かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 7

2025-03-20 10:53:12 | 短歌の鑑賞

 2025年度版 渡辺松男研究2の1(2017年6月実施)
 『泡宇宙の蛙』(1999年)【無限振動体】P9~
  参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:渡部慧子            司会と記録:鹿取未放 

                
◆『泡宇宙の蛙』の歌集の鑑賞に入る前に、「かりん」2010年11月号の渡辺松男特集で、大井学さんのインタビューに渡辺松男氏が答えた記事の一部を紹介しておきます。(鹿取)

 『寒気氾濫』は無意識的に設定している、ある枠のなかに大方納まっていると思いました。(その枠のおかげで受け入れてもらえたのだと思いますが)。『泡宇宙の蛙』はその枠をやぶろうとしたのだと思います。その枠のなかに、前提としている作歌主体そのものの自己同一性がありました。在ることの不思議、無いことの不思議、生命のこと、そういう次元を詠まなかったなら、私(に)とって歌は意味のないものになっていました。存在に寄り添うこと、それを掬うこと、それを包むこと、あるいは包まれること、それに成りきること、それらのことはいつもこちら側にいる自己同一的実体的作歌主体にとどまっているかぎり不可能なことでした。


7 頭のなかに茸がぎっしり詰まっては冷蔵庫のようで眠れやしない

            (まとめ)
 書いてあるとおりにとって、頭の中には本当に茸がびっしり詰まっている像を思い浮かべた。まあ、冷蔵庫は新鮮さを保つために働いて眠ることが出来ないのだろうが、〈われ〉はびっしり詰まった茸の本質を守るために眠れないのだろうか。次の歌(森林そのものになりたき菌ひとつ増殖をし分裂をし 熊楠叫ぶ)を見てもそうだが、茸と知識・情報というものとは全く相反するもので、茸は原始的な生命そのもののようだ。そういう原始そのものの茸が頭の中に詰まっていて眠れない。      (鹿取)

 

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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 6

2025-03-19 10:18:38 | 短歌の鑑賞

 2025年度版 渡辺松男研究2の1(2017年6月実施)
 『泡宇宙の蛙』(1999年)【無限振動体】P9~
  参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:渡部慧子            司会と記録:鹿取未放 

                
◆『泡宇宙の蛙』の歌集の鑑賞に入る前に、「かりん」2010年11月号の渡辺松男特集で、大井学さんのインタビューに渡辺松男氏が答えた記事の一部を紹介してお きます。(鹿取)

 『寒気氾濫』は無意識的に設定している、ある枠のなかに大方納まっていると思いました。(その枠のおかげで受け入れてもらえたのだと思いますが)。『泡宇宙の蛙』はその枠をやぶろうとしたのだと思います。その枠のなかに、前提としている作歌主体そのものの自己同一性がありました。在ることの不思議、無いことの不思議、生命のこと、そういう次元を詠まなかったなら、私(に)とって歌は意味のないものになっていました。存在に寄り添うこと、それを掬うこと、それを包むこと、あるいは包まれること、それに成りきること、それらのことはいつもこちら側にいる自己同一的実体的作歌主体にとどまっているかぎり不可能なことでした。


6 月光のこぼれてはくるかそけさよ茸は陰を選択しけり

          (まとめ)
 茸が闇を選択したのは、茸という種の意志としてそうしたという事だ。人類が二足歩行を選択た、というような意味合いで。陰であり湿った場所が繁殖に適しているということだ。そうして茸は陰に生えているけれど、そこに月光がこぼれてくる、それもかそかだと捉えているところがほそみというか美しい捉え方になっている。これは日々茸となじんでいる作者の実感だろう。だからこそ「けり」で「闇を自ら選択したんだなあ」というしみじみとした詠嘆が活きるのだろう。(鹿取)

 

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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 5

2025-03-18 10:24:40 | 短歌の鑑賞

 2025年度版 渡辺松男研究2の1(2017年6月実施)
 『泡宇宙の蛙』(1999年)【無限振動体】P9~
   参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部慧子            司会と記録:鹿取未放 

                
◆『泡宇宙の蛙』の歌集の鑑賞に入る前に、「かりん」2010年11月号の渡辺松男特集で、大井学さんのインタビューに渡辺松男氏が答えた記事の一部を紹介してお きます。(鹿取)

 『寒気氾濫』は無意識的に設定している、ある枠のなかに大方納まっていると思いました。(その枠のおかげで受け入れてもらえたのだと思いますが)。『泡宇宙の蛙』はその枠をやぶろうとしたのだと思います。その枠のなかに、前提としている作歌主体そのものの自己同一性がありました。在ることの不思議、無いことの不思議、生命のこと、そういう次元を詠まなかったなら、私(に)とって歌は意味のないものになっていました。存在に寄り添うこと、それを掬うこと、それを包むこと、あるいは包まれること、それに成りきること、それらのことはいつもこちら側にいる自己同一的実体的作歌主体にとどまっているかぎり不可能なことでした。


5 するすると世界を抜けてゆくきのこ今宵は白く川の辺に佇つ

          (まとめ)
 映像としてこの世界を抜けていく茸を思い浮かべてみる。この茸は一本か集団か迷ったが、山毛欅の倒木を埋め尽くす無数のキノコの写真を図鑑で見た後なので(どこにも集団とは書いてないけれど)無数のきのこが見渡す限り一列に連なってするするとこの世界を抜け出ていく様子を想像した。川のほとりに今宵は佇んでいて、明日はどこに行くのだろう。何か次元を超えての脱出行のようで痛快な気分になる。(鹿取)


      (歌集評)
 かくしてきのこは汚れた世界から脱出してとうとうと白く流れる川のほとりに屹立する。きのこがすべての生物の存在を代表するのである。(鶴岡善久)
 「森、または透視と脱臼」(「かりん」2000年2月号) 

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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 4 

2025-03-17 15:02:06 | 短歌の鑑賞

2025年度版 渡辺松男研究2の1(2017年6月実施)
 『泡宇宙の蛙』(1999年)【無限振動体】P9~
  参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:渡部慧子            司会と記録:鹿取未放 

                
◆『泡宇宙の蛙』の歌集の鑑賞に入る前に、「かりん」2010年11月号の渡辺松男特集で、大井学さんのインタビューに渡辺松男氏が答えた記事の一部を紹介しておきます。(鹿取)

 『寒気氾濫』は無意識的に設定している、ある枠のなかに大方納まっていると思いました。(その枠のおかげで受け入れてもらえたのだと思いますが)。『泡宇宙の蛙』はその枠をやぶろうとしたのだと思います。その枠のなかに、前提としている作歌主体そのものの自己同一性がありました。在ることの不思議、無いことの不思議、生命のこと、そういう次元を詠まなかったなら、私(に)とって歌は意味のないものになっていました。存在に寄り添うこと、それを掬うこと、それを包むこと、あるいは包まれること、それに成りきること、それらのことはいつもこちら側にいる自己同一的実体的作歌主体にとどまっているかぎり不可能なことでした。


4  概念を重たく被り耐えているコンイロイッポンシメジがんばれ

         (まとめ)
 コンイロイッポンシメジはアカマツなどの茂った針葉樹林などの地上に発生するそうだ。画像を見ると紺の色がやや無気味な小さい茸だ。千本茸のように群れていないので人間に勝手に「コンイロイッポンシメジ」などという名前を付けられ、そういう概念を被せられている。そんな茸に向かって作者は頑張れと声援している。(鹿取)


          (後日意見)
 「地に立てる吹き出物なりにんげんはヒメベニテングタケのむくむく」について、渡辺松男は「人間のたとえに使ってしまい、ヒメベニテングタケには申しわけないことをしたと思っています」と「かりん」2010年11月号の渡辺松男特集号で発言しているくらいだから、人間は自然界の他のものに対して、むしろ加害者だという意識が強いのだろう。少し先の頁に出てくる次の歌なども同じ感受の仕方だと思う。    (鹿取)
ごうまんなにんげんどもは小さくなれ谷川岳をゆくごはんつぶ    『泡宇宙の蛙』

 

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渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 3

2025-03-16 10:50:27 | 短歌の鑑賞

2025年度版 渡辺松男研究2の1(2017年6月実施)
 『泡宇宙の蛙』(1999年)【無限振動体】P9~
   参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、A・Y、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:渡部慧子            司会と記録:鹿取未放 

                
◆『泡宇宙の蛙』の歌集の鑑賞に入る前に、「かりん」2010年11月号の渡辺松男特集で、大井学さんのインタビューに渡辺松男氏が答えた記事の一部を紹介しておきます。(鹿取)

 『寒気氾濫』は無意識的に設定している、ある枠のなかに大方納まっていると思いました。(その枠のおかげで受け入れてもらえたのだと思いますが)。『泡宇宙の蛙』はその枠をやぶろうとしたのだと思います。その枠のなかに、前提としている作歌主体そのものの自己同一性がありました。在ることの不思議、無いことの不思議、生命のこと、そういう次元を詠まなかったなら、私(に)とって歌は意味のないものになっていました。存在に寄り添うこと、それを掬うこと、それを包むこと、あるいは包まれること、それに成りきること、それらのことはいつもこちら側にいる自己同一的実体的作歌主体にとどまっているかぎり不可能なことでした。


3  ジョン・ケージ『四分三十三秒』のすずしさよ茸すぱすぱと伸ぶ

     (当日意見)
★動画でこの音楽を聴いてみました。このジョン・ケージは茸が好きなんだそうです。作者は知っていて引っ張ってこられたんですね。この無音は東洋の思想や鈴木大拙の禅などの影響とも言われていますし、エリック・サティの音楽を茸に例えたとかも言われています。作者はこの無音の音楽をすずしさと言われた。それとすぱすぱと伸びるあたりがよく分からないのですが。まあ音のない所で伸びていくということでしょうが。(A・Y)


     (まとめ)
 「すずしさよ」で場面は切れているのだろう。4句めが句割れになっていて「すずしさよ」までで無音の音楽を提示し、以下で茸の伸びる場面に飛ぶ。「すぱすぱ」という小気味よい擬態語が「すずしさよ」とSの音でさりげなく繋がっている。さらりと詠っているようでとても技巧的な歌だ。ところで、すずしいというのは松男さんの愛用語の一つで、時々出てきて、独特の思い入れがあるようだ。A・Yさんが言われたように、ジョン・ケージは前衛的な作曲家であり詩人であり、よく知られた茸研究者である。自然の音に託すというジョン・ケージの音楽の思想と自然界で元気いっぱいきのこが伸びる情景とは切れているようで繋がっている。松男さんも茸狩りが好きだそうだが、楽しい歌である。
 化石を詠った「すずしい」の歌が『泡宇宙の蛙』の中にあって、このすぐ後に鑑賞する予定だ。『寒気氾濫』の中にも、例えばこんな「すずしい」の歌があった。
欠陥とみなされているわが黙も夕べは河豚のようにすずしい
                                        『寒気氾濫』
透りたる尾鰭を見れば永遠はすずしそうなり化石の石斑魚(うぐい)
                                        『泡宇宙の蛙』
 これは余談だが、作曲家、一柳慧が戦後アメリカでジョン・ケージの自宅に招かれて行ったところ、考え方や行動が影響を受けるからと家具がない家で椅子もなく床に座って話をしたと発言している。(朝日新聞「人生の贈りもの」2017・6・20夕刊)(鹿取)

 

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