馬場あき子の外国詠51(2012年4月実施)
【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P96~
参加者:N・K、崎尾廣子、鈴木良明、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部 慧子 司会と記録:鹿取 未放
369 ドナウ川のひと日の風景にすぎざるをあひ群れて撮すわが身かなしも
(レポート)
あそびのごとく「あひ群れて撮す」時があるのだが、堅固な城の側ではなく、滔々と流れていかなるものものみこんでしまいそうな「ドナウ川の」そばだ。そこで「ひと日の風景にすぎざるを」そんな感慨をもったのは「ドナウ川の」悠久のなかの「ひと日」と作者の人生のある「ひと日」との落差によるのだろう。「わが身かなしも」に愛しと哀しの二文字が浮かぶ。(慧子)
(当日発言)
★「ドナウ川」は他の川でも取り替え可能。(鈴木)
★自分がドナウ川を見た時は、台風の後だったせいか汚なかった。しかし他の川と違い有名だし、
ここには四季折々の風景の変化がある。だから取り替え可能ではない、ドナウ川としての説得
力があるのではないか。(N・K)
★どこに立ってドナウ川を見ているのかが分からない。スイスのロイス川の歌でも、どこから見
ているか分からなかった。(藤本)
★確かに「ドナウ川」はボルガ川にもアムール川にも置き換え可能に見える。この川でないとい
けないことを説得力あるようにどうして出すかは難しい。それで「去来抄」に〈行く春を近江
の人と惜しみけり〉という句についての問答があるのを思い出した。{と、「去来抄」の概略
を説明した後、①実景である ②歌枕であるという点で}あそこでは「行く春」を「行く歳」
に、「近江」を「丹波」に置き換えはできないという話だったが、この歌ではどうか。(鹿取)
(まとめ)
当日の議論はここまでだったが、件の「去来抄」の部分を引用する。
行春を近江の人とおしみけり 芭蕉
先師曰く、尚白が難に近江は丹波にも、行春は行歳にもふるべしといへり。汝いかが聞き侍るや。去来曰く、尚白が難あたらず。湖水朦朧として春をおしむに便有るべし。殊に今日の上に侍ると申す。先師曰く、しかり、古人も此国に春を愛する事、おさおさ都におとらざるものを。去来曰く、此の一言心に徹す。行歳近江にゐ給はば、いかでか此感ましまさん。行春丹波にゐまさば本より此の情うかぶまじ。風光の人を感動せしむる事、真なるかなと申す。先師曰く、汝は去来共に風雅をかたるべきもの也と、殊更に悦び給ひけり。
芭蕉の質問に対して去来は、琵琶湖の湖水が朦朧として春を惜しむのにぴったりだ、実感があると答える。それに芭蕉が付け足して言う。昔の文人達も都の春に劣らず近江の春を愛したのだと。去来ははたと納得して、歌枕としての近江に思い至る。先人達が多く歌ってきた近江だからこそ、この情が浮かんできたのだと。さて、ドナウ川はどうであろうか。(鹿取)
【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P96~
参加者:N・K、崎尾廣子、鈴木良明、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部 慧子 司会と記録:鹿取 未放
369 ドナウ川のひと日の風景にすぎざるをあひ群れて撮すわが身かなしも
(レポート)
あそびのごとく「あひ群れて撮す」時があるのだが、堅固な城の側ではなく、滔々と流れていかなるものものみこんでしまいそうな「ドナウ川の」そばだ。そこで「ひと日の風景にすぎざるを」そんな感慨をもったのは「ドナウ川の」悠久のなかの「ひと日」と作者の人生のある「ひと日」との落差によるのだろう。「わが身かなしも」に愛しと哀しの二文字が浮かぶ。(慧子)
(当日発言)
★「ドナウ川」は他の川でも取り替え可能。(鈴木)
★自分がドナウ川を見た時は、台風の後だったせいか汚なかった。しかし他の川と違い有名だし、
ここには四季折々の風景の変化がある。だから取り替え可能ではない、ドナウ川としての説得
力があるのではないか。(N・K)
★どこに立ってドナウ川を見ているのかが分からない。スイスのロイス川の歌でも、どこから見
ているか分からなかった。(藤本)
★確かに「ドナウ川」はボルガ川にもアムール川にも置き換え可能に見える。この川でないとい
けないことを説得力あるようにどうして出すかは難しい。それで「去来抄」に〈行く春を近江
の人と惜しみけり〉という句についての問答があるのを思い出した。{と、「去来抄」の概略
を説明した後、①実景である ②歌枕であるという点で}あそこでは「行く春」を「行く歳」
に、「近江」を「丹波」に置き換えはできないという話だったが、この歌ではどうか。(鹿取)
(まとめ)
当日の議論はここまでだったが、件の「去来抄」の部分を引用する。
行春を近江の人とおしみけり 芭蕉
先師曰く、尚白が難に近江は丹波にも、行春は行歳にもふるべしといへり。汝いかが聞き侍るや。去来曰く、尚白が難あたらず。湖水朦朧として春をおしむに便有るべし。殊に今日の上に侍ると申す。先師曰く、しかり、古人も此国に春を愛する事、おさおさ都におとらざるものを。去来曰く、此の一言心に徹す。行歳近江にゐ給はば、いかでか此感ましまさん。行春丹波にゐまさば本より此の情うかぶまじ。風光の人を感動せしむる事、真なるかなと申す。先師曰く、汝は去来共に風雅をかたるべきもの也と、殊更に悦び給ひけり。
芭蕉の質問に対して去来は、琵琶湖の湖水が朦朧として春を惜しむのにぴったりだ、実感があると答える。それに芭蕉が付け足して言う。昔の文人達も都の春に劣らず近江の春を愛したのだと。去来ははたと納得して、歌枕としての近江に思い至る。先人達が多く歌ってきた近江だからこそ、この情が浮かんできたのだと。さて、ドナウ川はどうであろうか。(鹿取)
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