宝満山研究会(山岳宗教遺跡の保全と研究)

大宰府の北東に聳える宝満山の歴史的価値を掘り起こし、山の保全を考える会です。

宝満山の寺社史1

2009-02-09 | Weblog

今日も午前中の雨が降らない間
多くの方が下宮礎石群の発掘現場を
訪れていただいていたようです。
発掘はされておらず掘った箇所に
ブルーのシートが掛かっていますが
肝心の礎石群は露出していますので
見学はいつでも可能な状態です。
竈門神社の駐車場から鳥居をくぐって
本殿に上がる道すがらの右手に
竈門宮の下宮礎石群があります。

ここで少し宝満の寺社史にふれてみましょう。

 現在、太宰府市の北東、福岡平野の西を限る三郡山地の南端にある山が宝満山と呼ばれ、竈門神社上宮(山頂、標高830m)、中宮(8合目)、下宮(本社殿)が鎮座する。山の名称には歴史的には「御笠山」「竈門山」の異称もある(『筑前国続風土記』貝原益軒)。明治以前は神仏混交の修験の山として知られ、筑豊の英彦山を胎蔵界、宝満山を金剛界とする密教世界が形成されていた。竈門神社は延喜式内社、官幣小社に位置づけられた「竈門神」、「竈門宮」に連なるものとされ、『続日本後記』九仁明天皇承和7(840)年四月条の記事が史料の初出とされる(「宝満山玉依姫考」2004森弘子『日本宗教文化史研究』15)。山頂および山中の山頂を仰ぎ見る位置で8世紀後半から9世紀にかけての時期に土器を用いた祭祀行為の痕跡が複数箇所で見つかっている「古代の祭祀と信仰 宝満山祭祀遺跡群」1992年小西信二『太宰府市史考古資料編』太宰府市)。山頂の上宮地区においては皇朝銭、施釉陶器(三彩、二彩、緑釉、灰釉)、銅製儀鏡、土師器、須恵器、墨書土器などがあり、西斜面の辛野遺跡においては「蕃」銘を含む墨書土器が出土し、この山内での祭祀が大宰府による国境祭祀的背景を示唆する様相を呈している。

(つづく)