かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 300

2021-08-31 19:47:35 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究37(2016年4月実施)
    【垂直の金】『寒気氾濫』(1997年)124頁~
     参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取 未放

300 秋桜の逆光の路へ行くひとよまぶしき路はにんげんを消す

     (レポート)
(解釈)秋桜の背後から逆光線がさしている。その光の海に向かう一本の路があり、逆光はその路をもまぶしく照らしている。この路を進んで行っているにんげんは、進むにつれだんだんと、逆光のなかに入ってゆく。しまいにはこの「まぶしき路」は「にんげん」を消した。
(鑑賞)「逆光の路へ行く」の構図の表現に注目した。まず読者の目に、秋桜の背後から照らす逆光線を見せる。このとき発句でイメージした秋桜の花々は、陽光の海原に覆われて消える。次いで、そこへ向っている一本の路をみせ、最後に路を歩いて行く人を光の中に消すという、映画のシーンのような技巧に驚く。また、この作者の歌に、光の集まる場所を霊の集まる場所としてとらえる歌があったが、この一首はむしろ、この「まぶしさ」の答えをここでは出さず、なんだろう?と、読者の関心を喚起する、連作の始まりの一首になっているのではないだろうか。(真帆)


      (当日発言)
★最初「ひと」と呼び、後で「にんげん」と置き換えています。異空間に入っていくような
 イメージですね。人間は消えてしまったのですけれど、それは可視光線では見えない。
   (石井)
★人間の存在って光と影があって出てくる。光だけになると存在感が消される。(鈴木)
★秋桜って逆光でなくてもはかない感じの花で、それを歌い出しに持ってこられたところが
 お上手だなと思いました。(慧子)
★人間が秋桜の中に紛れていっちゃうという感じがします。(M・S)
★秋桜って何か宇宙のコスモスに通じるような気がするのですが。(石井)
★私ははじめ宇宙のコスモスとかカオスという言葉も連想しましたが、漢字だからやはり逆
 光の中に咲く秋桜として解釈しました。(真帆)
★秋桜って聞くと秋の澄んだ空とその空気感を感覚的に思いますよね。人間も秋桜も映像化
 しておいて消してしまう、見せ消(け)ちの手法ですね。(鹿取)
★後の方の歌を読んでいくと、このひかりはただごとならぬひかりなんだろうなって思いま
 す。それ以上は曲解する気がして鑑賞はそこでとめましたが。まぶしき道って何か正しい
 道のような気がしたんですね。正と負があるとしたら「正」のような。われこそは正しい
 道を歩いていると言っているような人は人間らしさとか個性を消しているよと言っている
 ような。しかし松男さんの歌ってそんなふうに読んじゃいけないなと思い直しました。
    (真帆)
★真帆さんが今言ったようなことは、私も前回レポートしてそれを感じたんですよ。正しい
 とかそういうことではなくて、まぶしい光のなかでというのは、この世の中で光り輝いて
 いる人たちっていますよね、善悪ではなくて。そういう人たちって人間らしくないのでは
 ないかと。人間って光と影と両方持っていて人間なんじゃないかと。それを一方だけ取り
 だして光だけになると人間って消えちゃうよと、そういうことも言っているんじゃない
 かと。しかし、秋桜とは何を意味するのかとか、そんなことは松男さんはしないと思い
 ますよ。塚本邦雄なら何かを象徴させるって するかもしれないけど。(鈴木)
★前の章の職場のリアルな歌の続きとして読むと、眩しいを正しいとは思いませんが、不如
 意な思いをして生きている人を応援している気分かなと。でも、深読みはしない方がい
 い。(石井)
★秋桜って種がばーと散っていって別のところで群れて咲きますね。だから群れている人々
 のことかともとれます。(真帆)
★いろんな読み方があっていいのでしょうが、私は「まぶしい」とか「ひかり」というもの
 をそういう社会的な観点から読まない方がいいと思います。この歌、両側に秋桜が群生し
 ている一本の路を人が歩いている、道の向こうにおそらく沈もうとする陽があって非常に
 まぶしいので、人間 の姿がよく見えなくなる。そういう現象は別に不思議なことではな
 くて、日常ふつうに経験する ことですよね。でも、こう表現されると何か存在の奥深い
 ものを暗示されているような気がする。 その辺りをレポーターは「『まぶしさ』の答え
 をここでは出さず」というように書いていらっし ゃるのだと思います。「光の集まる場
 所を霊の集まる場所としてとらえる歌があった」とレポートにあるのは、私がとても気
 になっている「まぶしさの中にかがやくまぶしさ」の歌がある「非常口」の一連だった
 と思うのですが。「まぶしい」とか「ひかり」というのが松男さんの心を深いところとい
 うか異次元に誘う特別のものなんだろうと思います。(鹿取)
   ひとつ死のあるたび遠き一本の雪原の樹にあつまるひかり  
   非常口からわれ逃げしときまぶしさのなかにかがやくまぶしさのあり
       2首とも(非常口)
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渡辺松男の一首鑑賞  299

2021-08-30 17:11:30 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究36(16年3月実施)
    【ポケットベル】『寒気氾濫』(1997年)120頁~
     参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、曽我亮子、船水映子、渡部慧子
     レポーター:鈴木 良明 司会とテープ起こし:泉 真帆


299 家族ああ昨日とまったく同位置にポットはありて押せば湯がでる

     (レポート)
 テーブルの上の定位置にポットが置かれていて押せば湯が出る。それは太陽が毎日東か昇り西に沈んでゆく自然の運行のように、ついあたりまえと思ってしまう。しかし、その陰でそれを毎日用意してくれている今の家族の存在にあらためて気づき、そのかけがえのなさに、「家族ああ」と感嘆しているのだ。(鈴木)


      (当日発言)
★本音の心の奥底にこの思いがある。家に休日は日向ぼっこのようなご家庭がおありになる
 から幸せ。すごく知性豊かなすばらしい日本人。(船水)
★いつも適温の湯が出ることは、ポットに水を足したりする陰の家族達の力、バックアップ
 があってのこと。その素晴らしい家庭を感じます。(M・S)
★私達はなくしてはじめて、そのものの尊さを感じる。家族とは当たり前だが、本当にいて
 よかったと。ポットも、いつも置いているポットが押したらすぐ湯が出るとか、いつも置
 いているパソコンがそこにあるとか。そういったありがたさ、幸せ、を詠っていらっしゃ
 ると思いました。(石井)
★家はいいなーという感じ。怖ろしい「死」も「政治」もないから。全てがいつものように
 あって、安心感があって、安らぐ。そういうことを詠んでいらっしゃる。(曽我)
★家族を語ればきっと語り尽くさないのだ。それをポットに象徴させ、思いをポットにひと
 つに置き換えて詠われたところが、お上手と思いました。(慧子)
★私などは、歳とって自分の体が思うように動かなくなってきて、だんだん当たり前のこと
 が有り難いと思う様になったが、松男さん、この年齢でこういう歌を詠えるって凄い。
  (鈴木)(※出版年の作者は42歳  鹿取注)


     (後日意見)
 この歌を長い間、家族の倦怠を詠んだものかと思っていた。「ああ」という詠嘆が私にそう読ませていた。しかし、皆さんの意見を読んでゆくと、なるほど家族の温かさを詠んだのかとも思う。この一連の流れからすると後者の読みの方がいいようだ。『寒気氾濫』には「妻」と明らかに書かれた歌は確か一首もなかったが、妻を対象化する必要がないほどなじんでいたということなのだろう。(鹿取)
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渡辺松男の一首鑑賞  298

2021-08-29 17:11:58 | 短歌の鑑賞

♪♪ブログ開設1000日目♪♪
なのだそうだが、それはこのパソコンになってからの話、
前のパソコンからのブログがどうしても引き継げなかったので、
全く同じブログ名でこちらを開設した。
前のパソコンから合わせればもう3000日に近いかも……
今後ともどうぞよろしくお願いします。


 渡辺松男研究36(16年3月実施)
    【ポケットベル】『寒気氾濫』(1997年)120頁~
     参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、曽我亮子、船水映子、渡部慧子
     レポーター:鈴木 良明 司会とテープ起こし:泉 真帆


298 死と政治のみがおそろし休日の日向に小椋佳など聴けど

     (レポート)
 中世の権力は特定の権力者が死刑への恐怖によって人々を支配し秩序を維持する「死の権力」だった。近代になってからは人々は自由な主体になったと思いこんでいるが、生の権力による一定の訓練を受け入れ、規格に従うことによって初めて社会の中で生きることができ、裏を返せば従わないと社会的な死を意味するのである(ミシェル・フーコー)。だから、休日の日向に小椋佳(仕事と趣味を自在にこなしている自由人のように見える)を自由に聴いていても、生殺与奪の権力を持つ政治(生の権力)による死の不安が常につきまとっているのである。自ずからなる死も政治による外からの死もともにおそろしいのである。
  (鈴木)


          (当日発言)
★この「政治」というのが唐突で。不可抗力なものとして捉えてらっしゃるのか、ちょっ
 とど のように捉えていいのかが分りませんでした。(石井)
★小椋佳さんは職業人だったんですね。銀行にお勤めだった。(曽我)
★第一勧銀(石井)
★それで銀行の仕事も全部こなしたうえで音楽もやっている。松男さんも小椋さんも東大
 出で、なんとなく親しみをもってるんだと思う。小椋さんの生き方をいいなあーと思って
 らっしゃるんじゃないかなーと思いました。(曽我)
★生き方より歌でしょうね。生き方に拠る歌。(石井)
★今の時代、よりこの「政治」、<生の権力>の意味が分かってきた。例えば今すごく右
 寄りに、社会的な状況もすでに報道も規制されつつあって、社会的な死です。一般の働
 いている者にとっては、正規・非正規で分けられている。社会的な訓練をきちんと受け
 ないと、落ちこぼれてアウトサイダーになってしまうということなんだと思うんです。
   (鈴木)
★政治というのは社会組織というものを変えてしまう、というような意味ですか。
  (石井)
★うん、権力はね。政治は権力なんですよ。(鈴木)
★政治は権力ですよね。(石井)
★それを生の権力と。生かすための権力と。今まで民主主義とか立憲主義とかうまく機能し
 ている時には怖さはなかった。それが独裁的なものになってくると、中世に逆戻りした
 ような。政治はどうしても流動的ですから。(鈴木)
★「小椋佳など聴けど」という下の句に結びつく必然性は。(真帆)
★どうしてかというと、松男さんは公務員として働いているけど、その組織からドロップア
 ウトすると、まさに社会的な死になる。公務員って途中で退職を余儀なくされたらあと食
 ってけないですから。そういう危険性というのはある。だから今、就職試験でみんな必死
 になってる…(鈴木)
★だからちょっと前に「女子職員同士のながきいさかいもひとりの臨職泣かせて終わる」も
 ありましたよね。(真帆)
★それのひとつの表現ですよ。(鈴木)
★組織の中にいる自分、ですかね。(石井)
★ピラミッド型ですから、いまの社会って。(鈴木)
★だから非正規職員はもうすぐに干されてしまうということ。派遣社員とか言ってますけ
 れども、そういうこと。言葉は良いですけれども。(石井)
★格差社会といってもいいのかも。(鈴木)
★そうすると、作者にとってこの「政治」は、お仕事、ということですか。(M・S)
★もっと広いと思う。松男さんは全体のことを考えてますから、仕事ってここだけのことじ
 ゃなくって。その仕事はどういう関わりでもってどういうものと繫がってるのか、という
 のを彼は見ていますから。だからやっぱり権力まで行きますよね。(鈴木)
★死も政治も非常に大きなテーマ。そういう深いところから…。(石井)
★そうそう、そういった大きなテーマの中で詠ってるんで、よりリアルな感じがする。原発
 作業員を詠った歌ありますよね。「したうけのそのしたうけのしたうけのさげふゐんぬる
 ッぬるッと被曝す」(『雨(ふ)る』2016年刊)作業員が原発の後始末するのを「ぬる
 ッぬるッ」と滑るというような詠み方をしてる。作業員の方の仕事を自分に移し替えて考
 えている。自分がまさにやっているような感じで。東日本大震災のときに被害が随分あっ
 た。津波の。その人たちに、とんでいって背中をなでてやりたい、「まぼろしのわがたな
 ごごろとびてゆき生きのこり哭くひとの背をなづ」(『雨る』)、「わが掌ひやくにひや
 くさんびやくあらばとおもふ慟(な)く背をさするまぼろし」(『雨る』)って歌がある。
 そういうところまで思いを届かせてしまう。そういう大きなところから詠っているので、
 すごく実感があるんですよね。目先のことだけじゃなくて。目先のことを詠うにしても
 やっぱり大きなこととの関わりの中で詠ってる。(鈴木)
★ということは、日本がどうなっていくかっていうような考えを入れて…。(M・S)
★背後にあると思いますよ。(鈴木)
★「聴きながら」じゃなくて「聴けど」だから。精神的には非常に自由な世界を求めてい
 るが、私に壁として死を考える意識と、鈴木さんが言われたような政治の世界がある。
   (石井)
★その対比みたいなところがありますね。(鈴木)
★そうですね。「おそろし」と、非常にきちっと詠われている。聴きながら、ではなくて、
 「聴けど」が効いているなあと。(石井)
★いつも癒される小椋佳の歌だけれども、という気持が「聴けど」じゃないかしら。
  (M・S)


      (後日意見)
 渡辺松男という人は常に社会全体を視野に入れてものを考えている人ではあろう。しかしこの歌で詠まれている死が政治によってもたらされる死、権力による死であるとは思わない。「政治と死」が唐突にうたいだされているが、それは小椋佳的な抒情世界と対置されたものだ。休日、優しい歌詞と優しいメロディで唱われる小椋佳の世界に聴き惚れているが、現実世界は正に政治によってがんじがらめにされていて生きにくい。その果てに待ち受けている死も怖い、そういう気分ではなかろうか。小椋佳が銀行員でありながらシンガーソングライターとして生きたことも、直接には関係ないように思う。(鹿取)

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渡辺松男の一首鑑賞 297

2021-08-28 18:16:58 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究36(16年3月実施)
    【ポケットベル】『寒気氾濫』(1997年)120頁~
     参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、曽我亮子、船水映子、渡部慧子
     レポーター:鈴木 良明 司会とテープ起こし:泉 真帆


297 酔えば吾が還りたくなる古典主義「ヴァルパンソンの浴女」の背中

     (レポート)
 フランスの十九世紀古典主義の画家アングルの描いた「ヴァルパンソンの浴女」は、背中を中心に背後の裸体が描かれている。そこには、装飾性やあからさまな官能性ではない、簡素で穏やかな女体のやさしい雰囲気がただよっており、構図の面から、「泉」(正面から立ち姿の裸体)や「オダリスク」(横たわり背後を見せる裸体)と比べても古典主義的な厳粛さがある。酔った作者は、いつもながらそこに還りたくなるのだが、もしかすると愛妻のことを思っているのかもしれない。(鈴木)



         (当日発言)
★酔わなくてもいつも、何か自分が安らぐものを体のどこか脇において持ってらっしゃる作
 者じゃないかなと。たまたまこの「ヴァルパンソンの浴女」っていうのを出しただけで、
 まだ何かいっぱい自分の心が安らぐものをお持ちの方と拝察しました。(船水)
★酔うことによって時代をぽーんと飛んで、古典の時代、昔の時代へ還る。古典主義がとて
 も大事なところだと思いました。(慧子)
★酔うと人って官能的になる。でクラシックに還るというか、例えば現代音楽よりもバッハ
 が良いとか。そんなクラシックで、しかも「浴女」。絵はその背中の線が非常に奇麗で。
 そういったところに還りたくなるという酔った勢いの官能的な気分が出ている。(レポー
 トにある)愛妻のことを思っている、だと有り難いですね。(石井)
★松男さんは古典主義者。だから何かがあると古い世界の穏やかな絵を好む。あからさまに
 前を見せるような絵じゃなく、背中を見せる穏やかな絵を好んでいる感じですね。
   (曽我)
★この連作の最後に、299番「家族ああきのうとまったく同位置にポットはありて押せば
 湯が出る」があるし、「ヴァルパンソンの浴女」にはあたたかなオフクロさん的なイメー
 ジがあったので、「還りたき」は帰巣本能みたいなものかと。(真帆)
★295番の「残業を終えるやいなや逃亡の火のごとく去るクルマの尾灯」も家に帰ろうと
 している。これが次の歌は「還る」。(慧子)
★一連で「去る」とか「還る」とか「逃亡」とか。うまく納めましたね。(石井)
★家に帰りたいんですねえ。(慧子)
★男性の特権ですね、この帰るところが。(M・S)
★港なんですかね。(船水)
★酔ったら還りたくなるというこの「還り」という字を使いたくなる気持は女性だって分
 る。女の人だって、酔って官能的に本能的なところに還りたいような、ありますよね。こ
 れはそれを表しているような感じがします。(慧子)
★しっくり行きますね。ひょっとしたら動くのかもしれないけど、やはり松男さんの本音と
 いうのか、表現されていますね。なにかすごい時空を含んでいるような感じがします、こ
 の歌で。この「還りたい」という字でね。(慧子)
★296番「酔い痴れてわれらスナック去りしあとタガログ語にて罵倒されいん」の後にあ
 るということは、これは、言い訳なんですよ。296番だと、酔い痴れて罵倒されてい
 る、スナックで何したのって話になる訳ですよ。でそのときに、そんな変なことしてな
 いよ、それで罵倒されたんじゃあないよ、ということを297番で詠ってないと、あとで
 奥さんから何言われるか分んないでしょ。(鈴木)
★(一同笑)
★奥様のための歌集かしら。(石井)
★そこまで極端じゃあないけど、気持はありますよね。(鈴木)
★じゃあ恐れ入りますが質問です。鈴木さんはこの例えば、吾が還りたくなる……何を
 お入 れになりますか?(船水)
★それは、酔ってみないと分らないですね。(鈴木)
★そこがね、人それぞれ違いますものね。(M・S)
★わたしは無に還りたい。(鈴木)

      (後日発言)
 アングルは、正確には「新古典主義」の画家ですね。「ヴァルパンソンの浴女」は穏やかな官能性を持つとか評されているけれど、どちらかといえばお母さんの背中、のような安定感を感じる。酔った〈われ〉が還っていきたいのは、そういうお母さん的な安堵感ではないか。(鹿取)

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渡辺松男の一首鑑賞  296

2021-08-27 18:58:57 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究36(16年3月実施)
    【ポケットベル】『寒気氾濫』(1997年)120頁~
     参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、曽我亮子、船水映子、渡部慧子
     レポーター:鈴木 良明 司会とテープ起こし:泉 真帆


296 酔い痴れてわれらスナック去りしあとタガログ語にて罵倒されいん

        (レポート)
 残業が続いたある日、職場の同僚たちと、フィリピン人が働くスナックにでも立ち寄ったのだろう。酔い痴れて日ごろの不満やうっぷんを吐くうちに座が荒れてくる。たどたどしい日本語しか話せないフィリピン人のホステスは座をうまくとりもつことができずに、店の雰囲気を壊した客のわれらを帰してしまったことで、今頃店長からタガログ語で罵倒されているだろうと、作者は帰路、回想している。(鈴木)


          (当日発言)
★タガログ語を話すホステス達が、酔い痴れて帰った客を罵倒していると読みました。
   (慧子)
★そう思います。(M・S)(船水)
★「いん」って推量ですよね。(船水)
★私もそう取りました。おそらく酔い痴れてなにか上司の悪口言ったり、好き勝手なことを
 したんですね。でもフィリピン人のこのホステスは、うまく取り繕い、うまく対応した。
 その鬱憤を「われら」が帰った後に、母国語であるタガログ語で、ホステス同士、あの客
 は変だったね、おかしかったね、嫌だったねと、罵倒してると想像したんですけれど。
   (石井)
★「罵倒されいん」という言葉が強いものだから、いないところで人を罵倒するってあるだ
 ろうか、という感じも強かった。酔い痴れてそこで不満ばかりならべて、結局酒はたいし
 て飲まないで帰っちゃったので、店長から「この責任誰が取るんだ」とそこに残された人
 (ホステスさん)たちが罵倒されたのかと。慧子さんが読まれるように、そこに登場して
 ない人を出しちゃいけないかもしれない。いろんな体験を思い出すと、どれに納めていい
 いかということもある。(鈴木)


       (後日意見)
 おそらくホステス達は酔い痴れた客の馬鹿らしい言動に耐えてうまく取りなしたのだろう。しかし客が帰った途端なんという酷い奴らだと口々に客を罵倒している。そんな様子を客であった〈われ〉が「今頃ホステス達からわれわれは罵倒されているだろうなあ」と想像している。〈われ〉にはそれだけ酔い痴れた自覚や後ろめたさがあるのだろう。
 レポーターの「今頃店長からタガログ語で罵倒されているだろう」は考えられない。店長はフィリピン人とは考えにくいし、フィリピン人のホステスを雇っている日本人経営者が相手を罵倒できるほどタガログ語が達者だとも思えない。(鹿取)
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