを保護した信長時代だったが帰国したときは秀吉の時代になっていた。金銀財宝を積んで意気揚々と帰国した彼らは、すでに時代に歓迎されない存在だった。使節団一行のその後を以下に記す。
▼正使・伊藤マンショは、修道士としてはやく中国マカオに派遣され、数年後長崎に戻って
 きたが、1612年43歳で病没。
▼原マルチノは、追放先のマカオで1629年に没。
▼中浦ジュリアンは、国内に潜伏、布教活動を続けていたが、1632年小倉で捕らえられ
 長崎に送られ、翌33年穴吊りの刑に処せられた。享年64歳。
   穴吊りの刑……汚物を満たした穴の中に体をぐるぐる巻きにして逆さまに吊るし、頭
          蓋に小さな穴を開け、そこから血を流れさせる刑。できるだけ苦しみ
          を長引かせるためで、ジュリアン処刑の際にも3人が一緒に吊るされ
          たが一人の神父はあまりの苦しさに処刑中に棄教、ジュリアンは4日
          目に死亡したという。
▼千々岩ミゲルは、1605年棄教。葛藤の生涯を送った。棄教の理由はキリスト教会の一
 部に日本侵略の考えがあることを見抜いた為という説もある。    
 飫肥(おび)城(現宮崎県日南市)の資料館に彼らの資料が無いのはキリスト禁教の後、難を恐れてのことであろう。ところでこの歌の伊東満所像はどこにあるのだろうか。歌をみて飫肥城と思いこんでいたが、調べたところどうも飫肥城には満所像は無いようだ。都於郡(とのこおり)城跡(現宮崎県西都市)・日南駅前広場・大分市遊歩公園には銅像がある。いずれかの伊東満所像に向かって、飫肥城の資料館に天正遣欧使節の資料が無いことを思っている歌なのかもしれない。
 伊東満所の本名は祐益、日向の国主であった伊東義祐の孫にあたる。飫肥城を巡って島津家と伊東家で確執が続いたそうだが、義祐は1567年に飫肥城を奪取した。満所が生まれたのは飫肥城奪取のおよそ2年後ということになる。そういういわれのある城の資料館に彼等の功績を記す何ものも残されていないことに作者は感慨を抱いている。それは為政者に対する怒りか、為政者におもねる伊東家の保身に対する嘆きか、人間という存在に対するかなしみか、それらがない交ぜになったものなのだろうか。迫害されて失意の中で死に至った満所の産土の地からも見放されているような扱われ方に対して「孤独なりき」と嘆いている。わがことのように「き」を使って回想しているところが哀切である。
 余談であるが、天正遣欧少年使節団は帰国の折グーテンベルグ印刷機を持ち帰り、以後日本語の活版印刷が行われるようになったとのことである。これは派遣当初からの目的の一つで、使節団の随員として印刷技術習得要員の少年二名が同道した。もう一つ、蛇足だが、伊東満所の銅像が建っている都於郡(とのこおり)城跡では、2012年、伊東満所没後400年ということで大々的に満所を顕彰する記念行事が行われたようである。(鹿取)


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馬場あき子の外国詠 118 スペイン⑦

2024-10-30 09:19:10 | 短歌の鑑賞
  2024年度版 馬場あき子の外国詠14(2009年3月)改訂版
    【西班牙 4 葡萄牙まで】『青い夜のことば』(1999年刊)P68~
    参加者:N・I、T・K、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:T・K       まとめ:鹿取未放

※この一連のまとめは、『戦国乱世から太平の世へ』(シリーズ日本近世史①藤井譲治)      のほか、『支倉常長』(大泉光一)・講談社『日本全史』等を参照した。
      

118 まだ少し騒がしきもの好きなれば葡萄牙まで海を見にゆく

      (レポート)
 モスクワ空港、西班牙の青、オリーブと歌の旅を続けてきたがまだ少し心騒ぐものを求めて葡萄牙の海を見にゆくというのである。ポルトガルの海、それは「地の終わり海の始まる」ところであり、大航海時代を思わせる海でもある。しかし作者は天正、慶長の遣欧使節として渡った人々を想う海だったのかもしれない……読む者の心も騒ぐ一首である。また、「騒人」は、中国で詩人の意味である。(T・K)


     (まとめ)
「騒人」が中国で詩人の意だというレポートを面白く読んだ。「まだ少し騒がしきもの」とはやはり詩人の心を惹きつける何かなのだろう。(鹿取)


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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 337

2024-10-29 17:09:43 | 短歌の鑑賞
  2024年度版 渡辺松男研究40(2016年7月)
    『寒気氾濫』(1997年)
    【明快なる樹々】P136~
     参加者:泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆    司会と記録:鹿取 未放


337 明快な樹と君はいう冬の日に欅のもとを行くあかるさよ

     (レポート)
 君は欅のことを明快な樹だという。葉を落とした欅の木のもとを、うたがわず行く君を作者は憧れを持って見ている。作者はものごとをなかなか単純には割り切れず、渾沌や逡巡する思いの中に闘い戸惑い生きているのだろう。君をまぶしく感じている作者のすがすがしい心を思う。(真帆)


     (当日意見)
★「君をまぶしく感じている作者のすがすがしい心を思う」とレポートにありますが、
 ここでは君はいなくてもいいと思います。たとえば「明快な樹とわれは言う」だと歌
 が扁平になるから君を登場させているだけですね。それで歌に奥行きが出た。松男さ
 んの手法だと思っています。(慧子)
★馬場あき子だったら「たれか言ひたる」っていう手法ですね。ほんとうは自分で思っ
 ているんだけど、それを「たれか言ひたる」と第三者をわざと登場させる。この歌で
 も君は架空の人でもいいとは思うけど、現実の人がいても面白い。感性も知力も美意
 識も詩的な力も作者と同等でないと言えない言葉だと思うのですが、そういう明晰な
 君が恋人だったりしたら楽しいかな。そういう明快な木のもとをふたりでゆく明る
 さ。(鹿取)
★あと、レポーターは「作者はものごとをなかなか単純には割り切れず」と書いてい
 て、それはきみは 明快な樹だというけど、〈われ〉はそう単純に割り切れないので
 は、と言いたいようだけれど、そこは違うと思います。〈われ〉も明快な樹だと
 思っている、だから非在のきみに言わせているというような慧子さんの意見も出て
 くる訳です。(鹿取)
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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 336

2024-10-28 09:59:02 | 短歌の鑑賞
  2024年度版 渡辺松男研究40(2016年7月)
    『寒気氾濫』(1997年)
    【明快なる樹々】P136~
     参加者:泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆    司会と記録:鹿取 未放


336 絹雲の高さが自由のごとく見え世界史にアレキサンダーを追う

    (レポート)
 絹雲の高々としたさまが、自由の象徴のようにみえたのだろう。そんなとき、東方遠征を行いペルシャを征服し、わずか十年で東はインダス川に達する大帝国を築いたアレキサンダー、アレクサンドロス3世の歩みを思い出したのだろう。(真帆)


    (当日意見)
★絹雲は巻雲が正しくてこの字は当て字のようです。(曽我)
★辞書ではどちらも載っていました。ところで、自由のごとくにちょっと引っかかっ
 たのですが、何かアレキサンダーの行った自由に関する政治があったのでしょう
 か?広々とした感じでいいかと最終 的には思ったのですが。(真帆)
★私は作者がアレキサンダーの歴史を調べていて、でもちょっと休みたいなと、そうい
 う自由はあるんじゃないかなと思った歌かと。(慧子)
★刻苦して世界史の勉強をしているのではないと思いますよ。空高く広がる絹雲を見
 ていたら、何かとっても解放された自由な気分になって、ふっと大昔のアレキサン
 ダーの事なんかを思ってみた。歴史を旅する気分ですよね。秋の空気感、淋しいよう
 なはかないようなはろばろとした気分それがア レキサンダーに通じたのじゃないで
 すか。(鹿取)

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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 335

2024-10-27 09:25:20 | 短歌の鑑賞
  2024年度版 渡辺松男研究40(2016年7月)
    『寒気氾濫』(1997年)
    【明快なる樹々】P136~
     参加者:泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆    司会と記録:鹿取 未放


335 ああ秋は汝とまむかい食べてみる巨峰の一粒ずつの完熟

     (当日意見)
★秋の豊かな気分を、完熟した巨峰に代表させている。そこに恋の気分も重ねられてい
 るのだろう。「バス揺れるたびにあなたの肩が触れ信濃は雷雨直後の青空」の続きに置
 かれているので、恋人と向 かい合って巨峰を食べていると素直に解釈していいと思
 う。(鹿取)


      (レポート)
 心豊かな楽しい一首だと思う。作者の秋の習いとして、実を完熟させた巨峰の木の労をねぎらい、また甘さに結実させた作品を吟味鑑賞するようにし、巨峰の一粒一粒にまむかうのだろう。汝は巨峰の実だ。(真帆)
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